袁徽は袁渙の従弟であり、兄に袁覇、弟に袁敏がいた事が分かっています。
兄弟の袁覇や弟の袁敏は曹操や曹丕など魏に仕えましたが、袁徽は戦乱を避けて交州に避難した事が分かっています。
袁徽に関しては、正史三国志・袁渙伝に次の記述が存在します。
袁覇の弟の袁徽は儒学により兼ねてから評価されていた。
天下動乱の時代になると交州に避難し、司徒に招かれても行かなかった。
正史三国志の袁渙伝だけだと、内容が簡略過ぎて分かりにくい部分もあるので、袁宏の「漢紀」や士燮や許靖との逸話と共に解説します。
尚、袁徽は名士であり、同じく名士の荀彧に士燮や許靖についての手紙を送っており、内容が正史三国志に記載されています。
自分の意思で行動
裴松之が残した袁渙伝の注釈・漢紀によれば、天下に動乱の兆しが出て来ると、袁渙は次の様に述べた話があります。
袁渙「漢の王室は衰微しており、動乱は間近に迫っている。
仮に天下が乱れれば、どこに逃亡すればいいのだろうか。
天にまだ道徳を存続させる意思があるとすれば、人民は道義により生きて行く事が出来る。
ひたすら強固に意思を保ち、礼を失う事が無ければ、身を庇う事が出来るのではなかろうか」
袁渙は世の中が乱れる事を予知し、嘆くと同時に生き残る術を礼に求めたのでしょう。
袁渙の発言を聞いた袁徽は、次の様に述べました。
袁徽「古の人は次の様に述べています『変化の兆しを察知する事が神業である』と。
変化の兆しを掴み行動するからこそ、君子は大吉を享受できるのです。
天道には盛衰があり、漢は滅びてしまう事でしょう。
大きな功績を挙げる為には、大きな事件が必要であり、これもまた君子は分かっている事なのです。
混乱を避ける為には一歩退き、天道の僅かな動きに潜ませればよいのです。
戦争が起きた後は、外からの災難を多く加えられる事になるでしょう。
私は、はるか遠くの山や海のある場所に逃れて、我が身の安全を保全したいと思います」
袁徽は袁渙に独自の考えを述べながらも、遠くに避難すると伝えた事になります。
袁徽の避難先が中国の最南端とも言える交州であり、袁徽は士燮を頼りました。
この話が年々位の話なのかは不明ですが、個人的には袁徽や袁渙の出身地である豫州陳郡にいた頃ではないかと感じています。
袁徽は交州に避難しますが、袁渙は豫州刺史の劉備に茂才に推挙された後に、袁術を頼り南方に向かい、呂布に仕え下邳の戦い後には曹操に仕えました。
個人的には袁渙が揚州の袁術を頼り南方に移動した時に、袁徽は交州に向かった様に思います。
それか袁渙が呂布の配下になった頃に、何かしらの原因で袁徽は士燮の元に向かったとも感じました。
交州で身を賄う
士燮を絶賛
正史三国志の士燮伝によると、交州に避難した者は袁徽だけではなく、中原の士人だけでも何百人といた記録があります。
士燮は温厚で謙虚な姿勢があり、多くの人が士燮を頼ったのでしょう。
袁徽が荀彧に送った手紙には、師匠に関して次の様に書かれていました。
※正史三国志・士燮伝の記述
交州の士府君(士燮)は豊かな学識を持ち、政治のやり方も通じている。
大乱の中にありながら、一郡の安全を計り、二十余年に渡り、領内には事もなく民衆たちは仕事が出来ております。
故郷を失った人であっても、恩恵を享受する事が出来ているのです。
竇融が河西の地を安全に保った例も、これに過ぎたるものではありません。
さらに、士府君は公務に暇が出来れば、いつも古典を学び、その中でも春秋左氏伝には深く詳しく習熟しております。
私は何度か春秋左氏伝の中の疑問点を訪ねましたが、返って来た答えは、まともな学者の説であり議論も綿密でした。
尚書に関しては、古文家の説だけでなく、今文家の説にも通じており、根本をも詳細に把握しております。
私が聞く所によると、京師では古文と今文の学説の間で、論争があると耳にしております。
私は春秋左氏伝と尚書に関する士府君の議論の中で、特に優れた者を箇条書きとし、献上したいと思います
上記の記述から、袁徽は士燮の春秋左氏伝や尚書のレベルの高さを認め、称賛していた事が分かります。
手紙の中で登場する竇融は、新の王莽の時代から後漢の光武帝の時代の人で、地元豪族と連携し匈奴などから涼州を守った名将です。
士燮を竇融に匹敵すると述べた時点で、袁徽が士燮を高く評価している事が分かります。
袁徽にしてみれば、士燮が優れた人物だと認め、友人の荀彧に士燮の議論を紹介したという事なのでしょう。
尚、士燮ですが若い頃に洛陽に行き劉陶の元で「尚書」や「春秋左氏伝」を学びました。
士燮自身も春秋左氏伝に注釈をつけた話があり、学者レベルの知識は持っていたのでしょう。
袁徽は司徒の要請を断った話がありますが、士燮が治める交州が気に入っており、三公の就任要請すらも断った話があります。
袁徽にとってみれば、士燮の元は居心地も良かったのでしょう。
許靖の人間性を称える
正史三国志の許靖伝に袁徽が、許靖を称えた話があります。
袁徽は交州に逃れたのですが、朝廷で尚書令をしていた荀彧に、次の手紙を送っています。
袁徽「許文休(許靖)は優れた能力を持った偉丈夫で、物事を計画するに十分な才能を持っております。
故郷を離れてから多くの士人と私は交流を持ちましたが、許文休は危険があると、いつも他人の安全を先に考え、自分の事は後回しにしております。
許靖は九族に及ぶ同族や姻戚に方々と、飢えや寒さを共にしているのです。
許靖の仲間に対する規律も憐れみ深く労わりがあります。
全てにおいて成果を挙げており、いちいちこれを説明するのは不可能な程です」
袁徽が許靖を絶賛した記録が残ったいるわけです。
士燮の例を見ても、袁徽と荀彧は頻繁にやり取りをしていたのでしょう。
因みに、許靖は後に劉璋に招かれ益州に行き、後には劉備に仕え、劉備には皇帝に即位する様に勧めた話があります。
諸葛亮も許靖を称賛した話があります。
尚、許靖は222年に死去しました。
因みに、袁徽が称賛したもう一人の人物である士燮は、後に孫権の傘下に入り、226年に90歳の高齢で亡くなっています。
袁徽に関しては記録はありませんが、それまでには亡くなっていたのかも知れません。