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公孫瓚は白馬長史と呼ばれた最北端の雄

2022年12月5日

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宮下悠史

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名前公孫瓚(こうそんさん) 字:伯圭
生没年生年不明ー199年
時代後漢末期、三国志
一族子:公孫続 従弟:公孫越、公孫範
年表191年 界橋の戦い
193年 劉虞を破る
199年 易京の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

公孫瓚の字は伯珪であり、幽州遼西郡令支県の出身です。

公孫瓚は若き日の劉備の兄貴分としても有名だと感じています。

公孫瓚は白馬長史の異名を取り、白馬義従なる精鋭集団を持っており、一時は袁紹をも凌ぐほどの勢力を持っていました。

しかし、袁紹に界橋の戦いで破れ、さらには劉虞を殺害してしまった事で、四面楚歌となり、最後は易京の戦いで破れ最後を迎えています。

公孫瓚と言えば「ザコ」とか「クズ」などと呼ばれる事もありますが、実際の公孫瓚は容姿が優れ義侠心がある人物です。

今回は正史三国志にも登場し、白馬の騎馬隊を組織した公孫瓚を解説します。

尚、正史三国志の公孫瓚伝は二公孫陶四張傳伝の中にあり、下記の人物と共に収録されています。

公孫瓚陶謙張楊公孫度張燕張繍張魯

盧植の弟子となる

公孫瓚は豪族の出身でしたが、母親の身分が低かった事で、幽州遼西郡の門下書佐にしかなれませんでした。

公孫瓚は豪族でありながら、豪族としての恩恵を大して受ける事が出来なかったと言えます。

しかし、公孫瓚は容姿も優れ声も大きかった事で、侯太守は優れた人物だと考え、娘の侯氏と結婚させています。

さらに、侯太守は公孫瓚に非凡な才能があると考え、盧植の元に弟子に行かせました。

公孫瓚が盧植に学ばせる為にの資金は、侯太守が捻出したのでしょう。

盧植の元で知り合ったのが、劉備であり劉備は公孫瓚を兄の様に慕ったとあります。

劉備は人を惹きつける不思議な魅力を持っていると言われますが、公孫瓚も振る舞いなど魅力的な人物であったのでしょう。

尚、正史三国志では公孫瓚は盧植の元で経書を学んだとあります。

しかし、盧植は黄巾の乱で将軍となり張角の本体と戦っている事から、公孫瓚は盧植から経書だけではなく兵法を学んだ可能性もある様に思います。

公孫瓚は盧植の元を離れると再び郡に仕える事になります。

公孫瓚の仕事術

典略に公孫瓚の仕事ぶりに関しての記述があり、次の様に記載されています。

※正史三国志 公孫瓚伝・注釈典略

公孫瓚の弁舌は爽やかであり頭の回転がよかった。

報告する時は個別に説明しようとはせず、つねにいくつもの部局をまとめて説明した。

それ故に忘れたり間違ったりする事が無く、太守は公孫瓚の能力を高く評価した。

公孫瓚と言えば武将としての評価ばかりが先行する様に思いますが、実際には役人としても、かなり有能で仕事が出来る方だったのでしょう。

義信を称えられる

公孫瓚の上司にあたる太守の劉基は罪を犯し、廷尉に引き渡された事がありました。

法律では劉基に近づいてはならない事になっていましたが、公孫瓚は自ら進んで劉基の世話をした話があります。

劉基は日南郡への流刑と決まりますが、公孫瓚は北邙山の上に登ると肉や米をお供えとし、先祖の霊に別れを告げるべく、次の様に述べています。

※正史三国志 公孫瓚伝より

私は貴方たちの子孫ではありますが、現在は劉基に仕えております。

