室町時代

円観は後醍醐側近でありながら北朝に仕えた

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前円観(えんかん)
別名慧鎮、恵鎮
時代鎌倉時代ー南北朝時代
コメント後醍醐天皇の側近だったが北朝に仕えた

円観は鎌倉時代は後醍醐天皇の側近として仕える事になります。

元弘の変では早い時期に六波羅探題に捕らえられ、陸奥に流罪となりました。

南北朝時代が始まると、北朝に仕え後醍醐天皇とは袂を分かつ結果となっています。

観応の擾乱では足利尊氏の使者として、南朝と交渉を行いますが、既に南朝からは嫌われていたのか失敗しました。

因みに、円観は足利直義太平記を見せて、校訂させた僧侶としても知られています。

太平記の校訂の話は、今川了俊の難太平記に記録があります。

後醍醐天皇の側近

円観は法勝寺の僧侶であり、後醍醐天皇の側近になった人物です。

太平記を読み始めた人なら、比較的最初の方から登場する事もあり、知っている人も多いのではないでしょうか。

元弘の変では吉田定房の密告により、円観は文観や忠円、日野俊基らと共に、鎌倉幕府の北条高時に目を付けられました。

円観は六波羅探題に逮捕され、陸奥に配流されています。

主君である後醍醐天皇は隠岐に流されたりもしますが、最終的に鎌倉幕府を滅ぼしました。

円観も京都に戻る事になります。

南北朝時代の始まり

足利尊氏の攻勢により、後醍醐天皇は比叡山に追い詰められますが、後に和睦しました。

この時に新田義貞は北陸に下向しています。

後醍醐天皇は京都の花山院に幽閉されてしまいますが、後に脱出し吉野で南朝を開きました。

円観は後醍醐天皇の腹心だった事もあり、普通で考えれば吉野に行き後醍醐天皇に仕えると思うかも知れません。

しかし、円観は後醍醐天皇に追従せず、京都に残ったわけです。

円観は後醍醐天皇と敵対する北朝に仕えました。

円観の行動に後醍醐天皇はガッカリした様に感じています。

それと同時に南朝の廷臣らも、円観のことを良くは思わなかったでしょう。

南朝との講和交渉

使者に選ばれる

観応の擾乱で足利尊氏と直義は対立しました。

足利直義は北陸に出奔しています。

足利尊氏は細川顕氏を使者として、直義と講和交渉を進めるのと同時に、南朝にも使者を派遣し講和交渉を行いました。

尊氏は円観に命じて、南朝との交渉を進めさせようとしました。

しかし、円観は体調不良を理由に断りますが、足利尊氏は引かなかったわけです。

無理やりともとれる行動で、円観を使者としました。

円観は渋々ではあったと思いますが、南朝への使者となります。

山中に追い出される

円観は使者として南朝に向かいますが、当然の如く失敗しました。

円観は後醍醐天皇の側近だったにも関わらず、北朝を支持した僧侶であり、南朝でもかなり評判が悪かったと考えられます。

円観自身も、それらの事は理解しており、使者の役目を最初に断ったと思われます。

それでいて、過去に足利直義は南朝との交渉に失敗し、北畠親房には「交渉の断念」を宣言されていました。

後村上天皇及び南朝の人々は、そもそも室町幕府に不信感があり、難しい交渉だったとも考えられています。

円観は南朝との交渉を行いますが、強く拒絶され山中に追い出される始末でした。

当然ながら円観は京都に戻り失敗を報告したわけです。

足利尊氏は直義との決戦が避けられなくなると、北朝を廃し全面降伏の形で南朝に降伏しました。

これにより正平一統が成立しています。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細