三国志

廖化(りょうか)は蜀漢の始まりから終焉を見た生き証人

2022年7月24日

スポンサーリンク

名前廖化(りょうか) 字:元倹 別名:廖惇
生没年生年不明-264年
時代三国志、三国時代
主君劉備→劉禅
コメント蜀の建国から滅亡まで見届けた人物
画像三国志(コーエーテクモゲームス

廖化は三国志の蜀に仕えた人物で、荊州襄陽郡中廬県の出身です。

廖化は正史三国志に伝はありませんが、あちこちに記述があり、実在した事は間違いないでしょう。

廖化は蜀漢の建国から滅亡までを生き抜いた人物でもあり、蜀漢の生き証人とも呼べる人物です。

因みに、中国の諺で「廖化が先鋒を務める」というものがあります。

これは「人材不足」を意味する故事成語ですが、実際の廖化は命令を忠実に実行し、成果も挙げており、史実の廖化にはそぐわない言葉だと感じました。

廖化は地味な感じがするかも知れませんが、実際の廖化は蜀の武の支柱となり、姜維の北伐を多いに支えた人物です。

尚、正史三国志によると最初は廖惇を名乗っていた様ですが、廖化に改名したと記録されています。

改名した理由はよく分かってはいませんが、ここでは、混乱を防ぐために、廖化で統一する事とします。

 

蜀に復帰

蜀の荊州失墜

正史三国志の宗預によれば「前将軍・関羽の主簿だった」と記載されています。

主簿だった記録がある事から、廖化は最初は文官だったのではないか?とも考えられています。

荊州の事務方トップと言えば潘濬であり、関羽は潘濬を嫌っていましたが、廖化の方は好んでいた可能性もある様に思います。

廖化の人柄は「苛烈で烈士だった」と記載があり、関羽が好みそうな感じがするからです。

関羽が樊城の戦いで破れ、最終的に呉に捕らえられ斬られてしまいますが、廖化に関しては、次の記述が存在します。

※正史三国志 宗預伝より

廖化は呉に身を委ねた。

廖化は関羽亡き後に、呉にいた事になります。

 

偽情報を流し蜀に向かう

廖化は呉にいましたが、蜀に帰りたいと思っていたわけです。

廖化は蜀に帰る為の策として「廖化は死んだ」とする偽情報を流しました。

廖化の情報操作が巧みだったのか、当時の人々は「本当に廖化が死んだと思っていた」とする記録が残っています。

廖化は偽情報が上手く行ったと感じ、老母を連れ西行しました。

この時に、劉備が「関羽の仇」と称し、呉に侵攻している時だったわけです。

劉備と廖化は秭帰において出会う事となります。

劉備は関羽の配下だった廖化が、戻って来てくれた事を知ると多いに喜びました。

劉備はその場で廖化を宜都太守に任命しています。

陸遜伝を見ると劉備が「馮習を大督に任じ、張南を先鋒、別督に輔匡、趙融、廖惇(廖化)、傅彤らを任じた」とあり、廖化は劉備と合流し、そのまま夷陵の戦いに参戦したのでしょう。

廖化は関羽の配下だった頃は、主簿であり、夷陵の戦いが廖化の軍人デビューだったのではないか?とする見方もあります。

ただし、夷陵の戦いで劉備は陸遜に大敗し、白帝城に落ち延びますが、劉備は諸葛亮李厳に後事を任せ病没しました。

尚、夷陵の戦いは大敗北でしたが、向寵などは無傷で撤退した話があり、廖化もそれなりの采配を見せた事で、その後も軍人として活躍した様に感じます。

 

諸葛亮の時代

劉備が亡くなると劉禅が後継者となりますが、実際に政治を動かしていたのは諸葛亮です。

廖化は諸葛亮の時代に、丞相参軍になったとする記録があります。

諸葛亮の時代にあった廖化の出来事で記載があるのは、蔣琬が東曹掾となり、茂才の推挙されますが、蔣琬は受けず劉邕、陰化、龐延、廖惇(廖化)に譲り受けなかったとあります。

諸葛亮の時代の代表的な将軍と言えば、魏延と姜維であり廖化は非常に目立たない存在でした。

しかし、廖化は丞相参軍になっている事もあり、記録がないだけで全ての北伐に参加したのではないか?とも考えられています。

廖化が蜀軍の代表的な将軍になるのは、諸葛亮の死後に魏延が南谷口の戦いで、馬岱により殺害されてからです。

廖化を見ると用兵は魏延よりも、明らかに危険を犯さない諸葛亮に近いと言えます。

廖化も諸葛亮から学ぶ事は多かったのでしょう。

 

