藤井寺合戦(南北朝時代) | 1347年 | |
勢力 | 南朝 | 北朝 |
指揮官 | 楠木正行 | 細川顕氏 |
兵力 | 不明 | 不明 |
損害 | 不明 | 不明 |
勝敗 | 勝利 | 敗北 |
藤井寺の戦いは楠木正行と細川顕氏の戦いです。
別名が藤井寺合戦であり、太平記では楠木正行の初陣という事になっています。
細川顕氏は油断しており、楠木正行が急襲し勝利しました。
楠木正行が油断できない人物として世に知れ渡ったのが、藤井寺の戦いとなります。
細川顕氏は藤井寺合戦で破れはしましたが、山名時氏と共に楠木正行へのリベンジを考え、舞台は住吉合戦に向かう事になります。
藤井寺の戦いが勃発
1347年8月10日に楠木正行は突如として挙兵し、紀伊の隅田城を攻撃しました。
隅田城は父親である楠木正成の二度目の挙兵で攻撃した隅田荘と同じ場所です。
楠木正行のターゲットは北方の室町幕府ですが、背後にある紀伊に後方からの攻撃を受けない為に、南にある隅田荘に攻撃を加えたのでしょう。
さらに、河内国池尻、八尾城に攻撃を掛け藤井寺の戦いが勃発する事になります。
太平記では楠木正行の初陣が藤井寺の戦いだとされています。
当時は北朝が圧倒的に優勢であり、足利尊氏や直義は大して楠木正行を警戒する事もなく、細川顕氏に佐々木道誉や赤松範資らに三千騎ほどを与え出陣させています。
尚、藤井寺の戦いで幕府軍の総大将となった細川顕氏は、名将として名が通った人物です。
細川顕氏は北朝及び室町幕府の河内守護でもあり、南朝の河内守護である楠木正行との戦いとなります。
細川顕氏の油断
太平記によると楠木正行は河内の住吉・天王寺と移動し、摂津国中島で民家を焼き払い幕府軍を挑発しています。
足利尊氏が派遣した細川顕氏は藤井寺に本陣を置く事になります。
細川顕氏は藤井寺から正行の館まで七里(約28キロ)もあるので、戦いが始まるのは早くても明日以降だと考えていました。
細川顕氏は油断していたと言えるでしょう。
楠木正行の勝利
敵は来ないと腹をくくっていた細川顕氏に対し、楠木正行は七百騎ほどの精鋭を引き連れて、誉田八幡宮の付近まで来ており細川顕氏の軍に奇襲を仕掛けたわけです。
細川顕氏は明らかに準備不足であり、奇襲をもろに受けてしまい天王寺へ後退し、さらに渡辺まで軍を引く事になります。
太平記では楠木正行が深追いしなかった事で、細川顕氏は京都に逃げ帰ったとあります。
実際の細川顕氏は藤井寺の戦いで敗れた後に、河内に残り教興寺の戦いでは、最初は優勢でしたが、楠木正行の夜襲により敗北したとあります。
園太暦にも楠木正行の勝利と細川顕氏の敗北が記録されており、史実でも河内での戦いで幕府軍が敗れた事だけは間違いないのでしょう。
藤井寺の戦いの影響
細川氏は足利一門では家格が低かったにも関わらず、足利尊氏の信頼により順調に出世を重ねてきました。
しかし、細川顕氏は藤井寺の戦いでの敗北により、不名誉な記録を残した事になります。
逆に楠木正行は寡兵で大勝利を挙げた事で、室町幕府は警戒する事になります。
細川顕氏は諦めておらず、山名時氏と共に楠木正行へ雪辱の為の戦に挑む事になります。
史実の藤井寺合戦
洞院公賢の日記である園太暦に藤井寺合戦に関して書かれています。
1447年8月の終わり頃に楠木正行は中高野街道・下高野街道が合流し、南河内へと至る交通の要衝である池尻で幕府軍を破りました。
楠木正行は中河内に軍を進め、9月には八尾城を攻撃しています。
河内守護の細川顕氏と紀伊守護の畠山国清、近江守護の六角氏頼が大軍勢で接近しており戦いが始まりました。
楠木正行は藤井寺の戦いで六角氏頼を撃破し、さらに教興寺の戦いで夜襲を仕掛け細川顕氏を急襲し、大きな損害が出ています。
楠木正行が戦いに勝利した事で、東国では小山・小田が蜂起し吉野にいた宇都宮某も本国の下野に向かい南朝再起の引き金になったとあります。
1344年に北畠親房は常陸合戦で破れ吉野に戻りましたが、仮に常陸合戦が行われている最中に楠木正行が幕府軍を相手に大勝していたなら、南朝に勢いがつき結城親朝や小田治久なども南朝を支持し続けた様に感じています。
園太暦の記述でも細川顕氏との一連の戦いで勝利しており、楠木正行が大勝した事は事実なのでしょう。
ただし、細川顕氏の軍は総崩れしたわけでもなく持ちこたえており、室町幕府では伯耆守護の山名時氏を向かわせました。
師守記によると、山名時氏は援軍に向かいましたが、直ぐに楠木正行と交戦する事は無かった様です。
藤井寺合戦が終わると舞台は住吉合戦に移る事となります。