名前 | 後円融天皇(ごえんゆうてんのう) |
諱 | 緒仁 |
生没年 | 1358年ー1393年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:後光厳天皇 母:広橋仲子 配偶者:三条厳子 |
子:後小松天皇、珪子内親王、道朝親王など | |
コメント | 妻への暴力で権威を失墜させた。 |
後円融天皇は後光厳天皇の子で、南北朝時代の天皇でもあります。
後円融天皇の御代は室町幕府の足利義満の時代です。
表面上は足利義満と上手くやっている様に見える時期もありましたが、結局は両者の関係は破綻しました。
それでも、後円融天皇は自らの子である後小松天皇に譲位する事には成功しています。
後円融天皇のストレスは極限まで達したのか、妻の三条厳子を峰打ちで殴打した事件まで起こしています。
大問題を起こしてしまった事もあり、後円融上皇の権威は地に堕ちました。
尚、後円融天皇は36歳の若さで崩御しています。
後光厳天皇践祚の経緯
後円融天皇の父親である後光厳天皇は、普通に行けば皇位継承出来るような身分ではありませんでした。
当然ながら、後円融天皇も普通にいけば、皇位継承出来るような身分ではなかったはずです。
室町幕府内で観応の擾乱が起こり足利尊氏が南朝に降伏した事で、正平一統が成立し北朝は廃されました。
後に南朝が正平一統を破棄し、京都を制圧し北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇と皇太子だった直仁親王を賀名生に連れ去ってしまいました。
こうした中で西園寺寧子が治天の君の代行者となり、三種の神器もないままで、佐々木道誉らにより後光厳天皇が誕生したわけです。
勿論、後光厳天皇は「偽主」「偽朝」などの言われ様であり、これが後円融天皇にも引き継がれており、正統性には疑問が持たれる結果となっています。
北朝内の皇位継承問題
足利尊氏の晩年である延文二年(1357年)までには、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王は京都に戻ってきました。
ここで崇光上皇や北朝の廷臣らは「あくまでも後光厳天皇は中継ぎ」と考えていたのでしょう。
しかし、後光厳天皇は中継ぎと考えておらず、自らの子である緒仁親王(後円融天皇)を践祚させようとしました。
今までの持明院統の中継ぎの天皇を見ると、花園天皇や光明天皇に代表される様に、役目を全うした者が続いていたわけですが、室町幕府の意向もあり、後円融天皇に皇位継承のチャンスが回ってくる事になります。
大覚寺統では後醍醐天皇と皇太子の邦良親王が対立したりもしていましたが、持明院統では皇位継承は一本化される事が多かったわけですが、ここにきて皇位継承争いが勃発したという事です。
北朝内の皇位継承争いは後光厳天皇の子である緒仁(後円融天皇)になるのか、崇光上皇の子である栄仁親王になるのかの戦いでもありました。
後円融天皇と細川頼之
足利義詮が没すると後継者の足利義満は幼少であった事から、細川頼之が管領として政務をみました。
細川頼之は後光厳天皇を支持しており、後円融天皇即位の後ろ盾にもなっています。
しかし、土岐頼康は崇光上皇の皇太子である栄仁親王の乳父であった事から、崇光流が皇位継承すべきと考えました。
斯波義将や渋川幸子なども崇光上皇を支持しています。
細川頼之の娘には「細川局」がおり、広橋仲光に嫁いでいました。
広橋仲光は後円融天皇の生母である広橋仲子の一族でもあり、後円融天皇にとって細川頼之は大叔父とも呼べる存在だったわけです。
細川頼之のバックアップもあり、後光厳天皇の後継者は緒仁親王(後円融天皇)となりました。
後円融天皇の不安
緒仁親王の誕生
応安四年(1371年)三月に、緒仁親王は日野資教の邸宅で、着袴を行い親王宣下を受けました。
