三国志 魏(三国志)

段谷の戦い

2023年5月4日

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宮下悠史

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段谷の戦い(だんこくのたたかい)256年
勢力
指揮官鄧艾姜維
兵力不明不明
損害不明1万弱
勝敗

段谷の戦いは西暦256年に蜀の姜維の軍勢と魏の鄧艾の軍勢が交戦した戦いであり、蜀軍が大敗北を喫しました。

三国志の蜀の滅亡を予感させる戦いでもあります。

費禕が魏の降将の郭循に暗殺されると、北伐推進派の陳祗が政務を行い大軍を動かせるようになった姜維ですが、段谷の戦いで名将鄧艾の前に敗れたとも言えます。

蜀軍の段谷の戦いでの敗北は、狄道の戦いで勝利し勢いに乗る蜀軍の野望を鄧艾が挫く結果となりました。

段谷の戦いで姜維が敗北したのは、鄧艾だけではなく陳泰や郭淮など魏軍の層の厚さと国力の前に敗れたとも言えるでしょう。

今回は蜀と魏の大規模な戦いであった段谷の戦いを解説します。

戦いの経緯

費禕が魏の降将の郭脩に253年に暗殺されると、姜維が国政のトップに躍り出ました。

姜維はタカ派であり主に軍事を司り陳祗が政務を見る事となります。

姜維の北伐が始まると陳泰の援軍の前に撤退した事もありましたが、254年、255年の狄道の戦いでは李簡の寝返りもあり戦いを優勢に進めました。

蜀漢の重鎮である張嶷が亡くなる事態もありましたが、徐質、王経を破るなど確実に戦果は挙げています。

張翼などは北伐に反対でしたが、姜維の活躍により蜀では北伐推進派が盛んになっていたのでしょう。

陳祗もよく政務を行い、姜維は遠征先で大将軍に命じられました。

段谷の戦いの前に、姜維は鍾題まで後退し駐屯していましたが、蜀軍は高揚感もあったはずです。

鄧艾の考え

魏書鄧艾伝によると、魏の多くの者は「姜維の力は尽きており、再び出撃して来る事は無い」とする楽観論を唱えました。

しかし、責任者の鄧艾は別の考えを持っており、次の様に語ります。

※正史三国志 鄧艾伝より

王経の洮西での敗北は小さな失敗どころではない。

軍は破れ将は殺害され、米倉は空となり、住民は流浪し、ほぼ滅亡の状態にまで陥っていた。

現在の状況だと敵は勝ちに乗じて勢いがあり、我が方は虚弱とも言えるほどだ。

さらに、敵はよく訓練され武器も整っているのに、我が方は将軍が変わった(王経→鄧艾)ばかりで、新兵が多く武器も不足している。

敵は船で移動し、我が方は陸で移動するのだから、労力も同じではない。

我が方は狄道・隴西・南安・祁山に兵を分散する必要があるが、敵は一つに集中できる。

隴西・南安に向かえば羌族に食料を頼る事になるが、祁山に向かえば多くの成熟した麦がある。

それが敵をおびき寄せる餌となるであろう。

賊軍は小賢しい様な策を弄しており、再び侵攻して来る事は間違いない。

鄧艾は蜀軍には勢いがあり武器も整い、船での移動が可能で、兵を分散させる必要もない事から、必ず攻めて来ると宣言したわけです。

鄧艾は祁山の防備を固め、姜維は予想通りに祁山に侵攻しました。

蜀軍は諸葛亮の時代から兵站に苦しんでおり、鄧艾は姜維が祁山の麦に目が行く事まで読んでいました。

さらに言えば、隴西方面は狄道の戦いなどで疲弊しており、食料の現地調達が難しい状況にもなっていたはずです。

段谷の戦いの前段階では蜀軍に勢いがあり、魏軍は楽観的ではありましたが、鄧艾が戒め防備を固めたとも言えるでしょう。

胡済が現れず

姜維は祁山に向かいますが、鄧艾は既に防備を固めていました。

姜維は祁山の防備が固い事を知ると、董亭に向かい南安に達しています。

姜維伝の記述によると、姜維と胡済が上邽で合流する約束をした話がありますが、この頃の事だったのではないかと考えられています。

姜維の動きに対し鄧艾は武城山に籠り戦おうとしました。

ここで要害の地を巡って姜維と鄧艾の戦いとなりますが、姜維は勝利する事が出来ませんでした。

姜維は戦いに勝利出来ないと、その夜に渭水を渡り東に進み、山に沿って上邽に向かったわけです。

姜維の予定では上邽で鎮西大将軍の胡済と合流する予定でした。

しかし、上邽に胡済の姿はなく現れる事もなく、姜維は待ちぼうけ状態になってしまったのでしょう。

上邽に胡済が現れなかった理由ですが、祁山を胡済が落とす事が出来ず、現れなかったのではないか?とも考えられています。

姜維の軍は北に塁壁を築き防備を固めますが、食料も貧しく西からは鄧艾の軍も迫っていました。

この時点で姜維の選択肢は段谷の方に向かい蜀に帰還する以外に道はなかったとも言えます。

蜀軍の大敗北

姜維は段谷に向かい撤退を始めました。

しかし、姜維の軍は敵の追撃にもあい大いに打ち破られる事となります。

姜維側も無事に撤退する為に、伏兵などは配置したかと思いますが、鄧艾はものともせず姜維の軍を多いに打ち破りました。

姜維の軍は胡済が戦場に現れないという不安で士気が低下し、敵地での移動もあり精神的にも疲労感が大きかった様に思います。

正史三国志の高貴郷公紀によれば、命を落したり捕虜となった者が5桁に及ぶとする記録があり、蜀軍の損害が大きかった事が分かります。

鄧艾伝に曹髦が出した詔勅があり「二桁の将を斬り、四桁の首を取った」と記録されています。

蜀側の記録を見ても段谷の戦いは蜀軍の大敗北は確実でしょう。

姜維伝の記述によると「人々は大惨敗を恨み隴西では騒乱が起こった」と記録されています。

段谷の戦いでの大敗北は姜維の権威の失墜と共に、今までに積み上げてきたものを失ったとも言えます。

戦後

姜維は段谷の戦いでの大敗北により大将軍の位を降格させる様に願い出ました。

結果として姜維は、後将軍、行大将軍に降格する事となります。

さらに、2年後の258年には北伐推進派で劉禅からの信頼も厚かった陳祗が亡くなりました。

段谷の戦いでの敗北後に、蜀の北伐推進派は大きく力を失っていく事となります。

蜀とは逆に段谷の戦いで大勝利を得た魏では、朝廷が沸き上がりました。

鄧艾は鎮西将軍・都督隴右諸軍事となり鄧侯に爵位を進めました。

さらに、五百戸を分割し子の鄧忠を亭侯としています。

対蜀方面には郭淮、陳泰などの名臣がいましたが、ここにおいて鄧艾が責任者となり、263年には鍾会と共に蜀を攻撃し滅ぼす事となります。

姜維は北伐を志しましたが、段谷の戦いで鄧艾に敗れ、その後も鄧艾に勝つ事は出来ませんでした。

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