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盧植は儒学者にして名将

2023年1月18日

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宮下悠史

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名前盧植(ろしょく) 字:子幹
生没年生年不明ー192年
時代三国志、後漢後期
一族子:盧毓
年表175年 九江太守となる
184年 黄巾の乱
コメント劉備公孫瓚の師匠
画像©コーエーテクモゲームス

盧植は後漢書や正史三国志に記述があり、劉備公孫瓚の師匠としても有名です。

盧植は文武両道の名将と言っても、差し支えない人物です。

盧植の本職は儒学者ですが、盧植は黄巾の乱が起きると将軍に任命されました。

黄巾の乱の時に盧植は、張角の黄巾賊本隊を追い詰める活躍を見せます。

しかし、霊帝が派遣した宦官左豊に賄賂を贈らなかった事で罷免されています。

盧植は剛毅な性格でもあり、無官の時代から大将軍の竇武に意見書を出した記録も残っています。

今回は皇甫嵩朱儁と共に、黄巾の乱三傑にも数えられる盧植を解説します。

盧植は後漢書の呉延史盧趙列伝に盧植伝があり、下記の人物と共に収録されています。

呉祐延篤史弼盧植趙岐

盧植の性格

盧植は剛毅な性格をしており、身長は八尺二寸(195cm)もあったとされています。

八尺二寸の身長は関羽には及びませんが、張飛趙雲よりも盧植の方が身長が高い事になります。

盧植は目上の人に何度も諫言しますが、高身長だった事で威圧感もあった事でしょう。

それでいて盧植は剛毅な性格をしており、誰に対しても屈する事もなく勇気も兼ね備えていたとされています。

さらに、盧植は儒学にも精通しているなど、正に通好みの武将と言ってもよいでしょう。

盧植は劉備と同じ幽州涿郡の出身ですが、郷里でも目立った存在だったはずです。

馬融に師事する

鄭玄と共に学ぶ

若き日の盧植は馬融に師事した話があります。

馬融は光武帝に仕えた名将馬援であり、さらに先祖を辿ると戦国時代の趙奢に行き着きます。

盧植は馬融に学問を教わりますが、鄭玄も馬融の弟子の中におり共に学ぶ事となります。

後に鄭玄は後漢王朝でも最高峰と呼べる儒学者となり、孫乾や崔琰などにも学問を教えました。

盧植も鄭玄に負けず劣らずで、儒学を学んでいく事となります。

盧植は「儒将」と呼ばれる事もありますが、盧植の儒家の基本は馬融の元で身に着けたはずです。

盧植は緻密に学問の研究はしていましたが、章句には拘らなかった話があります。

女性には目もくれず

盧植は馬融の弟子となりますが、馬融には財力があり、女性を並べ歌や舞を躍らせる事も度々ありました。

時には、女性と戯れながら、馬融は授業を行っていたともされています。

馬融は多くの女性と戯れますが、盧植は一度も女性を見ようともしなかったと言われています。

盧植は学問に専念し、歌姫に対し興味を示しませんでした。

馬融は盧植の女性に興味を持たない姿勢を見ると「只者ではない」と思う様になります。

馬融の女性関係や生活は盧植も知っていたはずであり、盧植がなぜ馬融に学問を習おうと考えたのかは不明です。

盧植の方では「世を救いたい」とする志があり、馬融の学問を習い終えると、郷里に帰りました。

郷里での盧植は自分が学んだ事を、多くの人に教えた話があります。

盧植は正義感も強いだけでなく、堅物でもあったのでしょう。

ただし、盧植は辞賦は好きではなかった様ですが、お酒は一石を飲む事が出来たとあります。

師匠の馬融はふざけた部分があった様に思いますが、盧植は真面目な優等生と言った感じだったのでしょう。

