御家人とは、鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ武士の事を指します。
鎌倉幕府を語る上で「御恩と奉公」という言葉を聞いた事がある人は多いはずです。
御恩と奉公を簡単に言えば、鎌倉幕府の最高権力者である将軍が、御家人に土地を与えた「御恩」があり、御家人はそれに対して「奉公」で報いる形となります。
尚、教科書の中では「御家人」はサラッと流されたりしますが、当時としては画期的なシステムだったわけです。
御家人制は規模が巨大であり、所領という恩賞を介している点で考えれば、画期的な主従関係だったとも言えます。
今回は鎌倉幕府に始まったとされる御家人の仕組みを解説します。
尚、鎌倉幕府の滅亡は、御恩と奉公の崩壊により御家人の心が離れ滅亡に向かったとする説もあります。
ただし、近年の説では鎌倉幕府の滅亡理由は分からないとする説も主流になってきている状態です。
御家人制の始り
御家人の始まりは源平の合戦において、源頼朝に臣従した武士たちだったとされています。
源頼朝は平治の乱で、父親である源義朝と共に戦いますが、平清盛に敗れて伊豆に流罪となっています。
伊豆に流された当時の源頼朝は、謀反人の子であり、名はあっても権力は皆無だったわけです。
この状態から、源平合戦を勝ち抜くには、周囲の武士たちを臣従させるしか道はありませんでした。
1180年から治承・寿永の乱(源平合戦)が始り、源頼朝は挙兵する事になります。
源頼朝は挙兵するだけではなく、侍所と呼ばれる機関を設置しています。
侍所は頼朝に忠誠を誓った武士(御家人)を統率する為の機関であり、政所や問注所よりも侍所の設置が早かった事で、鎌倉幕府の本質は御家人を統制する侍所にあったと考える人もいます。
後に源頼朝は平氏追討の綸旨を得た事で反乱軍から脱しますが、平氏を倒す為の遠征軍に関しても、西国の武士たちを御家人に組み込む事で進められています。
治承・寿永の乱が終結に向かう中で、鎌倉幕府の御家人は全国に拡がっていく事になったわけです。
御家人の所領を与える
源頼朝は御家人に対して、土地の保証や所領を与えなければなりません。
当時の武士たちは、恩賞があってこそ、付き従うのであり、江戸時代の武士道と同じだとは考えない方がよいでしょう。
しかし、伊豆に流された頼朝には御家人に与える土地がなかったわけです。
頼朝は自分に敵対した者を御家人に討伐させ、奪い取った所領を御家人に与える事で、組織が成り立っていました。
御家人たちも懸命に戦い、敵を倒せば、源頼朝から恩賞である土地が頂けます。
頼朝の為に戦い、所領を獲得する方式は、御家人が頼朝の為に戦う動機づけになったと、言ってもよいでしょう。
頼朝と御家人の主従関係が、土地の恩賞により確立されたとも考えられています。
御家人の再編成
源頼朝は源平合戦で勝利し、平氏を打倒する事になります。
さらに、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼし、自身の弟である源義経をも討ち取っています。
ここにおいて、内乱は終結しますが、今までと違い敵がいなくなってしまったわけです。
今までは敵を破れば、恩賞である土地を貰う事が出来ましたが、敵がいなくなってしまった為に、与える恩賞が無くなってしまいます。
源頼朝は御家人の再編成に取り組む事になります。
建久年間(1190年-1199年)に各国で御家人の交名が作成され、御家人の範囲が明確化されます。
鎌倉幕府の首脳部は、交名を作成する為に、膨張し過ぎた御家人を選別し、整理したわけです。
また、敵を倒して土地を得ていた、御家人に対する所領恩給も、朝廷との合意の元で整理されていく事になります。
平家没官領や鎌倉幕府に対して反旗を翻した謀反人の所領に対しては、御家人が地頭として、配置される地頭制も確立されます。
御家人が公的な存在となる
源頼朝が定めた初期の頃の御家人は、ただ単に所領を介した源頼朝との、主従関係でしかありませんでした。
鎌倉幕府が強い力を持ち始めると、源頼朝は朝廷との関係において、御家人は全国の治安維持や、国家的な軍務を司る政治的な権力も帯びて来る様になります。
それに応じて、御家人たちも国家的な軍務集団へと形を変えて行きます。
1231年に朝廷から発せられた新制では、鎌倉幕府の征夷大将軍(摂家将軍)の藤原頼経と御家人(郎従)たちが、海賊や盗賊の討伐に当たると明記されています。
この文章から分かる事は、御家人たちは、将軍と武士の恩賞関係だけではなく、公的な任務も帯びる様になった事を指しています。
御家人格差
御家人の中でも格差があった事が分かっています
有力御家人と弱小御家人
御家人は本来であれば、将軍と家来であり、御家人同士は平等であったはずです。
しかし、御家人格差が出来る事になります。
御家人の中には、複数の国の守護を任され、数多くの従者を従える有力武士もいれば、僅かな領地しか持たず、従者さえいない様な貧しい武士も多数いました。
鎌倉幕府の首脳部は、御家人格差を減らそうとしますが、結局は中小の御家人が有力御家人の元に身を寄せる様になっていきます。
この流れは、制度的に自然な流れであり、鎌倉幕府の首脳部も止める事は出来なかったのでしょう。
北条得宗家の被官身内人の中にも、中小御家人が少なくなった事も分かっています。
東西の御家人格差
御家人においては、地域格差があった事が分かります。
現在の日本でも、地域格差は指摘されますが、鎌倉時代でも当然の如く地域格差があったわけです。
執権の北条氏を始め、東国の御家人は幕府の要職に就く事が多く潤っていました。
それに対し、西国の御家人は幕府の要職に就くのは、限られた時だけであり、圧倒的に不利な状態だったと言えます。
鎌倉幕府自体が東国にあり、西国の武士たちは、平氏追討の為に御家人認定されただけであり、鎌倉幕府の将軍や執権らと会う機会も少なかったわけです。
また、鎌倉幕府の守護地頭制度においては、西国の御家人が任命される例は極端に少なく、西国武士の所領や任免権は荘園領主が握っていました。
鎌倉幕府が西国の御家人に対しては、積極的に保護しなかった事もあり、御家人の東西格差は酷く、西国御家人は社会的・政治的に不利な立場に置かれる事になります。
文士の存在
御家人の中には、「文士(ぶんし)」と呼ばれる人々がいた事が分かっています。
文士は三善康信や大江広元など、鎌倉幕府の草創期に尽力し、京都から鎌倉に下向した官人の子孫たちも御家人化していきます。
文士の人々は、正規の御家人に対して、引け目を感じていたともされていますが、評定衆や引付衆になった話もあります。
文士が政所や問注所の奉行衆となり、鎌倉幕府を支え続けた話しもあるわけです。