その他 三国志 後漢 未分類

阿貴は興国氐の王だが滅びる

2023年2月23日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前阿貴(あき)
生没年生没年不明
時代後漢末期、三国志
所属興国氐
年表211年 潼関の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

阿貴は正史三国志に登場する人物で、烏丸鮮卑東夷伝の中に名が見えます。

阿貴は興国氐の王とする記録があり、氐族の出身となるのでしょう。

阿貴の名は馬超の要請に応じて、曹操の軍と戦いますが、結局は破れ夏侯淵により滅ぼされたとあります。

今回は異民族の王である阿貴を解説します。

ただし、阿貴は正史三国志に簡略な記述があるだけであり、性格などの細かい部分はよく分かっていません。

因みに、阿貴は三国志演義には名前が見られない状態です。

馬超に協力

後漢王朝も後期に入ると寒冷化により、涼州には多くの異民族が入ってきました。

羌族や氐族も関中の地などに入り込み、時には略奪を行うなどの反乱があったわけです。

阿貴は興国氐の王だった記録もあり、涼州に入り込み遊牧を行っていた様にも感じています。

正史三国志によれば興国氐の阿貴と、百頃氐は千万は、それぞれが1万余の部落を配下に収めていたとあります。

それを考えれば、阿貴と千万は、それなりに大きな兵を動かす事が出来る立場だったのでしょう。

涼州では馬騰や韓遂など関中の軍閥同士の対立が多くあり、争っていましたが、鍾繇が和解させたり、張既が馬騰を入朝させるなどもありました。

馬騰の軍勢は馬超が引き継ぎますが、211年頃に曹操張魯討伐を行うとする話が出る事になります。

関中の諸将や異民族たちは、曹操は張魯討伐をすると言いながらも、自分達を攻撃するのではないか?と不安になりました。

阿貴は興国氐の王であり、曹操の動きに注視する立場となったはずです。

馬超と戦うも敗れる

こうした中で馬超と韓遂が手を組み、涼州連合が結成されました。

涼州連合で曹操と対峙する事になったわけですが、下記の記述が存在します。

※正史三国志4巻(ちくま学芸文庫)478頁

馬超の指示を受けて反乱を起こした。

興国氐の阿貴は馬超の命令により、反乱軍に加担した事になるでしょう。

211年は潼関の戦いが起きた年ですが、潼関の戦いに阿貴も馬超側として参加した事になります。

潼関の戦いでは馬超は一時は曹操を追い詰めますが、丁斐が機転を利かせたり、賈詡の離間の計もあり、涼州連合は破れ去りました。

正史三国志によると、馬超が敗れた後に、阿貴は夏侯淵の攻撃を受けて滅んだとあります。

夏侯淵に敗れて阿貴は最後を迎え、興国氐も滅亡に至ったのかも知れません。

尚、三国志の後に西晋があり、五胡十六国の時代となりますが、この時に氐族が成漢、前秦、後涼なを建国しました。

これらの国と阿貴の興国氐が、どれ程の関係があるのかは不明です。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細