緒仁親王と名乗るのは、この時からです。
細川頼之は緒仁親王の正統性を確立する為に、全力を尽くしました。
後円融天皇の践祚や譲位の為の行事などには、室町幕府が積極的に資金を投入し、公家たちにも強制参加させる様に取り計らっています。
細川頼之は武士達には倹約を勧めましたが、後円融天皇には権威高揚の為に大枚を投入したわけです。
しかし、こうした時期に春日神木の入洛があり、興福寺教徒の問題が長期化した事で、後円融天皇の即位礼も大嘗会も中々行う事が出来ませんでした。
疑心暗鬼
後円融天皇には不安がかなり多かったのではないかと考えられています。
先にも述べた様に、父親の後光厳天皇の即位には、正統性に疑問が持たれました。
さらに、ライバルの栄仁親王の方が先に親王宣下を受けています。
廷臣たちも表面上は自分を認めてくれても、内心は「真の皇位継承者は栄仁親王」と思っているのではないかと疑っていた可能性もあるでしょう。
生母の広橋仲子の出自の低さも、劣等感を与えたのではないかと考えられています。
室町幕府の細川頼之が積極的に支援してくれても、幕府内には後円融天皇を支持しない者もおり、細川頼之が失脚したら、どうなってしまうのかという不安もあったはずです。
後円融天皇は天皇としての外面を取り繕っても、内面でも不安が大きかったと考えられています。
後円融天皇は疑心暗鬼になってしまった可能性もあります。
ただし、不安が表面に出ていなかった時代は、まだまともだったと言えるでしょう。
大嘗会
後円融天皇の綸旨
大嘗会も行う事が出来ずにいましたが、応安七年(1374年)になると、父親の後光厳天皇が崩御しました。
春日神木も帰座し、後円融天皇は、その年の暮れに太政官庁に行幸し、即位礼を行う事になります。
この即位礼では二条良基の印明を伝授される事に抵抗しており、後円融天皇と二条良基の間が上手くいっていない事が分かります。
翌年には大嘗会が行われる事になりました。
父親の後光厳天皇の大嘗会は観応の擾乱で荒れていた事で、略式で行われました。
しかし、後円融天皇の大嘗会は戦乱という程でもなく、略式で行うわけにはいかなかったわけです。
大嘗会の資金集めの為に細川頼之は酒税を取るなどしました。
こうした中で税を巡って賀茂社と揉めており、この時に後円融天皇の綸旨が泥にまみれた話があります。
自らの綸旨が泥にまみれるのは、後円融天皇や廷臣、当時の人々に衝撃を与えたとみる事が出来ます。
雨の中の大嘗会
永和元年に後円融天皇の大嘗会が開催されました。
ただし、三条実冬の日記によれば、この時の大嘗会は、土砂降りの雨の中で暗闇で挙行されたとあります。
後円融天皇は雨の中で、大嘗会を行いますが、この様子を足利義満は特別席で見ていました。
足利義満は松明を掲げ見える様に明るくしており、薄暗い雨の中で大嘗会を行う後円融天皇と松明が明るい中にいる足利義満という構図になった事が書かれています。
見方を変えれば天照大神が足利義満であり、黄泉の国の住人が後円融天皇に見えた可能性もあるのではないでしょうか。
この様な状況に後円融天皇の不満は募ったと考える事も出来ます。
尚、後円融天皇は大嘗会が終わった後に、百首和歌の詠進を求め、勅撰和歌集(新後拾遺和歌集)の撰集作業も始まる事になります。
細川頼之は二条良基に朝廷の政務を取り仕切って貰おうとしましたが、後円融天皇は難色を示しました。
後円融天皇の朝廷では問題が山積みであり、朝廷儀礼も中々行う事が出来なかったわけです。
後円融天皇と足利義満
足利義満の公家社会進出
1379年の康暦の政変により、細川頼之が失脚し斯波義将が管領に就任しました。
斯波義将は過去に栄仁親王の皇位継承が妥当だと考えた人物であり、後円融天皇にも不安がよぎったはずです。
この頃になると、足利義満も成人しており、後円融天皇とは従弟の関係にある事から、崇光上皇や栄仁親王の復権は阻止されました。
