三国志 西晋 魏(三国志)

袁侃(えんかん)は人づきあいが得意で友人想い

2022年6月23日

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名前袁侃(えんかん) 字:公然
生没年不明
勢力曹叡→曹芳→曹髦→司馬師→司馬昭→司馬炎
一族祖父:袁滂 父:袁渙 兄弟:袁侃、袁㝢袁奥袁準

袁侃は字が公然であり、袁渙の子です。

袁渙の子は袁侃、袁㝢袁奥袁準がいますが、兄弟の中で最も記録がはっきりとしているのが袁侃です。

袁侃の弟である袁㝢、袁奥、袁準は優れた人物だった記録が残っていますが、袁侃もまた優れた人物であったとされています。

正史三国志の袁渙伝の注釈・袁氏世紀に「他人と仲良く交際出来た」とあります。

実際の袁侃を見ると人に気を遣った部分も多々見られ、気が利く人物でもあったのでしょう。

袁侃は柔和でありながら威厳があったとあり、この辺りは袁渙の血を濃く受け継いだ様にも感じました。

正史三国志にも袁侃は、清潔純粋、閑静質素な人で父親の面影があったと記載されています。

尚、袁侃の家柄はよく名士でもあります。

司馬懿に評価される

袁氏世紀によると、袁侃は議論は清新妥当、柔和でありながらも威厳があり、他人と仲良く交際が出来たとあります。

それを考えると袁侃は人当たりは良いのに、威厳があり気遣いも出来ると言った人間だったのでしょう。

正史三国志の杜畿伝の注釈・杜氏新書によれば、袁侃、李豊、杜恕、荀俁と仲が良かった話があります。

荀彧の六男である荀顗は陳羣からも才能を評価されていた人物であり、荀顗が司馬懿と会った時に、荀顗を高く評価し、司馬懿は次の様に述べました。

司馬懿「流石は荀令君(荀彧)の子だけの事はある。最近、袁侃にあったが彼もまた、袁渙の子だけの事はあった」

上記の言葉から、袁侃は荀顗と共に司馬懿から高く評価されていた事が分かります。

袁侃は黄門選部郎となり尚書にまで出世した話がありますが、司馬懿が高く評価した事も一つの原因なのでしょう。

尚、司馬懿の子で司馬師が魏の実権を握った時は、王基の手紙の中で許允、傅嘏、袁侃、崔賛が正直の士だと評価されています。

許允を庇う

魏の曹叡の時代に許允と袁侃が、職務上の罪を犯し投獄された事がありました。

どの様な罪だったのかは記録がなく分かっていません。

この時の詔勅は厳しく、処刑される可能性も十分にあったとされています。

こうした中で、許允は袁侃に次の様に述べました。

許允「貴方は功臣(袁渙)の子です。それ故に法律上八議の審議が適用されます。

貴方であれば死刑の心配はありません」

袁侃は許允の言葉を理解し、袁侃が罪を被る事で許允の罪は軽くなり、許允も袁侃も処刑されずに済んだわけです。

袁侃の行動は許允の為の行動であり、友達想いの部分が多かったのでしょう。

袁侃は「他人と仲良く交際できた」とありますが、安心して付き合える部分も多々あった様に思います。

ただし、袁侃が助けた許允は後に、横領の罪で楽浪郡に流され、その道中で病死しました。

杜恕に忠告

袁侃の友人である杜恕は幽州刺史に任命される事になります。

この時に征北将軍として、程喜が薊に駐屯していました。

袁侃は杜恕に対し、次の様に忠告しています。

袁侃「程申伯(程喜)は先帝の時代に、青州刺史であり田国譲(田豫)を讒言した事がある。

貴方はこれから程喜がいる城に行かねばなりません。

程喜を深く心して待遇すべきです」

袁侃は程喜が過去に名臣と言われた田豫を讒言した事を理由に「程喜には気を付けろ」と言った事になります。

しかし、袁侃と杜恕は親しい仲だった話もあり、杜恕は袁侃の忠告を軽く見たのか、気にも留めませんでした。

袁侃の予想は的中し、杜恕が幽州刺史になってから1年も経たないうちに、杜恕は程喜に弾劾の上奏文を提出されてしまった話があります。

尚、袁侃の忠告を聞かずに罪に落された杜恕ですが、父親の杜畿が功臣であり、勤務中に水死した事もあり、罪は減免されました。

それでも、杜恕は平民に落とされてしまい袁侃の、忠告を聞かなかった代償は大きかったと言えます。

王朝交代

袁氏世紀に次の記述が存在します。

※袁氏世紀の記述

王朝交代の時期になると、多くの人が保身に走ったりへつらったりするが、袁侃は常に控えめだった。

当時の人は、それを見て称揚した。

王朝交代の時期と言うのは、265年に魏が晋に変わる時を指す様に思います。

王朝交代の時期になっても、袁侃は堂々とした態度でいたと言うのでしょう。

この辺りは父親である袁渙にも似ていると感じました。

袁侃の最後

袁侃は何年に亡くなったのかは記録がありません。

袁氏世紀には「早く亡くなった」と記録があり、20歳くらいで亡くなったかのように思うかも知れません。

しかし、袁侃は司馬師の時代の話もあり、父親の袁渙が亡くなったのは、曹操がまだ生きていた時代です。

それを考えると「早く亡くなった」と書かれながらも、実際には40歳は軽く超えていた様に思います。

この辺りは、どの様になっているのかイマイチ不明な部分でもあります。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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