
武姜は申公の娘であり、鄭の武公に嫁ぎました。
鄭の荘公と共叔段の母親でもあります。
武姜が申公の娘という事は、周の幽王に嫁ぎ廃された申后の姉妹の可能性も残っており、周の平王の叔母になるのかも知れません。
史記や春秋左氏伝の武姜は共叔段を可愛がり、鄭の荘公を攻撃しますが、後に潁考叔の計らいもあり、和解しました。
一般的には武姜は毒母とも呼べる様な存在として認識されていますが、清華簡では鄭の荘公に「政治には口を出さない」と述べるなど、賢母としての一面も記録されており、どちらの武姜が史実に近いのかは不明です。
寤生と共叔段
史記によると、鄭の武公の10年(紀元前761年)に、申君の娘を娶って夫人としたとあります。
この女性こそが武姜です。
紀元前757年に鄭の武公と武姜の間に、寤生(鄭の荘公)が誕生しますが、難産であり武姜は寤生を可愛がろうとしませんでした。
後に共叔段が誕生しますが、こちらは安産であり、武姜は共叔段を可愛がる事になります。
武姜は夫である鄭の武公に共叔段を後継者にする様に要請しますが、鄭の武公は寤生を高く評価していたのか、末子を立てれば国が乱れると考えたのか許さなかったわけです。
黄泉の誓い
鄭の荘公が立つと、武姜は共叔段を制に封じる様に願いました。
しかし、鄭の荘公は「制は険要の地でもあり、虢叔が殺された場所でもあります。制ではなく他の邑であれば、言う通りに致します」と述べ、共叔段を制に封じるのを断わりました。
そこで、武姜は京を共叔段に与える様にと願う事になります。
京は首都の新鄭よりも大きかった事もあり、祭仲は危ぶみましたが、鄭の荘公は武姜の意見を優先させる事になります。
史記では鄭の荘公が即位してから、20年以上も経過した紀元前722年に、共叔段が反旗を翻し首都の新鄭を攻撃しました。
共叔段に内通したのが、武姜であり、共叔段を城内に導こうとしたわけです。
鄭の荘公は共叔段の軍を破り敗走させました。
共叔段は鄭の荘公に歯が立たず、結局は共に出奔しています。
鄭の荘公は武姜を処罰せねばならず、城潁に幽閉しました。
鄭の荘公は「あの世に行ってからでなければ、再び会う事はない」と述べ、武姜を許さないとする決意表明も行っています。
この決意表明は「黄泉の誓い」と呼ばれる事もあります。
親子の再開
武姜には酷い仕打ちをされた鄭の荘公ですが、母親の事を思って幽閉した事を後悔する事になります。
こうした状況を見た潁考叔が「地中を深く掘り黄泉(城潁)に行き会えばよい」と告げました。
鄭の荘公は潁考叔の言葉に従い武姜と会う事になります。
史記では、ここで話が終わっていますが、春秋左氏伝には鄭の荘公と武姜が再開した時の話が掲載されています。
春秋左氏伝によると、地下道を通って鄭の荘公は武姜に会いに行き「隧道の内、融けるが如き楽しさよ」と歌いました。
すると、武姜も「隧道の外、楽しさ溢れるばかりなり」と歌い現れる事になります。
春秋左氏伝では鄭の荘公と武姜は元の親子関係に戻ったとあります。
ここで、母子のわだかまりが解けたという事なのでしょう。
鄭の武公は母親の愛に飢えており、武姜は共叔段を圧倒した鄭の荘公の采配に感服したと言ったところでしょうか。
賢母としての武姜
戦国時代の竹簡である清華簡の「鄭武夫人規孺子」なる資料があります。
ここで言う「鄭武夫人」と言うのが、武姜であり「孺子」は鄭の荘公の事でしょう。
鄭武夫人規孺子の内容は、辺父なる人物と鄭の荘公の話が中心となっています。
この中で、武姜は訓戒を述べており、鄭の荘公に「国の政治は直接関わらず、大夫に委ねる様に」と伝えました。
さらに、「自分も老婦に過ぎず、兄弟姻戚といった近親者としての言葉で、大夫の政治を乱さない様にする」と誓いを立てています。
史記や春秋左氏伝での武姜は、末子の共叔段を後継者にする様にと積極的に働きかけていますが、清華簡の資料の方では賢夫人としての姿が見えます。
清華簡では武姜が鄭の荘公に「政治を大夫に任せる様に」と言っていますが、この時の大夫の中心となり政治を行ったのが、祭仲ではないでしょうか。
祭仲は強い力を持ち鄭の昭公や厲公の即位などに、大きく関わりを持つ事になります。
ただし、祭仲自身は武姜の期待に応えたのか、名臣としても数えられています。