古代日本 弥生時代

銅鐸から見えて来るもの

2024年5月30日

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宮下悠史

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名前銅鐸
時代紀元前200年~200年頃??
場所近畿地方に多い
コメント古代日本の重要な遺物だが不明な点が多い

銅鐸と言えば近畿地方で出土する事から、過去には大和王権と繋がりが深いとも考えられてきました。

しかし、大和は銅鐸文化圏である近畿の中でも出土数や生産において中心地とは言えません。

200年から250年頃の庄内期になると、銅鐸は使われなくなったと考えられています。

銅鐸が使われなくなった理由は不明であり、実際のところ銅鐸が何の為に使われたのかも正確な所は分かってはいません。

近年の研究では銅鐸の元は吉備にあり、銅鐸終焉の地が纏向遺跡だった事が明らかになってきています。

銅鐸は大陸系遺物と比べると明らかに異質であり、日本の近畿地方独自の文化でもあります。

尚、銅鐸と似ているもので銅矛があり、過去には銅矛圏の神武天皇が神武東征を行い銅鐸を破壊しつくしたなどの説もありましたが、現在では支持する人は少ない説です。

記事の最後に大和の銅鐸を含めたYouTubeの解説動画があります。

視覚的に分かりやすく邪馬台国時代の考古学的な話が分かる様になっています。

銅鐸とは何か

銅鐸に関して述べておくと、紐と振り子を備えた西洋のベルの様なものです。

お寺に吊るしてある鐘は木を使って音を鳴らしますが、銅鐸は鈴みたいな感じで音を鳴らしたと考えられています。

銅鐸は出土状況から紀元前200年から西暦200年までの400年ほど造られた事が分かっていますが、どの様なシチュエーションで使われたのかはイマイチ分かってはいない状態です。

定説だと大陸を起源とする「鈴」が朝鮮半島を経由して伝わって来て、楽器の様に使われたのではないかとされています。

713年に銅鐸が献上される

元明天皇の時代である713年に大和国宇陀郡において発見された銅鐸が献上された話があります。

この時に銅鐸を見た人は、皆がびっくりした逸話が残っています。

この話から分かるのは、元明天皇の時代には、銅鐸が何の為に造られて使われていたのかは分からなくなっていたという事なのでしょう。

銅鐸を造り続けて何らかに使われていれば、何の為に使われたのかも分かるはずですが、使われなくなり何百年も経過すれば造り方も何の為に造ったのかも分からなくなってしまうという事です。

エジプト古王国時代に建造されたギザの三大ピラミッドなども建設されなくなった事で、現在では何の為に造ったのか、どの様にして建造したのかも分からなくなっているのと同じでしょう。

巨大銅鐸

現在発見されている銅鐸の中で、最大規模のものは高さが134センチもあり、鈴として使うには余りにも巨大すぎる大きさなわけです。

高さ134センチの銅で出来た鈴を鳴らすのは大変であり、上手く音を出せるのかも微妙だと言えるでしょう。

一つの説として巨大銅鐸は実用性ではなく、見栄えが良いなどの理由で作られたとする説もあります。

他にも、巨大銅鐸は祭祀用だったなどの説もある状態です。

銅鐸に示された絵

(画像:東京国立博物館

銅鐸にはよく見ると、人間、シカ、魚、イノシシなどの動物の絵が書かれたりしているものがある事が分かります。

弥生時代と言えば「米」を思い浮かべるかも知れませんが、当然ながら弥生人は米ばかりを食べていたわけではなく、狩りもしていました。

銅鐸の絵を見ると人間が狩りをしている様な所も見受けられ当時の生活様式を現わしているとも考えられています。

銅鐸からは弥生時代の風習も見えて来ると言えるでしょう。

銅鐸文化と古墳文化

弥生時代の銅鐸文化は大和の西からやってきて東に移り、後半に入ると東の方では近江・東海系の技術も流入する事になります。

大和では出土物を見ると東方系の繋がりが多く見いだされ、西方との関わり合いが薄くなるのが特徴です。

古墳は大和から河内に拡がって行ったとも考えられていますが、銅鐸に関しては河内の方から大和に拡がっていったと言えるでしょう。

古墳と銅鐸の広がりは反対であり、逆流している様にも見えます。

銅鐸の終焉の地が纏向遺跡だと言うのも注目するポイントです。

大和で銅鐸が見つかる場所は集落から離れた場所の峠道に点在しており、銅鐸が発見される場所は交通路に近い場合も多いと言えます。

(銅鐸は大和よりも河内の方が多く発見されている)

奈良盆地の南西にあり南河内に行くルートで発見された名柄銅鐸は多鈕細文鏡と共に発見されており、この頃の銅鐸と銅鏡が副葬品ではない事は明らかでしょう。

大和の銅鐸が発見された場所を見ると外部地域との交通ルートにあり、何らかの意味があった様に思われます。

銅鐸は西から流入があり、大和の東部にも伝わり纏向遺跡の南のあたりでは大福銅鐸が発見されました。

大和東部で見つかる銅鐸は集落に近い場所で発見され、纏向遺跡で見つかる銅鐸は破片となって出土して、銅鐸文化は最終末を迎える事になるわけです。

銅鐸は西から流入がありましたが、大和は考古学的には東方との関りが強く、東からの文化の流入で銅鐸が廃れたのではないかとする説もあります。

尚、銅鐸と銅鏡は名前は似てはいますが別物であり、銅鐸は大陸の遺物でもなく、九州よりも東の地域のものであり日本独自の文化です。

ただし、銅鐸は古墳に繋がるような遺物ではありません。

古墳と共に大和や河内から全国に拡がって行ったのは、庄内式土器だと言えます。

近畿地方において、弥生時代から古墳時代への変化を「銅鐸から銅鏡へ」とするキャッチフレーズも存在しています。

しかし、弥生時代の近畿において代表的なのは、銅鏡ではなくあくまでも銅鐸文化です。

銅鏡は大陸との繋がりが深いと考えられています。

尚、大和において北部九州と比較出来るような青銅祭器は銅鐸のみであるとも言えるでしょう。

それでも、大和は銅鐸が活発な地域というわけでも無く、北部九州と比較出来るような遺物もないと言えます。

邪馬台国近畿説では邪馬台国と銅鐸を結び付けたりする場合もありますが、邪馬台国の重要拠点である伊都国は北部九州にあり銅矛文化圏であり、中華系の遺物も多く発見されています。

それに比べ大和には大陸系の遺物は北部九州との繋がりも薄く、銅鐸から見ても邪馬台国は大和には無かったことでしょう。

銅鐸や考古学に関する動画

銅鐸や大和の考古学に関するゆっくり解説動画となっています。

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