罪を犯した劉基と共に日南に行かねばなりません。

日南の地は疫病が多いと聞いており、生きて戻れない可能性もあります。

ここで先祖にお別れを申し上げます」

公孫瓚は言い終わると感情を高ぶらせて立ち上がったと言います。

公孫瓚の言葉からは悲壮感もあったのか、見ていた人たちは涙を流しました。

これを見る限り公孫瓚は義侠の人であり、多くの人が公孫瓚を慕う事になります。

因みに、公孫瓚の態度が役人たちの心を動かしたのか、劉基は途中で赦免され帰還する事が出来た話があります。

鮮卑族を恐れさせる

公孫瓚は孝廉に推挙され郎となり、遼東属国長史に任命されます。

遼東属国長史は異民族に対する治安維持の為の役職だったとも考えられています。

公孫瓚は辺境の地を視察した時に、数百騎の鮮卑族を発見しました。

しかし、公孫瓚の元には数十騎しかいなかったわけです。

こうした中で公孫瓚は物見台の中に隠れると、部下には次の様に述べます。

公孫瓚「今のうちの鮮卑族を突き破らねば、全員殺されてしまうぞ」

公孫瓚は味方の少なさと敵の多さを比較し、敵に見つからぬうちに不意打ちを行わなければ、全滅すると述べた事になります。

公孫瓚は自ら馬に乗り矛を持ち、部下達と鮮卑族の集団に襲い掛かりました。

公孫瓚は鮮卑族の不意を衝く事に成功し、鮮卑族を殺害しますが、この時に半数の部下を失ったとあります。

しかし、公孫瓚の決断により、部下の半数は命が助かったわけです。

さらに言えば、公孫瓚は10倍ほどの敵を破った事でもあり、圧倒的な武勇を発揮したとも言えます。

尚、鮮卑族は公孫瓚を恐れ、国境を超える事が無くなったとあります。

公孫瓚は独断ではありますが、見事な手柄を立てました。

公孫瓚は涿県の令となります。

張純討伐

西暦185年に涼州の韓遂らが反乱を起こした事で張温、陶謙孫堅らが討伐に向かい、公孫瓚も朝廷から討伐軍として参加する様に命じられました。

公孫瓚は韓遂討伐の為の準備を行いますが、冀州の中山太守の張純が烏桓族を引き込み大規模な反乱を起こす事になります。

張純の乱は規模が大きく10万を超える兵が、北方を荒す事態となります。

後漢王朝の朝廷では、こうした事態に対処するべく、公孫瓚を西涼に向かわせるのを中止し、張純の乱の鎮圧を命じました。

公孫瓚は三千の精鋭を率いて討伐に赴き、遼東で張純の軍を撃破する事になります。

公孫瓚は手柄を上げた事で騎都尉に昇進しました。

ただし、公孫瓚は張純を討ち取る事は出来なかったわけです。

烏桓との戦い

公孫瓚が張純と戦っている間に、烏桓族の丘力居は幽州、青州、徐州、冀州で暴れまくり公孫瓚は対処する事が出来ませんでした。

公孫瓚は優れた将軍ではありましたが、精鋭を率いていると言えど、三千の兵では幽州だけで手いっぱいであり、他に回すだけの余力はなかったのでしょう。

それでも、公孫瓚は烏桓族の貪至王を降伏させる事に成功し、強大な騎馬隊を自軍に組み込む事に成功しました。

公孫瓚は功績により中郎将及び都亭侯となっています。

公孫瓚は乱を鎮圧する為に、戦い続けますが、数年が経っても丘力居を降す事が出来なかったわけです。

公孫瓚は逆に丘力居の軍に包囲された事もありましたが、両軍の兵糧が尽きた事で撤退した話もあります。

劉虞が幽州の牧となる

後漢の朝廷では北方を完全に平定する為に、劉虞を幽州牧に任命し派遣しました。

これにより公孫瓚の上司は劉虞となったわけです。

劉虞は人望が厚く、異民族への融和政策を取る事になります。

劉虞は北方が荒れる元凶になっていた張純に対しては、賞金首としました。

劉虞が幽州に赴任すると、公孫瓚と激闘を繰り返した丘力居ですら、劉虞に帰順しています。

この時期に、張純も自らの食客である王政により殺害され命を落しました。