足利義満は二条良基の助言もあり、公家社会にも進出し、諸問題に対しての積極的に介入しています。
足利義満は後円融天皇の政治を軌道に乗せるべく動いたわけです。
後円融天皇と足利義満の関係
康暦の政変の辺りから足利義満の参内が増えている事が分かっています。
康暦二年(1380年)8月に、足利義満は参内し後円融天皇を訪問しました。
この時に後円融天皇は酒宴を開いており、足利義満は「出直す」事にし、挨拶もせずに帰路に着きました。
この話を聞いた後円融天皇は慌てて、足利義満を呼び戻し場所を改めて酌を交わした話があります。
後円融天皇がかなり気を遣っている様にも見えますが、二人の関係は表面上は良好に見えるわけです。
しかし、結局のところ後円融天皇と足利義満は相性が悪かったのではないかと考えられています。
笙に難色を示す
足利義満は後円融天皇に「笙の演奏をしてみてはどうか」と提案しました。
持明院統では代々に渡り琵琶の演奏がされてきましたが、足利尊氏などは琵琶を好み義満も琵琶を嗜んでいたわけです。
後光厳天皇も笙を演奏しており、後円融天皇が笙を演奏するのは「幕府と朝廷の良好な関係」をアピールするものであり、足利義満は提案したのでしょう。
後円融天皇が笙を演奏する事は、政治的な意味合いも含まれています。
しかし、後円融天皇は難色を示しました。
足利義満は公家たちの「朝議の全員出席」と「時間厳守」を徹底されようとした人でもあり「やるべき事はやれ」という性格です。
それでいてアメとムチを使いこなす性格でもあります。
それに対し後円融天皇の「笙を演奏しない」などは「やるべき事をやらない」とする部類であり、義満を多いに苛立たせました。
こうした理由から後円融天皇と足利義満の相性は、かなり悪かったとも考えられています。
尚、ここで後円融天皇が笙を覚え文化人として目覚めていたら、後年の暴力事件は起きていなかったのではないかと感じています。
武家執奏と綸旨
後愚昧記によると、永徳元年(1381年)八月に後円融天皇の妻・三条厳子の父親である三条公忠は、足利義満に洛中四条坊門町の東一町ほどの敷地を得ようとしました。
当時は遠隔地からの荘園収入が滞っており、三条公忠は京都周辺の地から安定的な収入を得ようとした訳です。
足利義満は「京都の事は天皇が決めるべき事だから」と断りを入れますが、三条公忠は引き下がらず、強く願いました。
足利義満が折れて武家執奏を出す事になります。
これを見た後円融天皇は激怒し、妻の三条厳子に「武家執奏である以上は綸旨は出す。そうしなければ武家の意に反するからだ。しかし、お前の顔などもう見たくもない」と告げました。
これに驚いたのが三条公忠であり、最終的に要求を取り下げています。
足利義満の激怒
右近衛府の出納で大石範弘が、後円融天皇の勅勘を蒙る事がありました。
足利義満は後任の人事として、中原職富を推挙し執奏しますが、後円融天皇は難色を示したのか、即答を避けています。
後円融天皇の態度に激怒したのが、足利義満です。
後円融天皇は足利義満が怒っている話を聞くと、慌てて勅裁を出しますが、足利義満は受け取りませんでした。
足利義満の怒りは収まらず、右大将を辞めるとまで言い出しますが、二条良基に宥められて思いとどまっています。
この事件が後円融天皇と足利義満の間に、決定的な亀裂を生んだともされています。
足利義満の公家社会の進出には、後円融天皇が精神定期に追い詰められていたのではないかとする見解もある状態です。
後円融天皇と二条良基
年爵を拒否
後円融天皇が嫌っていた人物に二条良基がいます。
二条良基は幕府との太いパイプを持ち、公家社会最大の実力者でもあります。
後円融天皇と二条良基は非常に折り合いが悪く、後円融天皇とのトラブルにより二条良基が年爵を申請しない事がありました。
年爵は任意の人物を叙爵できるものであり、院などの朝廷の実力者が持つ権利です。