魏軍を各個撃破

どのタイミングなのかは不明ですが、廖化が蜀の陰平太守になった話があります。

陰平は武都と共に、諸葛亮の第三次北伐で陳式が魏から攻め取った地域です。

勿論、陰平は蜀と魏の国境に接する事もあり、緊張が走っていた地域だった事は明らかでしょう。

廖化が陰平太守になるのは、蜀における廖化の信頼度の高さの証とも言えるはずです。

正史三国志の注釈・魏書によれば、238年の9月に廖化が、魏の領土に侵攻し、魏の守善羌侯・宕蕈の軍を攻撃した話があります。

この事態に魏の雍州刺史の郭淮は、王贇游奕に宕蕈の救援を命じました。

郭淮は作戦を立て、王贇と游奕に別々の道から進軍させ、廖化を包囲殲滅しようとしています。

郭淮は廖化を既に破った気でおり、曹叡に上奏しますが、曹叡は「軍を分散させるのは不利」と判断し、廖化に攻撃を加えない様に指示しました。

しかし、廖化は曹叡の詔勅が到着する前に、游奕の軍を破り王贇を討ち取っています。

廖化の軍の規模は小さく、魏の国境を侵した程度のものだったと考えられますが、王贇と游奕を破るのは見事な手腕だと言えるでしょう。

尚、238年は蔣琬が大将軍府を開いた時期でもあり、蔣琬も北伐を考えており、魏を試すつもりで廖化を魏に侵攻させたのではないか?と考えられています。

この頃になると、蜀軍の幕僚のトップは蔣琬でしたが、代表的な将軍は姜維と廖化となっていました。

 

北伐反対派の台頭により出番がなくなる

蔣琬は北伐を考えていましたが、病死した事もあり、費禕の時代に移る事になります。

費禕は蜀の益州派閥のトップでもあり、魏に侵攻しようとはしませんでした。

益州派の人々は、自国内に領地を持っているなどもあり、自分達の領地を保証してくれるなら、トップは誰でもよく戦争を嫌った話しなどがあります。

費禕は大将軍となりますが、軍を動かさなかった事で姜維や廖化の出番はなくなって行く事となります。

しかし、蜀では姜維も重職に就け、姜維は北伐が行われなくても、腐る事もなく反乱鎮圧など手柄を立て続けました。

姜維はタカ派であり、北伐を考えており、費禕にも抑える事が難しくなっていき、結局は北伐の軍を出す事となります。

それでも、費禕はあくまでも北伐反対を貫いており、姜維に与えた兵は一万にも満たなかったとあります。

 

成重山の戦い

正史三国志の郭淮伝によると、西暦248年に蜀は魏に侵攻しました。

この時に、涼州では羌族が反乱があり、蜀軍は羌族の治無戴とコンタクトを取っていました。

姜維は治無戴と協力し、魏を攻撃したのでしょう。

姜維は廖化を成重山に配置し、城を築かせました。

ここで魏の郭淮は、またもや兵を分散し対応しようとします。

過去に魏軍は廖化に各個撃破された事があり、多くの諸将が反対しますが、郭淮は敵の不意を衝く事になると作戦を強行しました。

郭淮は廖化が籠る成重山に攻撃を仕掛けたわけです。

郭淮は夏侯覇に指示を出し姜維に当たらせ、自ら廖化を攻撃する事になります。

成重山の戦いでは、廖化が魏軍の攻撃を受けると、姜維が援軍に駆け付けますが、姜維が到着する前に廖化は敗れて退却しました。

廖化は戦いに敗れていますが、結論で言えば廖化に預けられた兵は少なく、与えられた任務は陽動であり、仕方なかったとも考えられています。

後に郭淮は廖化を破った事を評価され、魏の曹芳は「廖化を打ち破り勾安い捕虜にした」と詔勅を出し讃えた話があります。

 

鄧艾と対峙

姜維が退却すると、郭淮は姜維につけこみ、西方にいる羌族の攻撃に向かおうとします。

鄧艾が郭淮に「蜀軍が戻って来るかも知れないから、諸郡を分けて緊急事態に備える様に」と進言しました。

郭淮は鄧艾の意見を聴き入れ、鄧艾を白水の北に駐屯させます。

この三日後に姜維は廖化を派遣し、鄧艾にぶつけました。

この時に鄧艾と廖化は、川を挟んで対峙したと伝わっています。

姜維の作戦としては、鄧艾の軍を廖化に釘付けにして、姜維の本隊が北上し洮城を落とす作戦でした。

鄧艾は姜維の作戦を読んでおり、夜の内に陣を払い北上し洮城に入り防備を固めています。

姜維は鄧艾が守りを固めた事で、洮城を落とす事が出来ませんでした。

廖化の役目が鄧艾を釘付けにする事だったと考えれば、廖化は任務を達成する事が出来なかったとも言えます。

しかし、廖化と鄧艾の軍の間には川(白水)があり、渡河が出来なかったとも廖化が川を渡るリスクを嫌ったなどの話もあります。

廖化の用兵は手堅く危険を犯さないのが信条だったと考えられ、危険を犯して川を渡り鄧艾を急襲する様な策は持たなかったのでしょう。

尚、蜀の大将軍の費禕は252年に郭循に暗殺され、ここから先は姜維の北伐の時代となります。

魏でも司馬懿が曹爽との政争に勝利し、司馬氏の時代が訪れ、時代の転換期となりました。

 