公孫瓚が何年も戦い続けても平定出来なかった北方を、劉虞がやってきた事で一気に解決に向かう事になります。

劉虞の活躍は公孫瓚にとっては面子を潰される結果になったとも言えるはずです。

劉虞との対立

丘力居は劉虞に帰順する事が決まりますが、次の記述が存在します。

※正史三国志 公孫瓚伝

公孫瓚は劉虞の手柄を妨害しようと画策し、人を派遣し戎の使者を刺殺した。

正史三国志の記述を見る限りでは、公孫瓚が劉虞と丘力居との和睦を妨害した事になるでしょう。

公孫瓚のこうした行動が人を妬む部分があるとか、狭量だと指摘される原因にもなっています。

尚、丘力居側も公孫瓚が和睦の使者を許さない事を伝え聞いており、使者を間道から行かせ劉虞の元に到達しました。

これにより劉虞と丘力居の間で和睦が成立したと言えます。

異民族対策の違い

公孫瓚と劉虞の対立の原因の根本にあるのは異民族対策だと言われています。

公孫瓚が異民族を徹敵的に叩こうとした要因に関しては、異民族の性質を考慮したとする話があります。

異民族は手懐けるのが難しい事実があり、懐柔する事に成功しても、直ぐに裏切るなどが多々あるわけです。

公孫瓚は劉虞が何度も異民族に使者を派遣し金銀を送れば、異民族らは調子に乗ると考えていました。

公孫瓚は劉虞が幽州にいる間は、異民族は大人しいかも知れないが、いなくなれば直ぐに反旗を翻すと考えたのでしょう。

公孫瓚にとっては融和政策は一時的な効果しかないと思っていたはずです。

実際に三国志の世界では異民族が何度も反旗を翻しており、公孫瓚の考えが全く間違っているわけでもないでしょう。

ただし、劉虞の丘力居に対する方針は、この時点では成功しており、公孫瓚が使者を殺害するのは「やりすぎ」との声も多いと言えます。

尚、劉虞は公孫瓚に面会を望みますが、公孫瓚は病気を理由に何度も断りました。

公孫瓚にとっても、後ろめたさはあったのでしょう。

劉虞は引き上げますが、公孫瓚に歩兵・騎兵1万を与え右北平に駐屯させる事になります。

劉虞は功績により大尉となり襄賁侯に封じられました。

奮武将軍に任命される

189年に大将軍の何進宦官の撲滅を考えますが、逆に宦官により暗殺される事件がありました。

袁紹らは宮中の宦官を皆殺しにしますが、董卓が少帝と陳留王を保護した事で後漢王朝の実権を握る事になります。

董卓は劉虞を大司馬とし、公孫瓚は奮武将軍及び薊侯に封じられています。

董卓は劉虞や公孫瓚に対しては寛大に処置し、敵対しようとは思わなかったのでしょう。

しかし、董卓は中央の名士たちからは嫌われており、袁紹が洛陽を脱出し曹操と共に反董卓連合を結成する事になります。

反董卓連合

公孫瓚が韓馥攻撃事件

董卓は李儒に少帝を殺害させ献帝を即位させていますが、袁紹は献帝を皇帝とは認めない立場だったわけです。

渤海太守の袁紹は冀州牧の韓馥らと共に、劉虞を皇帝に擁立しようと画策しました。

劉虞は袁紹から皇帝になって貰う様に依頼されていますが、劉虞は固辞する事となります。

三国志演義では公孫瓚も反董卓連合に加わった事になっていますが、史実の公孫瓚を見ると反董卓連合に加わると宣言した記録はありますが、加わった形跡がありません。

それどころか公孫瓚は冀州の地を手に入れたいと考えていたのか、次の記述が存在します。

※正史三国志 袁紹伝の記述

韓馥は安平に駐屯し公孫瓚に打ち破られた

上記の記述から、公孫瓚は反董卓連合の一人と考えられている韓馥を攻撃しており、公孫瓚は反董卓連合に加わらなかったのではないか?とする説も存在します。

公孫瓚が韓馥を攻撃した理由ですが、袁紹の幕僚の逢紀が韓馥を脅す為に、公孫瓚をけしかけたとも考えられています。

公孫瓚は董卓に味方したのか?

