
| 名前 | 潁考叔(えいこうしゅく) |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前712年 |
| コメント | 仁と勇を兼ね備えている |
潁考叔は史記や春秋左氏伝に登場する人物であり、鄭の荘公と武姜の間を取り持った人としても有名です。
春秋左氏伝によると、潁考叔は潁谷の封人(辺境守備役人)だと身分も伝えています。
鄭の荘公と武姜の話を聞くと、思いやりがあり「仁」という言葉がよく似合う人でもあるのではないでしょうか。
しかし、潁考叔は戦場に出れば城壁を真っ先に登った話もあり「勇」の人だと言えます。
潁考叔は公孫閼と争った話はありますが、仁と勇を兼ね備えた人物だとみる事が出来るはずです。
潁考叔の進言
鄭の荘公は共叔段の乱の時に、母親の武姜が内通した事で、城潁に幽閉しました。
鄭の荘公は「黄泉の国に行くまで会う事は無い」と告げますが、後に母親の事を思い出し後悔する事になります。
ここで、潁考叔が進んで鄭の荘公に謁見を望む事になります。
鄭の荘公は食事を出すと潁考叔は次の様に述べました。
※春秋左氏伝より
潁考叔「私には母親がおりますが、いつも私が用意する食事ばかりであり、一度も若君のスープを頂いた事がございません。
これを土産として家に持ち帰りたいと思います」
潁考叔の言葉に対し、鄭の荘公は「お前には土産を持って帰る母親がいるのに、私にはいないのだ」と心境を吐露しました。
鄭の荘公は母親の武姜を幽閉した経緯などを潁考叔に伝える事になります。
潁考叔は話を聞くと「何の心配もありません。地下水の湧く所まで地面を掘り、地下道を通り母上とお会いになれば、誰も誓いを破ったとはいわないでしょう」と告げたわけです。
鄭の荘公は潁考叔の言葉に従い母親の武姜に会いました。
再開した鄭の荘公と武姜は既に憎しみもなく、普通の親子に戻る事が出来たわけです。
潁考叔の最後
春秋左氏伝の魯の隠公の11年(紀元前712年)に、潁考叔の最後の記録があります。
鄭の荘公は許を攻める事になりますが、ここで潁考叔と公孫閼が争う事になります。
鄭の荘公は魯の隠公や斉の僖公と共に許を攻撃しますが、公孫閼は潁考叔の事を恨んでいたわけです。
潁考叔は猛将でもあり、蝥弧と呼ばれる鄭伯の旗を持ち城壁の先頭を登りますが、下にいた公孫閼は潁考叔に弓を放ち命中しました。
潁考叔は墜落し、そのまま亡くなっています。
戦いの方は蝥弧を持った瑕叔盈が奮戦し、勝利に貢献しました。
許の荘公は衛に逃亡する事になります。
鄭の荘公の呪詛
潁考叔は鄭の荘公にとって、忠臣でもあったのでしょう。
武姜との仲を取り持ち、戦いになれば真っ先に城壁を登るなど、鄭の荘公にとってみれば、かけがえのない臣下でもあったはずです。
潁考叔は「仁」と「勇」を兼ね備えた人物でした。
鄭の荘公は潁考叔が亡くなった話を聞くと、公孫閼に対し呪詛を行った話があります。
鄭の荘公が公孫閼を処刑ではなく呪詛としたのは、公孫閼が既に逃亡してしまったからなのでしょうか。
公孫閼の為に鄭の荘公は呪詛を行ったわけですが、春秋左氏伝を見ると「何の益にもならぬ」と非難されています。