古代日本 日本神話

天照大神は皇祖神となった女神

2023年11月20日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前天照大神(あまてらすおおかみ)
別名大日孁貴神、大日女尊、大日孁、大日女、
天照日女之命、天照孁女貴、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
お伊勢さま、神明さま
時代日本神話
コメント皇室の皇祖神となる

天照大神は子孫を辿って行くと、現在の皇室と繋がっており、皇祖神とも言える存在です。

日本を代表する太陽神として、天照大神を思い浮かべる人も多い事でしょう。

天照大神は月読命スサノオと共にイザナギにより誕生し高天原の統治を任されました。

誓約の後にスサノオが暴れた事で、心を病み天岩戸に引き籠る事態となります。

こうした事情から「天照大神は日本の引きこもり第一号」だと揶揄されたりもしています。

しかし、神々の計らいにより天岩戸から出ると、それ以降は引き籠る事もなく、皆と相談しながら物事を進める様になりました。

大国主との出雲の国譲りの時も、一人で悩まずに高御産巣日神やブレーンの思金神らと事を計っています。

日本神話は成長の物語でもあると言いますが、天照大神も物語を進めるうちに成長しているわけです。

現在の日本における最高神は天照大神となっていますが、天照大神が最高神となった経緯は壬申の乱が終わった後に、即位した天武天皇の意向が多分に含まれたとも考えられています。