公孫瓚が韓馥を攻撃した記述がある事から「公孫瓚は董卓に与していたのではないか?」とする説が存在します。

韓馥は過去に汝南袁氏の役人をやっており、袁氏には頭が上がらなかったとも考えられています。

当時の汝南袁氏を見ると袁隗、袁基は都の洛陽で董卓陣営に与しており、袁紹は勝手に都から出奔してしまった問題児的だったわけです。

韓馥が袁隗や袁基に与し董卓に味方したのであれば、公孫瓚は董卓に味方した韓馥を攻撃した事になるでしょう。

逆に韓馥が袁紹に与していたのであれば、公孫瓚は騙し討ちで韓馥を攻撃し、韓馥の軍は崩壊した事になります。

こちらに関しては、どちらが真実なのかは不明な部分が多いです。

尚、反董卓連合は董卓が洛陽を捨て長安に遷都した事で解散し、関東の地は群雄割拠状態となります。

三國志演義の反董卓連合

三国志演義では公孫瓚も反董卓連合に参加した事になっています。

この時に公孫瓚の陣営には劉備関羽張飛の三名がいました。

汜水関の戦いでは反董卓連合の名だたる猛者たちが、華雄の前に次々に討ち取られて行きます。

こうした中で、公孫瓚配下で劉備の義弟・関羽が華雄を打ち取りました。

さらに、虎牢関の戦いでは劉備、関羽、張飛が呂布と一騎打ちをするなど盛り上がりを見せます。

ただし、先にも述べた様に公孫瓚が反董卓連合に参加した記録は、正史三国志や後漢書にはなく、あくまでも羅貫中の想像の中での戦いだと思った方がよいでしょう。

実際には董卓配下の徐栄胡軫が曹操や孫堅などと戦った記録はありますが、三国志演義の様に公孫瓚が反董卓連合に参戦し董卓と矛を交えた記録はありません。

劉虞と険悪な仲となる

劉虞の子の劉和は献帝の側近でもあり「皇帝が洛陽に帰りたがっているから、劉虞が長安まで迎えに来て欲しい」と伝える為に劉虞がいる幽州に向かいます。

献帝は董卓から離れたいと考えており、劉虞に助けを求めたのでしょう。

しかし、劉和は袁術に引き留められてしまい、袁術は劉虞に使者を派遣し「兵を与えてくれれば、自分が長安に攻め上り献帝を奪取する」と伝えました。

劉虞袁術の要請に従い数千の騎兵を劉和の元に派遣しようとします。

正史三国志によれば公孫瓚は袁術の野望を見抜いており、劉虞の軍隊派遣を諫めた話があります。

しかし、劉虞の決心は固く援軍を袁術の元に派遣するに至りました。

公孫瓚は劉虞を諫めた事から、袁術の恨みを買う事を恐れ、自身も従弟の公孫越に数千の兵を与え袁術を助けています。

公孫瓚は袁術に接近する一方で、劉和を暗殺し軍を奪う様に画策しました。

こうした事から、公孫瓚と劉虞の仲は益々険悪になったわけです。

公孫瓚は袁術に対し手を結んではいけないと諭していたにも関わらず、気が付けば袁術を誼を結んでおり、短絡的な性格だと評価される事もあります。

さらに言えば、公孫瓚は「劉虞憎し」の感情もかなり強かったのでしょう。

公孫瓚は占い師や商人と義兄弟の契りを結んだ話もあり、劉虞の様な名士層は嫌っていた部分も多々あったはずです。

公孫越の死

反董卓連合が解散すると汝南袁氏袁紹と袁術が、豫州の支配権を巡り対立する事になります。

袁術は董卓に対抗させる為に、孫堅に命令し陽城に駐屯させていました。

しかし、袁紹は周昂に命じ孫堅の陣地を奪う事になります。

袁術は孫堅と公孫越に命じ、奪われた陽城を奪還しようとしますが、上手くは行きませんでした。

さらに、陽城の戦いでは公孫瓚の弟である公孫越が命を落す事態となります。

公孫瓚は弟の死を聞くと激怒し「私の弟が死んだのは袁紹に責任がある」と述べました。

公孫瓚は磐河に兵を出し袁紹を攻撃する構えを見せます。

