名前 | 吉備 |
地域 | 岡山県、広島県東部 |
コメント | 後に備前、備中、備後、美作に分割される |
吉備は瀬戸内海沿岸にあり、現在の岡山県から広島県東部を指す地域です。
律令制により吉備は備前、備中、備後、美作に分割されています。
吉備は桃太郎の話や黍団子を想像し、食料生産が豊だった地域に思うかも知れません。
しかし、現在の岡山市や倉敷市辺りは古代では吉備の穴海となっており、水の中に沈んでいたわけです。
総社平野の辺りが吉備の中心地とも考えられていますが、総社平野は、それほど広い平野ではなく、古代吉備は穴海を使った交易により発展したと考えられています。
古代吉備は大和王権とも関係が深く埴輪や古墳の元となる特殊器台や墳丘墓があった事でも知られています。
今回は吉備の歴史を解説します。
尚、古代吉備のゆっくり解説動画を作成してあり、記事の最下部から見る事が出来ます。
吉備が発展した理由
吉備は南は瀬戸内海に面し、北の背後には中国山地が控えた地域です。
吉備は温暖な気候と台風などの自然災害が少ない事でも有名であり、弥生時代や古墳時代において日本の重要な地域でした。
現在の岡山県には吉井川、旭川、高梨川が流れており、これが吉備の三大河川となります。
三大河川は全て中国山地から来た流れが瀬戸内海に注ぐようになっています。
現在では岡山平野は広大な面積があり岡山市や倉敷市に多くの人々が暮らしていますが、古代日本では岡山平野は海中に沈んでいた事が分かっています。
岡山平野には吉備の穴海と呼ばれる内海がありました。
(画像:児島の歴史)
岡山平野に吉備の穴海があった事で、現在の児島半島は半島ではなく島だったわけです。
内海になっていた事で瀬戸内海の激流を防ぐ役目を果たし、瀬戸内海貿易の中継地として交易において大発展する事になります。
吉備が大発展する最大の原因は吉備の穴海による交易だった事でしょう。
狭い平野
古代吉備を支えた広大な平野が存在したと思う人もいるかも知れません。
弥生時代を代表する楯築墳丘墓や古墳時代の造山古墳を考えると、古代吉備には巨大な平野があり多くの水田稲作があったと考えた人がいてもおかしくはないでしょう。
しかし、古代吉備では岡山平野が存在せず、古代吉備の平野と言えば総社平野だったわけです。
新納泉教授は「シリーズ古代日本 出雲・吉備・伊予」の中で総社平野の狭さから「銅鐸を打ち鳴らせば隅々まで伝わるのではないかと思うくらいである」と述べており、総社平野の狭さが分かります。
銅鐸は吉備から大和に伝わった事が分かっていますが、元々は狭い地域で活用された鐘の様な役割を果たしていたのかも知れません。
吉備の港町
岡山県倉敷市の北部にある上東遺跡で弥生時代の後期の船着き場の遺構が発見されました。
魏志倭人伝にも登場する一大国があった壱岐では原の辻遺跡があり、既に船着き場が発見されていましたが、上東遺跡の船着き場は国内で二例目となったわけです。
上東遺跡の辺りが港だった事は明らかであり、岡山平野は古代の段階では海に沈んでいた事が分かります。
現在の岡山県岡山市に吉備津神社がありますが、吉備津神社も吉備の津であり港があったと考えられています。
岡山市には津寺遺跡があり、ここには港と関係している役所があったのではないかと考えられています。
津寺遺跡からは吉備の東西に及ぶ様々な土器の系統が見つかっており、交易都市らしく東西の様々な地域と交流があった事が分かるはずです。
吉備と出雲も交流
(画像:ウィキペディア)
吉備は交易により栄えましたが、突如として巨大墳丘墓である楯築墳丘墓が誕生しました。
特殊器台や特殊壺の大型化も進み、この頃の吉備の躍進は明らかでしょう。
吉備の繁栄に出雲が関わっていると考えられています。
楯築墳丘墓が出来た頃に出雲では、西谷三号墓が築かれました。
西谷三号墓から吉備の特殊器台や特殊壺が見つかっており、この頃の吉備と出雲で交流があった事は明らかでしょう。