尚、天照大神は一般的には女神だとされていますが、男神だとする説も存在しています。

天照大神と邪馬台国卑弥呼の同一人物説もあります。

天照大神と卑弥呼の同一人物説に関しては、別記事で記載しました。

天照大神を祀っている神社に関しては記事の最後に紹介してあります。

天照大神の誕生

イザナギイザナミと共に国生み神産みを行い日本を豊かな地に変えました。

ヒノカグツチが生まれた時に、イザナミが亡くなりイザナギは黄泉の国に迎えに行きますが、最後は決別しました。

イザナギは体を清める為にを行いますが、左目を洗った時に天照大神が誕生する事になります。

さらに、イザナギが右目を洗うと月読命が誕生し、鼻を洗うとスサノオが誕生しました。

天照大神が最初に誕生した事で、月読命とスサノオは弟という事になります。

天照大神には明確な母親がいるわけではなく、イザナギの左目から生まれた事になります。

尚、イザナギの顔から生まれた天照大神、月読命、スサノオの三柱を合わせて三貴士と呼びます。

高天原を任される

イザナギは天照大神には高天原を任せ、月読命には夜の国、スサノオには海原を任せました。

この時にイザナギは自らの首飾りを天照大神に与えており、イザナギの能力の全てを天照大神が引き継いだとみる事も出来ます。

イザナギが天照大神に渡した首飾りを御倉板拳之神と呼び名前まであります。

天照大神が最高神だとされる理由は、神世七代の最後であるイザナギから高天原を任された事に由来するのでしょう。

日本神話を見ると、造化三神、別天神、神世七代の神々は既にお隠れになっており、残ったイザナギが後継者に天照大神を指名した事になります。

ただし、これが日本神話の怖い部分でもあり、高御産巣日神などは「隠れた」と言いながらも、普通に登場する事になります。

尚、天照大神は日本の最高神に見られがちですが、古事記で最初に登場する神は天之御中主神であり、順番で考えれば天照大神が最高神とはなりません。

三貴士のツクヨミですが、これ以降に物語には登場せず、日本書紀には保食神を斬った事で天照大神と絶縁した話が残っているだけです。

天照大神と月読命の絶縁状態は昼と夜が分けられた事を指すとも考えられています。

スサノオを待ち構える

スサノオは「母親に逢いたい」と述べ困ったイザナギにより追放されてしまいました。

イザナギはスサノオを追放した後に、引退しています。

これにより日本神話は天照大神とスサノオを中心とした物語に移行する事になります。

スサノオは根の国に行こうとしますが、その前に姉である天照大神に挨拶に行こうと考えました。

天照大神が女神とされる理由の一つとして、スサノオが天照大神を「姉」だと呼んでいる事が理由に挙げられています。

しかし、スサノオは強力なパワーを持った神であり、大地を震動させながら高天原を目指したわけです。

天照大神からして見れば、スサノオが向かって来ると言うのは、凶悪な軍隊が高天原に攻め寄せて来たのと近い感覚だったのでしょう。

尚、スサノオの語源は「荒む」だったのではないか?とも考えられています。

天照大神はスサノオを迎え撃つ為に、鎧の背中には千本入りの矢入れを背負い、胸には五百本入りの矢入れを着けたと記録されています。

この記述から天照大神がスサノオに対し、迎撃態勢を取っている事が分かるはずです。

天照大神とスサノオの誓約

天照大神は猛々しくスサノオを待ち構えていましたが、スサノオは自分に邪心があるわけではなく、挨拶に来ただけだと告げました。

スサノオは身の潔白を証明する為に誓約を提案し、天照大神とスサノオは天の安河原で誓約を行っています。

天照大神とスサノオは誓約により宗像三神や天皇家の祖となるアメノオシホミミを誕生させています。

天照大神とスサノオの誓約で誕生した女神と男神は下記の通りです。

宗像三女神

タキリビメイチキシマヒメタギツヒメ

五柱の男神

アメノオシホミミアメノホヒアマツヒコネイクツヒコネクマノクスビ

古事記では誓約による勝敗の決め事を天照大神とスサノオでしていなかったり、日本書紀では男神が生まれたらスサノオの勝利となっていました。

古事記と日本書紀で共通しているのは、天照大神はスサノオとの誓約で敗北し、スサノオが高天原への残留が決まったという事です。

尚、天照大神とスサノオの誓約をベースにして誕生したのがひな祭りであり、雛壇だとする説もあります。

天照大神が皇祖神とされる理由

天照大神が皇室の皇祖神だとされる理由ですが、スサノオとの誓約が大きいと言えるでしょう。

天照大神はスサノオとの誓約でアメノオシホミミを自分の子としました。

アメノオシホミミの子が瓊瓊杵尊であり、山幸彦、ウガヤフキアエズと続き神武天皇となります。

これを考えれば、天照大神から皇室に連なっているとも考えられ、皇祖神となったいるわけです。

尚、見方によっては天皇の皇祖神はイザナギとする事も出来ますが、天武天皇の思惑もあり天照大神が皇祖神となるのでしょう。

スサノオを庇う天照大神

スサノオ高天原に残りますが、天照大神の神田の畦を切り田に引く水路も水が通らない様に埋めてしまいました。

さらに、大嘗祭の御殿に糞を撒くなり、スサノオはやりたい放題だったわけです。

天照大神はスサノオの行動に心を痛めながらも、次の様に述べました。

※古事記より

天照大神「あの糞の様なものは弟(スサノオ)が酒に酔っての行動に過ぎません。

田の畦を切る行為は溝を埋めたのも稲種を撒く土地を惜しんでの事です」

天照大神はスサノオの狼藉を強引な解釈を行い咎める事をしませんでした。

天照大神としての弟のスサノオが追放され気の毒に思う気持ちもあり目をつぶったのでしょう。

しかし、スサノオの行動はエスカレートし、遂には機織女が怪我をし亡くなる事態にまで発展しました。

機織女の死は余程、こたえたのか天照大神は天岩戸に引き籠る事になります。

尚、日本神話では機織女が怪我をした事になっていますが、実際には天照大神が怪我をしたとする説もあります。

この説に関しては機織女の方の記事で書きました。

ひきこもり

天岩戸に天照大神が引き籠ってしまうと、高天原や葦原中国と呼ばれた地上は闇の世界へと突入しました。

天照大神は太陽神であり、世界は闇に包まれたわけです。

魑魅魍魎の輩が動き出し、神々は天安河に集まります。

ここで知の神である思金神が策を練り、天照大神が籠る天岩戸に前で祭りをする事になります。

天岩戸の前での祭りの時に、三種の神器のうちの二つである八尺瓊勾玉と八咫鏡が出来上がりました。

芸能の神であるアメノウズメが踊り服を脱ぎ、祭りは大盛り上がりとなります。

天照大神は外の様子が気になり、外を覗いた時に、アメノウズメが鏡で天照大神を写し、身を乗り出した時に力の神であるタヂカラオが天岩戸の岩をどけました。

これにより天照大神のひきこもりは、強制終了されたわけです。

天照大神が再び戻って来ると、スサノオは八百万の神により、髭と爪を切られ高天原から追放されています。

天照大神と太陽神の怖さ

天照大神が天岩戸に籠った事で世界は夜の世界になり、高天原と地上が闇の世界となってしまった事は既に話しました。

天照大神が起こしたとされる災厄に関しては、崇神天皇の時代に起きた話もあります。

崇神天皇は日本全土を、初めて治めた話しもありますが、疫病や反乱が全国で多発した記録も残っています。

崇神天皇の時代は疫病の災厄は凄まじく、国の体制が揺らぎ、日本全土の人口の半分が、亡くなったとも考えられています。

古事記だと、大物主大神が引き起こしたものであるとされ、大物主大神を祀ると治まったとありますが、日本書紀では天照大神と、倭大国魂神の対立が、祟りを引き起こした話も掲載されているわけです。