当時の袁紹は弱小勢力であり、公孫瓚の威勢を恐れ渤海太守の印綬を、公孫瓚の従弟にあたる公孫範に預け懐柔策に出ました。

公孫範は渤海太守となりますが、渤海郡の兵を率いて公孫瓚を助ける事になります。

袁紹は公孫瓚を懐柔しようとしましたが、公孫範が渤海太守になっただけで、公孫瓚との対立が解消されたわけではなく、結果は失敗に終わったと言えるでしょう。

3万の兵で30万の大軍を撃破

公孫瓚にはとんでもない武勇があり、3万の兵で黄巾賊の残党30万を打ち破った話があります。

公孫瓚の精鋭部隊である白馬義従の攻撃力が遺憾なく発揮された戦いでもあります。

この戦いで公孫瓚は3万を討ち取り、大量の物資と7万人を捕虜にして、大戦果を挙げました。

ただし、公孫瓚が3万の兵で30万の軍勢を破った話は、何処までが本当なのか分からない部分もあります。

それでも、この当時で言えば、袁紹よりも公孫瓚の方が遥かに優勢だったと言えます。

公孫瓚は田楷を青州、厳綱を冀州、単経を兗州に派遣し郡や県の長官としており、刺史や牧でもないのに非常に強力な力を有していたわけです。

尚、公孫瓚の元に劉備や趙雲などがやってくると公孫瓚は多いに喜んだ話があります。

袁紹と公孫瓚の対立が始まった頃に、公孫瓚は従事の范方を兗州刺史の劉岱の元に向かわせました。

公孫瓚としては袁紹よりも南に勢力を張る劉岱を味方にしたかったのでしょう。

しかし、劉岱は程昱の進言により袁紹支持を明らかとし、范方は帰還しました。

界橋の戦い

公孫瓚は南下し袁紹は冀州牧の韓馥から軍勢を奪い、界橋の戦いが勃発する事になります。

公孫瓚は白馬義従の無敵とも言える騎馬隊を持っており、戦力で言えば袁紹を上回っていました。

袁紹陣営の季雍が公孫瓚に寝返り、朱霊に討伐される事件も起きており、それらも公孫瓚の優勢を表しているのでしょう。

しかし、界橋の戦いでは涼州出身の麹義が騎馬隊との戦いを熟知しており、公孫瓚の騎馬隊を封じ込める事になります。

それでも、公孫瓚の騎馬隊が袁紹を追い詰め、田豊が袁紹を下がらせ様としましたが、袁紹は兜を地面に叩きつけ踏みとどまった話があります。

界橋の戦いでは公孫瓚の軍も奮戦した様ではありますが、全体的にみれば不利だったようで、公孫瓚が任命した冀州刺史の厳綱も捕虜となりました。

さらに、公孫瓚の兵站が支障をきたし、遂には撤退する事となり界橋の戦いは袁紹軍の勝利で幕を閉じたわけです。

公孫瓚は界橋の戦いで敗れた事で、各地への影響力を失い袁紹と形勢が逆転する事になります。

袁紹は冀州の反乱分子を鎮圧し、地盤強化に努める事になります。

尚、幽州牧の劉虞は袁紹に敗れた公孫瓚を攻撃しようとしますが、配下の魏攸の進言により取りやめた話があります。

ただし、翌年に魏攸が亡くなると劉虞の歯止めが利かなくなります。

劉虞を殺害

公孫瓚は北方に逃れますが、このタイミングで劉虞は公孫瓚が乱を起こすと危惧し、軍隊を動かし公孫瓚を攻撃しました。

この時に劉虞配下の公孫紀は、同姓の公孫瓚が討たれる事を快くは思わず、公孫瓚に内通しています。

公孫紀が劉虞陣営の機密を公孫瓚に流した事で、公孫瓚は劉虞を急襲し捕虜としました。

この頃に董卓は王允呂布により命を落し、後漢王朝の朝廷では劉虞の所領を増やそうと段訓を派遣する事になります。

朝廷は劉虞に六州を治めさせようとしますが、段訓は公孫瓚が劉虞を捕虜にしており、多いに驚いた事でしょう。

この時に公孫瓚が前将軍、易侯に任命された話があります。

後漢王朝の朝廷としては、劉虞だけではなく公孫瓚も厚遇するつもりだったのでしょう。

