公孫続は正史三国志や後漢書の公孫瓚伝に名前が登場する人物です。
公孫続は公孫瓚の子で、幽州遼西郡令支県の出身となります。
公孫瓚伝の記録を見ると、公孫瓚は侯氏の娘と結婚した話がありますが、公孫続の母親が侯氏の娘だという記述はありません。
記録がない事から、公孫続は侯氏の娘の子の可能性もありますが、公孫瓚の妾の子の可能性もある様に感じました。
正史三国志の陳寿が書いた本文には公孫続の名は登場しませんが、裴松之が残した公孫瓚伝の注釈の方に公孫続の名が登場します。
正史三国志や後漢書の記述によると、易京の戦いで袁紹に追い詰められた公孫瓚が、公孫続に手紙を送り張燕に頭を下げて援軍を呼んで来る様に依頼しています。
しかし、公孫続の軍は破れ、公孫瓚は易京の戦いで自刃し、公孫続も命を落しました。
因みに、公孫続は三国志演義には登場しません。
挟撃策
公孫瓚は袁紹に界橋の戦いで破れ、劉虞を殺害するなどもあり、次第に追い詰められていく事になります。
こうした中で、公孫瓚は10年は持つと呼ばれた多大なる兵糧と共に易京の城に籠城しました。
袁紹は優勢に戦いを進めてはいましたが、城攻めに苦戦し数年を費やす事になります。
公孫瓚は易京の城に籠りますが、公孫続は外にいた様で、公孫瓚は文則を公孫続の元に派遣しました。
公孫瓚が文則に渡した手紙の中には、袁紹の軍にかなり追い詰められている事が書かれていたわけです。
さらに、公孫瓚は状況を打開する策として、公孫続には次の様に指示を出しています。
※正史三国志公孫瓚伝・注釈より
「お前は張燕に砕けるほど、頭を地面に打ち付け援軍を依頼し、軽騎兵を寄越す様にして欲しい。
軽騎兵が来たならば、北の方角から狼煙を上げる様にせよ。
私が狼煙を確認したら、城から打って出る事とする。
この窮地を脱することなく、私が滅びたとしたら、天下広しと言えどお前が安住の地を探しても見つかるはずがない」
公孫瓚は半ば脅迫めいた事を述べ、公孫続に張燕の元に行き援軍を連れて来るように依頼したわけです。
公孫続に張燕に対して頭が砕ける程に下げろと言っているわけであり、公孫瓚が如何に窮地に陥っているか分かります。
尚、公孫瓚は公孫続と張燕の援軍で、袁紹の軍を挟み撃ちにしようと考えた様ですが、関靖に諫められた話があります。
因みに、正史三国志の本文では、上記の文は「公孫瓚は息子を使者に立てて黒山賊に救援を依頼した」とあるだけです。
公孫続の最期
公孫続は公孫瓚の指示に従い黒山賊の張燕の救援を引き出す事に成功しました。
公孫続は張燕の軍と共に、公孫瓚がいる易京を目指します。
しかし、袁紹の方では公孫続と張燕が、易京への援軍に向かっている事を察知しました。
袁紹の配下には沮授や田豊など優秀な臣下が多くおり、隙は無かったのでしょう。
袁紹は公孫続の軍に対し、伏兵を配置し急襲する事となります。
不意を衝かれた公孫続は戦いに敗れ、救援の任務を達成する事は出来ませんでした。
199年になると易京の城が陥落し、公孫瓚も自刃する事になります。
正史三国志では公孫瓚が自刃する前に「その妻子を悉く殺害した」とありますが、公孫続は城外にいた為か逃げる事が出来た様です。
しかし、女神は公孫続には微笑まず、屠各により殺害されました。
公孫続を殺害した屠各は異民族だと考えられています。