尚、盧植の女性関係を考えると、後年に盧植が亡くなった時に、子の盧毓は10歳だった話があり、盧植は晩婚だった可能性もあります。

それを考慮すると盧植は女性よりも、勉学の追求という人であり、婚姻も遅かったのかも知れません。

竇武を諫める

西暦149年に後漢の桓帝が亡くなりますが、大将軍の竇武は霊帝を即位させました。

霊帝はまだ子供であり、実権を握っていた竇武は、霊帝を即位させた功績として、自分に封爵を与えようとします。

竇武の話を聞いた盧植は無官だったにも関わらず、竇武を諫める手紙を送りました。

盧植「現在の貴方の立場は周公旦や召公奭の様なものです。

聖王の建立は天下と関係する事であり、論者は貴方の功績が重いと考えているとか。

しかし、今回の場合は順序立てて即位させただけです。

これに一体何の功績がありましょうか。

誰の手柄でも無い様な功績は辞退すべきであり、辞退する事で名声を高めるべきです」

盧植は無官だったにも関わらず、後漢王朝で最も権力を持っていた大将軍の竇武に意見したわけです。

竇武は盧植の言葉に耳を貸さず褒賞を受け取りましたが、盧植の誰に対しても物怖じしない剛毅な性格を窺い知る事が出来ます。

尚、盧植の口から出た周公旦や召公奭は、西周王朝の初期の人物であり、周の武王が亡くなると幼い周の成王を輔弼した人物です。

九江太守

盧植は何度も州や郡から仕官する様に依頼がありました。

しかし、盧植は応じる事無く興味も示さなかった話があります。

それでも、盧植は後に博士として仕官しました。

175年に九江蛮が反旗を翻すと、中央の大臣達は盧植を九江太守とする様に推薦します。

後漢王朝の朝廷では、盧植が文武両道の臣下だと、名が通っていたのでしょう。

盧植は九江太守になると九江蛮を降伏させる事に成功しました。

しかし、盧植は直ぐに病気になったと上奏し、九江を離れ地元である幽州涿郡に戻る事になります。

劉備の師となる

盧植は幽州涿郡に戻ると、私塾を始め学問を教えた話があります。

この時に劉備は同族の劉元起に資金提供をしてもらい、劉徳然と共に盧植の元で学ぶ事になります。

盧植の門下生には公孫瓚もおり、劉備は公孫瓚の弟分となります、

ただし、劉備は犬、馬などを好んだとあり、儒家の様相とはかけ離れており、どちらかと言えば出来の悪い盧植の弟子といった感じだったのでしょう。

さらに言えば、劉備が盧植の元で教わっていた期間は、数カ月程度しかなかったのではないか?とも考えられています。

それでも、盧植は高名な学者であり、劉備は箔をつける事にはなったはずです。

尚、正史三国志や後漢書の記述を見ると、盧植が弟子の劉備を将軍として使う為に、呼び寄せたなども話もありません。

盧植にとってみれば、劉備は弟子の一人に過ぎなかったのでしょう。

学問への情熱

盧植は劉備や公孫瓚らに学問を教えただけではなく、尚書章句、三礼解詁という書物を書いた話があります。

この時に太学で石経が立てられ五経が、訂正される事になります。

これに対し、盧植は次の様に意見しました。

盧植「私は故南郡太守の馬融に学問を学び、現代の礼記は回りくどい表現が多い事を知っております。

私は以前に周礼などの間違った所を直そうと解詰を作りましたが、家が貧しく写本して献上する事が出来ませんでした。

願わくば、私の二人の弟子と共に東観で書を研究する仕事をさせては貰えないでしょうか」

盧植は学者としての道を歩みたいと考えていたのでしょう。

盧植はガタイは良かったわけですが、学者的な性質を持ち学問こそが、情熱を注げる分野でもあったはずです。

廬江太守

盧植は学者になりたかったわけですが、この時に南夷が反乱を起こし、廬江太守に任命されました。