公孫瓚は劉虞を捕虜としますが、典略には次の記述が存在します。

※正史三国志・注釈典略より

公孫瓚は劉虞を市場に晒し、呪って次の様に述べた。

公孫瓚「お前が本当に天子になれるような人物であれば、天から恵の雨が降り助けてくれるはずだ」

当時は真夏の真っ盛りであり、当然の如く雨は降らず劉虞を殺害してしまった。

劉虞を殺害してしまった公孫瓚の態度に関しては、無法者とも呼べるはずです。

さらに言えば、劉虞は袁紹から皇帝になる様に依頼されても、きっぱりと断った事実もあり、公孫瓚は明らかなる言い掛かりとなるでしょう。

しかし、人望がある劉虞を殺害してしまった事で、今度は公孫瓚が追い詰められる事になります。

公孫瓚の思想

名士を嫌い商人を重用

正史三国志によれば公孫瓚は段訓を強迫しており、劉虞がいなくなった事で空いたポストである幽州刺史に段訓を推挙しました。

正史三国志によれば公孫瓚は慢心し、人の過失を追求し、善行を忘れ人々を毒牙に掛けたと記録されています。

王粲の英雄記によれば、公孫瓚は役人の子弟で優秀な者がいれば、その者を圧迫し困窮に陥れたとまで記録されている程です。

劉備が旗揚げした時に付き従った田豫も、公孫瓚は用いる事が出来なかったと記録されています。

ただし、田豫は劉虞配下の鮮于輔と交流があった話が残されており、劉虞に与する鮮于輔と親しい間柄だった田豫を用いなかった可能性もあるでしょう。

公孫瓚は占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当らの娘を自分の息子らの妻とし、義兄弟の契りを結びました。

劉緯台、李移子、楽何当らは巨万の富を築いた商人でもあり、公孫瓚は前漢の劉邦を助けた酈商や灌嬰になぞられ重用しています。

ある人が公孫瓚が名士層を嫌い、商人を重用する理由を問うと、公孫瓚は次の様に答えたと言います。

※英雄記より

公孫瓚「役人の家の子弟を取り立てて富貴にしたとしても、皆は当然の事だと考え感謝もしない」

公孫瓚の言葉からは当時の時代背景も現れており、名士層の人間は自分の家を第一とし、恩があった人間に対し感謝もしないし、平気で裏切ると考えていたのでしょう。

それよりは凡庸な人物であっても、自分に対し感謝をし裏切らない人物を重用したいと考えたと読み解く事も出来ます。

実際に、公孫瓚が劉基に仕えていた時は、劉基が落ちぶれても面倒を見る決心をしており、部下にも自分と似た様な態度を望んだとも言えるでしょう。

ただし、末期に劉邦の軍師である張良は「商人は目先に利益に弱い」とも述べており、商人であっても公孫瓚を絶対的に支持するとは限らないはずです。

それを考えると名士や商人の様な家柄を見るのではなく、人間性を見るのが一番なのかも知れません。

尚、公孫瓚と似た様な思想は劉備にも見える部分があり、劉備の従者は関羽張飛、趙雲など名士層以外の人間を重用していました。

しかし、劉備は途中から諸葛亮などの名士層も組み入れており、その差が公孫瓚と劉備の差となって表れたとする指摘もあります。

それらを考慮すると劉備は公孫瓚に比べると柔軟性があるとも言えますし、逆に言えば公孫瓚は己の考えを最後まで貫いたとも言えそうです。

商人を守るための戦い

公孫瓚が商人と義兄弟の契りを交わし、異民族に対しては徹底的な強硬策をしたのには理由があるとする説があり、下記の動画に詳しいです。

動画の内容を簡略に解説すると、公孫瓚は薊を本拠地としています。

薊は草原の道であるステップロードの重要拠点でもあり、商人にとっても非常に重要な都市です。

(上記動画より参照)

