名前 | 宕蕈(とうしん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、三国時代 |
勢力 | 魏 |
コメント | 守善羌侯だったと記録されている。 |
宕蕈は正史三国志の注釈・魏書に名前が登場する人物です。
宕蕈は魏書によれば守善羌侯だったと記録されています。
宕蕈は宕姓になるのですが、正史三国志を見る限り「宕」を姓とする人物は、宕蕈以外で見つかりませんでした。
その為、宕蕈の一族だと思われる人物も分からない状態です。
宕蕈がどの様な経緯で守善羌侯になったのかも記録がなく、分からないとしか言いようがありません。
宕蕈は蜀との国境に駐屯していた様ではありますが、蜀軍の廖化の攻撃を受けています。
尚、宕蕈は陳寿が書いた正史三国志の本文には名前が登場しません。
廖化の攻撃を受ける
正史三国志の注釈・魏書に宕蕈に関する記録があると書きましたが、下記の記述があるだけです。
正史三国志 注釈・魏書より
9月。蜀の陰平太守の廖惇が謀反を行い、守善羌侯・宕蕈の陣を攻撃した。
これが238年の話とされており、蜀の廖惇が宕蕈を攻撃した事が分かります。
因みに、正史三国志の蜀書・宗預伝に廖化の元の名が「惇」だと記述があり、廖惇が廖化だと言う事は明らかです。
廖化は陰平太守になっていますが、陰平の地は諸葛亮の第三次北伐で、陳式に命じ魏の陰平と武都を攻撃した記録があります。
これを考えても、陰平は蜀と魏の最前線の地であり、宕蕈は魏軍の最前線に駐屯していた事になります。
廖化は諸葛亮の北伐には全て参加したとも考えられており、この時点ではベテラン将軍であり手強い相手だったはずです。
それを考えると、記録には残っていませんが、宕蕈もそれなりの功績があり、蜀との前線に配置されたとも考えられます。
宕蕈のその後
宕蕈ですが、廖化の攻撃を受けた後に、どの様になったのかは記録がなく分かっていません。
ただし、宕蕈は廖化に攻められると、雍州刺史・郭淮に援軍要請をしたのでしょう。
郭淮は広魏太守の王贇及び、南安太守の游奕を宕蕈の援軍として派遣しています。
しかし、郭淮の立てた作戦に誤りがあり、魏の皇帝・曹叡が作戦を変更する様に勅書を立てましたが、勅書が到着する前に游奕は廖化に敗れ、王贇も流れ矢で亡くなっています。
これにより、宕蕈の援軍が撃破されてしまった事になります。
援軍は失敗しましたが、宕蕈は持ちこたえたのか、廖化の軍に撃破されてしまったのかは不明です。
廖化が宕蕈の陣を攻撃し続けたのか、後詰決戦を考え王贇や游奕に戦いを挑んだのかは記録がなく分かっていません。
宕蕈に対する記述も、史書から途切れており、この後にどの様になったのかは不明です。