右車騎将軍・并州刺史

廖化は段々と昇進し、右車騎将軍・并州刺史・中郷侯となります。

蜀の車騎将軍は過去には張飛がなった官職であり、軍務でも大将軍に次ぐ役職です。

車騎将軍は劉琰もなっており、名誉職とする見方もありますが、廖化は戦いに参戦し続けており、実力で右騎将軍になったとも言えるでしょう。

尚、左騎将軍には張翼がなっています。

因みに、華陽国志によれば「前に王平、句扶あり、後ろに張翼、廖化あり」と讃えられた話があります。

廖化が右車騎将軍になった頃には、間違いなく蜀の代表的な将軍だったと言えるでしょう。

蜀の軍務は大将軍に姜維がおり、左右のナンバー2として張翼と廖化がいた事になります。

因みに、張翼は259年に左車騎将軍になった話があり、同年に廖化も右車騎将軍になったと考えられています。

尚、廖化と張翼が左右の車騎将軍に任命されたのは、荊州派と益州派の軍人を一人ずつ置いた結果だともされています。

 

姜維の北伐

費禕が生きていた時代は大規模な北伐軍を起こす事が出来ませんでしたが、費禕が亡くなると姜維が国政を担う事となります。

しかし、姜維は外征を行う為に成都にはおらず、蜀の政治は陳祗が行いました。

陳祗は北伐推進派であり、これにより姜維は大軍を動かせる事になったわけです。

姜維は廖化と張翼を率いて大規模な北伐を行う事となります。

姜維は呉の諸葛恪と連携し、魏を攻めたりもしましたし、李簡の降伏の書状を受け取り、徐質を討ち取るなどの戦果も挙げました。

さらに、姜維は翌年も出兵し、魏の王経の軍を破り数万の兵を討ち取っています。

姜維の北伐には廖化も参加しており、大戦果を挙げたとも言えます。

魏が司馬氏の台頭で国内が荒れており、夏侯覇が蜀に亡命したりする中で、姜維と陳祗でがっちりと北伐で意見が固まっていたのも大きかったと感じました。

姜維配下の廖化や張翼も安定した働きを見せたのでしょう。

姜維は狄道を奪取し、もう少しで涼州が取れる所まで行きます。

姜維の動きに対し、魏の曹髦は陳泰や鄧艾に防がせる事としました。

姜維と鄧艾の間で段谷の戦いが起きますが、姜維は大敗を喫し国力を大いに削ぐ結果となります。

段谷の戦いで敗れた事で、蜀は北伐を行うにも困難な状況になってしまったわけです。

段谷の戦いにより姜維は軍権を大きく削られ、廖化や張翼を統率する資格までも剥奪されました。

さらに、258年に陳祗も亡くなり北伐反対派が勢いを増す事となります。

 

諸葛瞻への挨拶

陳祗亡き後の蜀の朝廷では、諸葛瞻、董厥、樊建などが力を持ち宦官黄皓も台頭してきたわけです。

この中でも諸葛亮の子である諸葛瞻が中心となっており、廖化は宗預の元を訪れ、諸葛瞻に挨拶に行こうと述べた話があります。

廖化は宗預を誘いましたが、宗預は「我々は70歳を超えているのに若輩(諸葛瞻)に、こせこせと挨拶しに行く必要はないだろう」と述べました。

宗預は諸葛瞻に挨拶には行きませんでしたが、廖化が諸葛瞻に挨拶に行ったのかは不明です。

しかし、廖化が若輩であっても、必要であれば気にせず頭を下げようとする姿は、廖化の思想を現わしている様に思います。

この話は西暦260年頃の話とも考えられ、逆算すると廖化が生まれたのが190年頃だった事が分かります。

 