公孫瓚はステップロードを確保を目指し、東西の交易路を守り商人達の商売を安定させる為に、異民族に対し徹底的な強硬策を取ったとする説となります。

異民族が劉虞に対して慕ったとしても、末端である商人まで異民族が手出ししないという保証はありません。

商人の安全を保障するには、公孫瓚の武の力が必要だったとする説となります。

公孫瓚は関靖なる酷吏を重用した話もありますが、商売をする上で不正を防止する為に、法律に厳格な関靖が必要だったとも考えられます。

それを考えると、公孫瓚の行動は全て自分を支持してくれる商人たちの、安全を保護するものだったと見る事が出来るわけです。

これらの考えを元にすれば、正史三国志の通説とは全く違った公孫瓚の姿が浮かび上がる事になるでしょう。

四面楚歌

公孫瓚が劉虞を殺害した事で、劉虞配下の鮮于輔、斉周、鮮于銀らは公孫瓚に復讐を誓いました。

さらに、閻柔が烏桓司馬となり、烏桓族や鮮卑族らを誘い数万の軍勢を手に入れ、公孫瓚打倒の為に動いたわけです。

異民族たちは劉虞を慕っていたわけであり、公孫瓚は許せる存在ではありませんでした。

閻柔らは公孫瓚が任命した魚陽太守の鄒丹を攻撃し、鄒丹を斬首されています。

さらに、袁紹は劉虞の子である劉和と麹義に兵を与え鮮于輔と共に、公孫瓚を攻め立てました。

公孫瓚は四面楚歌状態となり、味方は各地で破れ、公孫瓚は易京に追い詰められ籠城する事になります。

易京の戦い

易京には十分な食料があり、十年は持ちこたえるだけの量があったとも伝わっています。

さらに、公孫瓚は易京の塹壕を深く掘り、千を超える櫓を設置し難攻不落の要塞と化しました。

公孫瓚自身も土山の頂上の家屋におり、公孫瓚は側近すら近づけず、命令などは全て糸に書簡を巻き下に垂らした話があります。

易京の戦いでの公孫瓚は徹底的に守りを固め、情勢の変化を待つ作戦だったわけです。

この頃には公孫瓚が白馬に乗り、戦場を駆け巡った頃の勇猛な姿は無かったのかも知れません。

易京での籠城は長く続き途中で息子の公孫続に使者を派遣し、黒山賊の張燕と連携し、城を打って出ようとした話もありますが、関靖に諫められています。

公孫瓚は公孫続と張燕の援軍が到着したら、狼煙の合図で城から打って出る約束をしていましたが、情報が袁紹陣営に漏れた事で、逆用され公孫瓚が出た所で叩かれました。

それでも、公孫瓚が徹底的に防備を固めた事で、4年もの歳月が経過する事になります。

公孫瓚の最期

袁紹の軍は易京の城に対し、坑道戦を考案し穴を掘り城壁を一つずつ超える作戦に出ました。

袁紹軍は坑道戦で勝利し、公孫瓚が籠る土山に到達する事になります。

これが西暦199年の事です。

公孫瓚は敗北を悟ると観念し、妻子を殺害し自刃したとあります。

公孫瓚の首は曹操が保護する許都の献帝の元に送られました。

尚、関靖が公孫瓚の死を聞くと、自ら敵中に突入し公孫瓚の後を追った話があります。

関靖の行動を見るに、公孫瓚にも人望があり慕っている人間はいたという事なのでしょう。

関靖は最後まで公孫瓚を慕った事になるはずです。

公孫瓚が亡くなった事で、袁紹は北方で第一の勢力となり、曹操と天下分け目の官渡の戦いに時代は向かう事になります。

公孫瓚は劉虞を殺害した事で、敵を多く作り滅んだとも言えるのかも知れません。

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