
衛の桓公は陳の戴嬀の子で、荘姜に育てられました。
しかし、父親の衛の荘公は妾腹の弟である州吁を可愛がり、これがのちに悲劇を生む事になります。
衛の桓公は即位すると、鄭の共叔段の子の公孫滑が衛に亡命した事もあり、鄭と戦いになっています。
こうした中で、州吁の襲撃もあり衛の桓公は最後を迎えました。
荘姜に育てられる
衛の荘公は斉の東宮(太子)得臣の子である荘姜は美人ではありましたが、子を生むことはありませんでした。
衛の荘公は陳から姉妹を貰い姉の厲媯が子を生むも早くに亡くなり、妹の戴嬀が姫完を生む事になります。
ここで荘公と陳の姉妹の間で話し合いが持たれ、荘姜が姫完を育てる事になります。
正室と側室の間で争いが起きない為の配慮として、荘姜が姫完を養育する事になったのが実情でしょう。
大国である斉の出身の荘姜に育てられる事になった時点で、姫完は衛の後継者に決定したとも言えます。
実際に姫完は衛の桓公として即位する事になります。
問題は父親の衛の荘公が妾の子である州吁を寵愛した事になります。
州吁は武を好みますが、衛の荘公は正そうともせず、荘姜はこれを憎んだとあります。
石碏も衛の荘公を諫めますが、聞き入れる事はありませんでした。
それでも、衛の荘公は大国の斉に気を遣ったのか、姫完を太子の座から外すなどはしてはいません。
衛の桓公と州吁の排斥
衛の荘公が亡くなると、衛の桓公が即位しました。
史記によると、弟の州吁が驕奢であり衛の桓公は排斥したとあります。
州吁は驕慢であり、衛の桓公には目に余る態度であり、朝廷から追い出してしまったのでしょう。
衛の桓公の2年(紀元前733年)に、州吁は衛を出奔する事になります。
鄭との戦い
紀元前722年に鄭の荘公と共叔段が戦いとなり、共叔段が敗れますが、子の公孫滑が衛に亡命してきました。
春秋左氏伝には衛の人が鄭を攻撃し、廩延を占拠したとあります。
春秋左氏伝の記述を見る限りだと、衛の桓公は公子滑を支持し、兵を出し鄭を討った事になります。
しかし、鄭も反撃し東周王朝や虢の軍と共に衛の南郊を討ちました。
鄭は邾にも参戦を求め、邾が魯の公子豫に非公式に通知しており、公子豫も参戦した話があります。
共叔段の乱が波及し、鄭と衛の関係も悪化したと言えるでしょう。
紀元前721年にも鄭は衛を攻撃しており、公孫滑の事件に加担した事への報復を行いました。
尚、衛を出奔した州吁は、似た境遇にいた共叔段と結びつく事になります。
衛の桓公の最後
衛を出奔した州吁は、衛からの逃亡者を配下に加え衛の桓公を襲撃しました。
これが衛の桓公の16年(紀元前719年)の話です。
衛の桓公は州吁の乱により命を落としました。
州吁は衛の君主となりますが、国を纏める事ができず、石碏により命を落とす事になります。
国人らは衛の桓公の弟の衛の宣公を立てました。