盧植は過去に九江太守となっており、その実績を評価され廬江太守に任命されたのでしょう。

盧植はかなりの勉強家でもあり、政治にも詳しく職務は真面目に行った話があります。

しかし、盧植は部下に対しては細かな指示をせず、大まかな道理を守るだけだったとあります。

それから、1年くらいすると、盧植は議郎に任命されました。

これにより、盧植は中央に戻る事になったわけです。

東観

中央に召された盧植は馬日磾蔡邕、楊彪、韓説らと共に東観で五経の校訂や漢紀の編纂をする事になります。

盧植は元々は東観に行く事を希望しており、願ったり叶ったりだった事でしょう。

この時が盧植の人生の中で、一番の最良の時だった様にも感じています。

盧植は真面目な性格をしており、職務に励んだのでしょう。

しかし、霊帝は東観での仕事は急務ではなく、いつでも出来る仕事だと考えたのか、盧植を侍中に任命し後に尚書となる様に取り計らいました。

盧植としては東観にいたかったと思いますが、霊帝の命令には渋々でも従うしかなかったのでしょう。

霊帝への諫言

178年に日食が起こりました。

盧植は日食を理由に霊帝に、下記の様に述べ諫めています。

盧植「最近は日食が起こり、近頃は地震や彗星がよく現れると聞いております。

これは何かが起こる前兆ではないでしょうか。

禍を防ぐには賢人を登用し、疫病を防ぎ、敵に備え部下を整え無駄遣いは控えるべきです」

盧植は霊帝を諫めたわけです。

しかし、盧植の言葉は霊帝には響かず、霊帝は自らの行動を顧みる事は無かったと言います。

黄巾の乱

張角を追い詰める

184年に張角黄巾の乱を引き起こしました。

この時まで盧植はまともに軍隊を率いた記録もありませんが、いきなり北中郎将及び持節に任命され、護烏桓中郎将の宗員が副将となります。

大将軍の何進が都を守り、盧植は皇甫嵩朱儁と共に黄巾賊討伐に向かう事になります。

皇甫嵩と朱儁は南下し波才などの黄巾賊と戦いますが、盧植は張角の本隊と戦う事になります。

この時の盧植の軍事力に関しては未知数であったはずですが、戦いになると張角の軍を何度も破り、1万の黄巾賊を討ち取る大戦果を挙げる事になります。

張角は広宗に逃亡しました。

盧植は勢いにのって攻撃し、雲梯を製造するなど張角を追い詰めていきます。

このまま霊帝が何もしなければ、盧植は張角を破り黄巾賊討伐の最大の英雄となっていたのかも知れません。

宦官の怖さ

霊帝は盧植の元に宦官の左豊を派遣しました。

左豊は盧植の様子を見にいったわけです。

ある人が盧植に、左豊に賄賂を渡す様に進言しました。

しかし、盧植は剛毅な性格をしており、左豊に賄賂を渡さなかったわけです。

左豊は賄賂を得られなかった事で、霊帝の元に戻ると「盧植は勝てるのに攻撃命令を出さない」と讒言しました。

霊帝は左豊の言葉を信じ、盧植を逮捕する事になります。

盧植はあと一歩で英雄になれる所だったにも関わらず、監車に乗せられ罪人として都に戻る事となります。

盧植は宦官の怖さを知って瞬間でもあったはずです。

尚、三国志演義では盧植が監車に乗せられ劉備関羽張飛と会うシーンがあり、張飛が憤り読者の心を動かす内容となっています。

復職

盧植の後任には董卓がなりますが、董卓は黄巾賊を降す事が出来ませんでした。

左豊が盧植を「攻撃しない」事を理由に更迭された事から、董卓は無理な力攻めをするしかなく敗北したとする考えもあります。

結局は皇甫嵩が張梁、張宝を破り、張角は病死していた事から黄巾の乱は終結しました。

黄巾の乱でも最大の功績を挙げたのは、皇甫嵩となったわけです。

皇甫嵩は誰が見ても功績首位でしたが、自分の手柄とはせず、張梁や張宝を討ち取る事が出来たのは盧植のお陰だと述べました。