年爵により近臣の子息を優遇する事も可能であり、二条良基が持っている利権でもありました。
しかし、後円融天皇と二条良基の折り合いの悪さから、自ら放棄しています。
後円融天皇の激怒
後円融天皇は士仏法師という医師としても活動した人物の褒賞について、二条良基に相談した事がありました。
ここで二条良基は即答を避けて、細川頼之に相談しています。
この話が後円融天皇の耳に入り後円融天皇が激怒したと言います。
後円融天皇がキレた理由に関しては「なんでも幕府に相談するのはやめろ」とでも言いたかったのでしょう。
こうした事もあり、後円融天皇と二条良基の溝は深まり疎遠になっていく事になります。
後小松天皇への譲位
後円融天皇と譲位の理由
表面的には足利義満と和解はしていても、後円融天皇の心労は多かったと考えられています。
後円融天皇は我が子の幹仁(後小松天皇)への譲位を速やかに行おうとしました。
後円融天皇の父親である後光厳天皇は、突如として践祚し天皇になっているのであり、北朝の皇室財産が殆どなく、後円融天皇も同様に財産がありませんでした。
北朝の財産を受け継いでいるのは、崇光上皇の系統であり、財力では崇光流が圧倒していたわけです。
光厳天皇は亡くなる前に、天皇財産の象徴とも言うべき、長講堂領を次の様に定めていました。
・崇光上皇の子の栄仁親王が天皇になる場合は、栄仁親王の後継者が引き継ぐ
・崇光流と後光厳流の両統迭立の場合は、崇光流が受け継ぐ
・後円融天皇の子孫が皇位継承する場合は、後光厳流が受け継ぐ
つまり、後円融天皇の子である幹仁親王が皇位継承すれば、長講堂領も引き継ぐ事が出来るわけです。
こうした事情もあり、後円融天皇は後小松天皇への譲位を急いだとされています。
朝政が軌道に乗り始めてばかりであり、足利義満も時期尚早と考えた様ではありますが、後円融天皇の強い要望により譲位が決定しました。
譲位を焦る後円融天皇に対し足利義満は「伏見殿様(崇光上皇)のことは気になさらないように、誰が向こうの味方をしようとも私の目が黒いうちは、好きなようにはさせませぬ」と述べた話もあります。
崇光上皇と後円融天皇の弱体化
永徳二年四月に幹仁が践祚しました。
後円融天皇は長講堂領を手にする権利を得ましたが、知行している廷臣たちの了承を取り付ける必要がありました。
崇光上皇と廷臣を引き離す必要がありましたが、後円融天皇では、その力がなく幕府を頼る事になります。
足利義満は家司制度を使って、名家や羽林家の廷臣たちを次々と自らの家政機関に登用しました。
足利義満のこうした政策により、崇光上皇は院政を行うにも人材不在となり、崇光流の皇位継承は絶望的な状態となります。
ただし、足利義満の政策は副作用もあり、後円融天皇の近臣も足利義満が取り込んでしまいました。
当然ながら、こうした状況を後円融天皇は「面白くない」と思って見ていたことでしょう。
後円融天皇のボイコット
幹仁親王の践祚がなり、即位するための準備を勧める事になります。
足利義満は後小松天皇の即位の為に、二条良基と相談し準備を進めました。
しかし、この時に後円融天皇自身が一向に準備をせず、ボイコットした話が残っています。
後円融天皇は足利義満が二条良基とばかり相談し、事を進める事でヘソを曲げたともされています。
後円融天皇としては、足利義満に対する積もり積もったものもあり、ボイコットという態度を引き起こしたのでしょう。
後円融天皇の態度に激怒したのが、足利義満であり、後円融天皇を無視して即位大礼は進められました。
無事に後小松天皇は即位出来ましたが、後円融上皇と足利義満の関係は決定的な亀裂が入っていたと言えるでしょう。
後円融天皇は正月の武家御訪も突き返しており、幕府からの金銭的な援助も受けられる正月行事も行う事が出来ませんでした。
廷臣たちも足利義満の顔色を窺い参院する者はいなかったとも伝わっています。