この時に、宮中で天照大神と倭大国魂神が一緒に祀られていたが、天照大神は別の場所に移されて祀られる事となりました。

天照大神と倭大国魂神が別れて祀られる事になると天変地異は治まり、最終的にアマテラスは、垂仁天皇の時代に伊勢神宮で祀られる事になります。

868年に清和天皇が謎の体調不良に襲われるが、雑に扱われていた天照大神の祟りともされました。

それらを考えると、古代の人は天照大神を、如何に恐れていたかが見えて来るような気がします。

天照大神は太陽の神ではありますが、古代の人は太陽は恩恵があると共に、猛暑や干ばつで地上を苦しめる恐ろしい存在だと認識していたとも考えられています。

中国でも堯帝の時代に10個の太陽が同時に昇り、地上は灼熱地獄となった話があります。

三皇五帝時代に起きた事件は、10個の太陽のうちの9個は弓の達人である、羿により射られて消滅してしまった逸話もあり、黄河文明の地域であっても太陽の恩恵と怖さを分かっていた事にもなるはずです。

インドネシアやタイなどにも太陽が人々を苦しめる話が残っています。

天照大神は人々から恩恵を有難がられる存在であり、別の顔としては人々を苦しめる恐ろしい存在でもあったとみるべきでしょう。

天照大神とスサノオの関係

スサノオは爪と髭を切られるという屈辱を味わったのであり、普通で考えれば天照大神を恨んでもいい様に思います。

しかし、後の展開を考えると、スサノオが天照大神を恨んでいる様な描写は存在しません。

むしろ、テナヅチアシナヅチクシナダヒメの前では「天照大神の弟のスサノオ」と名乗っており、天照大神の名を利用したりもしています。

さらに、スサノオは八岐大蛇を倒しクシナダヒメを救うと、草薙剣を天照大神に献上しました。

スサノオの性格がさっぱりしており、高天原でお世話になった天照大神にお礼の意味を込めて草薙剣を献上している様にも見えます。

それを考えれば、天照大神とスサノオは仲違いしたという事はないのでしょう。

地上を征服

スサノオの子孫である大国主は出雲を大発展させる事に成功しました。

天照大神は地上は高天原の天津神が治めるべきであり、葦原中国にいる国津神が支配する事を苦々しく思っていました。

高天原を統治を任された頃の天照大神は弟のスサノオを庇うなど、心優しき女神の様にも見えますが、出雲の国譲りの頃になると猛々しさも見える様になります。

天照大神が大国主が治める地上を征服するのは「乱暴だ」と思うかも知れません。

しかし、スサノオとの一件を見て天照大神は「優しさだけでは国を治める事は出来ない」と悟ったという部分もあるのでしょう。

天照大神は地上を自分の一族が治める様にしたいと考えますが、自分一人で悩んだりせず高御産巣日神や思金神と相談しながら物事を決めています。

この辺りは天照大神の成長と見る事も出来るはずです。

天照大神はアメノオシホミミ、アメノホヒ、アメノワカヒコを派遣しますが、上手くは行かず最終的にはタケミカヅチを地上に派遣しました。

タケミカヅチはタケミナカタを破り大国主に出雲を譲る事を了承させています。

これにより天照大神の願いでもあった出雲の国譲りは成就したわけです。

その後の天照大神

日本神話では、この後に瓊瓊杵尊による天孫降臨の話になっています。

日本神話の舞台は日向三代へと移行する事になるわけです。

古事記や日本書紀でも高天原の話は殆どなくなり、天照大神の存在感は薄れていきます。

それでも、天孫降臨の時に猿田彦が現れた時には、アメノウズメに助言をしたり、神武東征では倒れた神武天皇を救う為に布都御魂を高倉下に与えています。

高倉下は神武天皇を救い、神武天皇は最終的にナガスネヒコを破り奈良を本拠地とする大和王権が誕生する事になります。

後に垂仁天皇の皇女である倭姫命が天照大神を伊勢神宮に祀った話もありますが、日本神話の時代の様に天照大神が中心として描かれる事はなくなりました。

天武天皇と天照大神

先にも述べましたが、天武天皇がいなかったら天照大神が最高神にはなれなかったのではないか?とする説が存在しています。

天智天皇が崩御した後に大海人皇子(天武天皇)と大友皇子が壬申の乱で争う事になります。

壬申の乱が起こるまでの天照大神は最高神でもなく、伊勢神宮に祀られている神の一つに過ぎなかったとも考えられているわけです。

壬申の乱の時に大海人皇子は吉野を出ると鈴鹿、不破へと移動しました。

この時に伊勢神宮を拝礼した話があります。

後に大海人皇子は大友皇子を破り壬申の乱で勝利し、天武天皇となりました。

天武天皇は壬申の乱に勝利出来たのは天照大神と伊勢神宮のお陰だと考える様になります。