これにより盧植は罪が許され、尚書に復帰する事となります。

董卓との対立

何進を諫める

西暦189年に霊帝が崩御すると、少帝が即位する事になります。

何進の一族である何太后や舞陽君は宦官と上手くやって行こうと考えていましたが、何進は部下の袁紹らの進言により宦官を排除したいと思案する様になります。

この時に何進は袁紹らの進言により、董卓や丁原などの地方軍閥を集め、何太后を脅し宦官排除の要求を吞ませようとしたわけです。

盧植は董卓の危険性を認知しており、何進に次の様に諫めました。

盧植「董卓は凶暴で制御し難く、後で禍が起こる可能性があり呼ぶべきではないでしょう」

盧植は董卓を都に呼び寄せるのに反対しました。

しかし、何進は董卓を都に呼び寄せてしまい、何進自身が宦官に暗殺される事態となります。

何進が殺害された事を知ると袁紹、袁術、呉匡らが宮中になだれ込みました。

この時に盧植も動き宦官らと戦っています。

十常侍の張譲や段珪らは少帝や陳留王を連れて逃亡しますが、最終的に董卓が帝を保護し実権を握りました。

少帝の廃位に反対

董卓は百官を集め会議を開き少帝を廃位させ、陳留王を即位させようとします。

董卓は圧倒的な権力者であり、口を聞ける者もいませんでしたが、盧植だけは董卓の意見に反対しました。

董卓は盧植に猛反対された事で、激怒し会議を中止すると盧植を誅しようと考える様になります。

盧植の剛毅さは董卓相手でも発揮され、一歩も譲らなかったのでしょう。

董卓は盧植を処刑しようとしますが、蔡邕が盧植にフォローを入れました。

董卓は蔡邕の事を信頼しており、蔡邕は過去に朔方郡に流罪にされる所を、盧植に助けられた事があります。

蔡邕は盧植に恩義を感じており、恩を返すべく盧植を庇ったのでしょう。

さらには、議郎の彭伯も盧植を庇いました。

これにより董卓は盧植を殺害する事を取りやめ、免官としました。

尚、盧植は反対しましたが、少帝は廃位され、後には何太后と共に李儒に毒殺されています。

後漢王朝は献帝が即位しました。

盧植の最後

盧植は既に高齢であり、病気にも掛かった事から故郷に帰りたいと考える様になります。

しかし、故郷に帰れば董卓からの禍があると考えたのか、抜け道を通って轘轅に向かいました。

董卓は追手を出し懐県まで追わせますが、盧植を捕える事は出来なかったわけです。

盧植は上谷郡に着くと人と、関わらない生活を続けました。

反董卓連合が結成された時も盧植は動かなかった様です。

後に袁紹が韓馥から冀州牧の位を譲り受けると、盧植を軍師として招きました。

盧植は袁紹の軍師となった様ではありますが、西暦192年に病死しています。

盧植の最後の言葉などは記録がなく分かっていません。

尚、西暦192年は董卓や盧植を助けた蔡邕が亡くなった年でもあります。

盧植と曹操

207年に曹操郭嘉張遼らと、袁尚や袁煕を討伐する為に、烏桓を攻めました。

この時に、曹操は盧植の故郷である幽州涿郡を通った話があります。

曹操は涿郡太守に次の様に述べました。

曹操「盧植の名声は天下に広がっており、学者としても一流の人物だった。

多くの者が盧植の生き方を手本にしたのである。

私は彼の故郷に来てよかったと思う。

直ぐに盧植の墓を掃除し人を遣わせ、その子孫を労いたいと思う」

曹操は盧植を高く評価していた事が分かります。

曹操にとっては盧植は理想の人物の一人でもあったのでしょう。

尚、盧植の子の盧毓は魏に仕えており、曹丕曹叡、曹芳、曹髦に仕える事となります。

劉備の師匠の子孫が、ライバル国である魏に仕えるというのも、歴史も面白さだと感じました。

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