後小松天皇の内裏では、行事も何の滞りもなく行われますが、仙洞の後円融上皇の方では、後光厳聖忌御経供養も参加者が集まらず、散々たる結果に終わりました。
後円融上皇の行事が上手くいかなかったのは、足利義満が廷臣たちが足利義満の顔色を窺い忖度した為だとされています。
後円融上皇の暴力事件
後円融上皇の三条厳子峰打ち事件
後円融上皇のストレスは極致に達したのか、三条厳子の元に乱入し、突如として剣を抜きました。
この時に、後円融上皇は剣の峰を使い三条厳子を滅多打ちにしています。
三条厳子は血だるまになり、血が止まらず重症となりました。
この時の事を三条公忠は日記に書いており、厳子を讒言した者がいたのかも知れないが、上皇のこの様な振る舞いは前代未聞である。と述べ怒りを露わにしています。
翌日の後円融上皇の母親である崇賢門院仲子が、後円融上皇の元に行き宥め、この間に三条厳子を実家に帰らせています。
事件後の顛末
後円融上皇の三条厳子殴打事件の後に、後円融上皇が丹波の山国荘に逃れたとする噂が流れました。
しかし、これはあくまでもデマであり、後円融上皇は京都から出てはいません。
それでも、後円融上皇の事件の影響は大きく、按察局は出家しました。
按察局は過去に後円融天皇の寵愛を受けましたが、足利義満との密通を疑われ追放されていた人物です。
足利義満は事態を憂慮し、後円融上皇に使者を派遣しますが、後円融上皇は島流しにされると思い込み持仏堂に立て籠もり「切腹する」と言い出しました。
母親の仲子の言葉で後円融上皇は冷静さを取り戻し、使者と面会しています。
後円融天皇は仙洞中園邸宅(仙洞公定邸)から仲子の梅町殿に移りました。
この後に無事に後円融上皇による院政が行われたわけです。
足利義満も思うところがあったのか、後円融上皇による騒動を収拾させ、院政が無事に行えるように協力しました。
足利義満としては、既に後円融天皇の政務の居場所を奪っており、これ以上は妨害しても意味がないと考えたのでしょう。
ただし、後円融上皇の峰打ち事件は、自らの権威を地に堕とす結果となりました。
一条経嗣のこの騒動を「聖運の至極なり、記して益なし、口惜しき次第なり」と記録し、皇室権威の失墜を深く嘆いています。
峰打ち事件の背景には何かあったのか
これまでの話を見ていくと、足利義満へのストレスが峰内事件を引き起こしたとみる事が出来ます。
しかし、過去の後円融天皇は「何でも幕府に相談するのはやめろ」という人であり、専断的な人でもあるのでしょう。
そして、気に入らない事があると「すぐにへそを曲げる」様な性格も見え隠れします。
後円融天皇は人によっては「能力不足」などと評価されていますが、正統性に疑問を持たれており、何事にも疑って取り掛かり自ら能力を下げているのではないかとも感じました。
三条厳子への暴力は、後円融天皇の心の叫びだった様に思えてなりません。
足利義満は「やる事はきちんとやる人であり」後円融天皇は「やるべき事をちゃんとやらない人であり」この相性の悪さも後円融上皇の暴走を引き起こしたのでしょう。
後円融上皇の崩御
後円融上皇は明徳四年(1393年)に36歳で崩御しました。
年齢は36歳だったと伝わっています。
前年には南北合一がなされ南北朝時代が終わっており、峰打ち事件からは10年もの歳月が流れていました。
後円融上皇が南北合一に関与した形跡はなく、どのように見ていたのかは不明です。
後円融上皇の晩年が、どの様なものだったのかはよく分かっていません。
しかし、未だに崇光上皇は健在であり、長講堂領も崇光流のものになっていました。
後継者の後小松天皇は足利義満がしっかりと守っていましたが、不安もあった事でしょう。
尚、椿葉記には「後円融上皇が治天であられた御代は、天下のことは足利義満によって執り行われた」とあります。
実際に後円融上皇の権威は地に堕ちており、足利義満が執り行うしかなかった時代だとも言えます。