神武天皇は伊勢神宮を皇室専用の神宮とし、こうした事情もあり天照大神が最高神となる道筋が立てられました。

仮に壬申の乱の時に天武天皇が別ルートから進撃し、大友皇子と戦っていたら天照大神は最高神になれなかったのではないか?とも考えられているわけです。

天武天皇の時代は神々の格付けも行われており、古事記などでは天照大神が最高神として描かれ、天照大神の子孫が天皇家に繋がるとしました。

こうした事情もあり天照大神が皇室の皇祖神になったとも考えられています。

天照大神が最高神になれたのは、天武天皇のお陰だともされています。

尚、平安時代の中期ごろに書かれた更級日記には「天照大神が何処に祀られているのか、神なのか仏なのかも分からない」と記述されています。

これらの事から、平安時代には天照大神の存在は無名であり、皇室の皇祖神ではありましたが、一般には広まっていなかった可能性もあります。

天照大神男説

男説の根拠

天照大神は元は男だったとする説が存在します。

天照大神男説の根拠に関しては、下記のものがあります。

  • 平安時代の空海や江戸時代の円空は天照大神の姿を男神の姿で彫刻している。
  • 伊勢の神宮の伝承でも天照大神は男の蛇だとしている。
  • 平安時代の大江匡房が神宮に奉納されている天照大神の装束が男性用だと指摘している。
  • 江戸時代の度会延経も内宮男体考証、国学弁疑などで天照大神は男神だったと考察している。
  • 京都祇園祭、岩戸山の御神体で天照大神、手力男尊、伊弉諾神が男性の姿で描かれている。
  • 神代文字で書かれたといわれる「ホツマツタエ」では天照大神が男神として描かれ12人の妻を娶った話がある。
  • 世界的に見ると太陽神は男性である。

ホツマツタエに関しては怪しい部分もありますが、多くの人々が天照大神は男神だったのではないか?と考えている事が分かります。

実際に天照大神が男性だった説も、それなりに信憑性があるわけです。

持統天皇の存在

天照大神が女神にされてしまったのは、政治的な背景があるともされています。

日本書紀では神代から持統天皇の時代までが書かれており、この時代の権力者は藤原不比等でした。

藤原不比等も日本書紀の編纂に関わっているともされています。

日本には持統天皇や聖徳太子が摂政をした時代の推古天皇など女性天皇が存在しました。

女性天皇の正統性を担保する為に、天照大神が女神にされてしまったとも考えられているわけです。

天照大神が男神だったのにも関わらず、女神になってしまったのは藤原不比等の思惑があったとか、古事記や日本書紀の完成以前に政治的な要請により女神に変わってしまったとも考えられています。

尚、天照大神の前に伊勢では天火明命が祀られており、伊勢の原始的な神は男神の伊勢津彦だったともされています。

天照大神男説は元を考えれば政治的な背景も大きく関わっていると言えるでしょう。

天照大神が太陽神としての謎

天照大神は最高神としてだけではなく、太陽神としても祀られています。

世界的に見ると太陽神は男性が多いと言えます。

ギリシャ神話では太陽神はアポロンで男性であり、女神のアルテミスが女性として描かれています。

アポロンとアルテミスは双子として描かれており、日本の月読命と天照大神の関係も連想させてくれます。

エジプトの太陽神であるラーも男性を連想させる姿で描かれているわけです。

さらに、陰陽の観点で考えれば陽は男性であり、陰は女性となります。

これらを考えると、天照大神も男性だった可能性が高いのではないか?とみる事も出来るはずです。

真実は不明ですが、天照大神が男神だった可能性は十分に残っている様に感じています。

天照大神が祀られている神社

名前住所電話番号
伊勢神宮三重県伊勢市宇治館町10596-24-1111
神明社(横浜)神奈川県横浜市保土ケ谷区神戸町107045-341-6365
東京大神宮東京都千代田区富士見2丁目4−103-3262-3566
天照皇大神宮 鎮守社大阪府吹田市元町26
四柱神社長野県松本市大手3丁目3−200263-32-1936
天岩戸神社宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸1073番地10982-74-8239
天照皇御祖神社秋田県鹿角市八幡平字谷内14
檜原神社奈良県桜井市三輪14220744-42-6633
元伊勢籠神社京都府宮津市大垣4300772-27-0006

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