西谷墳墓群にある西谷三号墓も楯築墳丘墓と同じように、突如として墳丘墓の規模が巨大化した事が分かっています。
吉備の楯築墳丘墓と出雲の西谷墳墓群の突発的な巨大化に関しては、吉備と出雲の間で交易が盛んになった結果だとも考えられています。
ただし、吉備と出雲の交易は中国山地を超えなければいけない問題もあり、長続きはしなかった事も分かっています。
それでも、楯築墳丘墓が出来上がる所を見ると、吉備は出雲との交流により莫大な富を生む結果となったのでしょう。
名前 | 住所 |
楯築遺跡 | 岡山県倉敷市矢部 |
吉備の全盛期
造山古墳
吉備において古墳がどの様に誕生したのかに関しては、大和から古墳が伝わったとする考えもあれば、墳丘墓が古墳になったとする説もあります。
吉備が大和王権に従い前方後円墳を建造したのか、墳丘墓が進化して古墳になったのかは不明な部分が多いですが、吉備に造山古墳という超大型の前方後円墳が誕生した事だけは間違いないでしょう。
造山古墳は墳丘長で古墳ランキング4位にランクインしており、その巨大さは圧倒的です。
造山古墳を調査した結果ですが、応神天皇の陵墓とされる誉田御廟山古墳に極めて似ている事が分かりました。
こうした事情から造山古墳は応神天皇の時代に造られたのではないかと考えられる様になったわけです。
吉備には古墳の大きさランキング10位にランクインしている作山古墳もあり、古墳が活発な地域だった事も分かります。
ただし、吉備では巨大古墳が造られる反面で、周辺の地域では古墳が小さくなり、造られなくなっていった事も分かっています。
経済や人的資源が超大型古墳に集中し、瀬戸内海を挟んだ讃岐からも吉備の巨大古墳の人工として参加したのではないかと考えられています。
名前 | 住所 | 電話番号 |
造山古墳 | 岡山県岡山市北区新庄下 | 086-270-5066 |
応神天皇と吉備
先に述べた様に応神天皇の時代に、造山古墳が出来上がった説があります。
日本書紀によると応神天皇の妃が兄媛であり、吉備の出身となっています。
この記述を見ると大和王権と吉備が政略結婚を結んでおり、吉備の発展と関係しているのではないかと考えられています。
応神天皇は吉備の小豆島に行き吉備の御友別が接待を行い多いに喜んだ話が日本書記にあります。
応神天皇は御友別を多いに気に入り一族たちで吉備を分割して治める様にさせました。
応神天皇の御世は385年から425年までとする説があり、400年頃に造山古墳が造営されたとも考えられています。
造山古墳が出来上がる頃が古代吉備の全盛期でもあり、大和王権と深い繋がりがあったとも考えられています。
吉備の衰退
吉備の造山古墳に続く古墳が作山古墳であり、こちらも巨大古墳です。
作山古墳に続く大型古墳が岡山県赤磐市にある両宮山古墳となります。
(画像:ウィキペディア)
両宮山古墳からは葺石や埴輪が確認されておらず、不自然な古墳になっています。
両宮山古墳は460年頃から480年頃の古墳だとされていますが、これが雄略天皇の御世だったとも考えられています。
雄略天皇の7年に吉備上道臣田狭が自分の妻の稚媛の美貌を自慢し、雄略天皇は稚媛を自分のものにしてしまおうと考え、吉備上道臣田狭を任那の国司に任命しました。
雄略天皇は稚媛を召し寄せて二人の子を設ける事になります。
稚媛も自らの子である星川稚宮皇子を天皇にしたいと働きかけますが、雄略天皇は許さず白髪皇子が清寧天皇として即位しました。
稚媛は諦める事が出来ず、星川稚宮皇子と共に反旗を翻しますが、大伴室屋大連らにより鎮圧され命を落としています。
吉備上道臣が水軍を率いて稚媛の救援に駆け付けようとした話があり、これが吉備上道臣田狭だったとする説もあります。
この一連の騒動により吉備は衰退し、両宮山古墳に葺石や埴輪もない未完の古墳になってしまった原因ともされているわけです。
雄略天皇の時代に吉備は力を削がれ大和王権に完全に組み込まれたとみる事も出来ます。
古代吉備の動画
古代吉備のゆっくり解説動画です。