廖化の進言

姜維は景耀5年(262年)に兵を率いて狄道に出兵しました。

段谷の戦いで敗れてから蜀軍は大きく衰えており、その中での出兵です。

漢晋春秋によると、姜維の出兵の中で廖化は次の様に述べた話があります。

廖化「戦争は火の様なものであり、戦争をやめなければ必ず自らを焼く。

これは伯約(姜維)に当てはまる。

智謀で相手を上回ってもおらず、武力も敵よりも劣っている。

あくことなく戦争を続けても、どうして手柄を立てる事が出来ようか。

『我より先立たず、我より遅れず』という言葉は、現在の状況に当てはまるものである」

廖化の言葉からは、姜維の北伐に対して反対の意思があった事が分かります。

正史三国志における廖化の記録は結果のみが記されていますが、姜維に対する言葉だけが廖化の本心として残ったと言うべきでしょう。

廖化は張翼と共に姜維の北伐を支えて来ましたが、段谷の戦いで敗れた事から、限界を感じていたはずです。

蜀の国力では北伐を成し遂げる事は出来ないと理解していた事でしょう。

 

 

蜀漢の滅亡

西暦263年に司馬昭は鍾会、鄧艾、諸葛緒に蜀を平定する様に命令しました。

姜維は蜀の朝廷に援軍依頼をしますが、劉禅が黄皓の「魏は攻めて来ない」の言葉を信じ動こうとしなかったわけです。

姜維は援軍が無かった事で漢中を棄て、剣閣で防備を固める事となります。

ここにおいて蜀の朝廷でも動きを見せ、廖化、張翼、董厥らを派遣し、姜維の援軍としました。

姜維や廖化、張翼、董厥は奮戦し、剣閣を攻めていたい鍾会は諦めて撤退しようとも考えます。

しかし、鄧艾が回り道をして、突如として蜀の領内に現れ綿竹の戦いでは、諸葛瞻や諸葛尚を破りました。

鄧艾は蜀の劉禅を降伏させています。

劉禅の降伏を知った剣閣の兵は「剣を石で叩き割った」とする話があります。

これを見ると姜維や廖化が指揮する剣閣の兵は、まだまだ戦意旺盛だったのでしょう。

尚、譙周伝の注釈の孫盛の言うには、劉禅の降伏が早すぎたと述べています。

蜀にはまだ姜維、廖化、羅憲、霍弋などが健在である事から、僻地に避難し呉の援軍を待ち戦いを継続すべきだったと述べています。

しかし、劉禅は戦いを行う事はなく、蜀は滅亡しました。

 

廖化の最後

劉禅の降伏後に姜維は鍾会をけしかけ乱を起こしています。

この乱で鄧艾も命を落としました。

しかし、結局は姜維も鍾会も兵士達の暴走により命を落としています。

廖化ですが、姜維や鍾会とは別行動を取っており、宗預と共に洛陽に送られる事となります。

廖化と宗預は洛陽に向かうわけですが、その道中で二人とも病死したとあります。

廖化は蜀漢が滅亡した後に、ぽっくりと逝ってしまったとも考えられるはずです。

今でいうと定年退職後に、ぽっくりと逝ってしまった様な感じでもあったのでしょう。

お気づきの方もいるかも知れませんが、廖化は蜀漢が建国された時代から、滅亡する時代までを生きた事になります。

廖化は派手さはありませんが、任務を忠実にこなす手堅い将軍だったとも言えるでしょう。

蜀漢の生き証人とも呼べる人物です。

 

廖化の先鋒

中国の諺ですが、「廖化が先鋒を務める」という言葉があります。

これは人材不足を指す言葉です。

つまり、昔は先鋒を務めたのは張飛や関羽と言った武将がいましたが、彼らがいなくなり仕方がなく廖化を先鋒にしたとする意味なのでしょう。

しかし、既に紹介した通り、廖化は決して愚将ではなく、優れた将軍だと言えます。

派手さはありませんが、手堅い用兵を得意とした様に感じました。

 

三國志演義の廖化

三國志演義の廖化の設定だと関羽に仕えた元黄巾賊という役回りですが、実際には廖化が黄巾賊だった話や、杜遠に誘拐された甘夫人や糜夫人を救った話もありますが、これらは史実ではありません。

三國志演義の樊城の戦いで、関平と廖化の防衛ラインが曹仁の援軍としてやって来た徐晃に破られるシーンもありますが、これも正史三国志には見つける事は出来ませんでした。

関羽が援軍として廖化を劉封や孟達の元に派遣しますが断られ、廖化は劉備のいる成都に事情を説明した話もありますが、これも三国演義の創作です。

他にも、諸葛亮の北伐で司馬懿が冠を落として逃走し、廖化が引っ掛かってしまうシーンもありますが、これも残念ながら史実ではありません。

先に述べた「廖化が先鋒を務める」の話は、これらを見ると一流の将軍と言った感じもせず、だからと言って愚将にも見えないのが原因ではないかと感じています。

史実の廖化は三国志演義の廖化よりも、優れた将軍だったと言えるのではないか?と感じています。

 

廖化の能力値

三国志14統率73武力76知力62政治49魅力65

 

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

スポンサーリンク