後光厳天皇は本来であれば、践祚する事はなく人生を終えるはずでした。
しかし、南朝が正平一統を破棄し、京都を占拠してしまった事で運命が変わります。
足利義詮が皇族を守らずに逃亡した事で、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王は賀名生に連れ去られました。
室町幕府は京都を奪還すると北朝の再建をせねばならず、ここで後光厳天皇の践祚を決めます。
佐々木道誉などの計らいにより、広義門院が治天となり後光厳天皇が誕生しました。
しかし、践祚までの経緯に問題を抱えており、求心力は極めて脆弱でした。
それでも、幕府の助けもあり、後光厳天皇の子孫が皇位を継承していく事になります。
尚、後光厳天皇の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
正平一統の破棄
室町幕府内で観応の擾乱が勃発しました。
足利尊氏と直義は対立し、足利尊氏は南朝に降伏した上で足利直義を破っています。
室町幕府が南朝に降伏した事で正平一統がなり、崇光天皇は廃位されました。
この時までは弥仁王(後光厳天皇)は自分が天皇になるとさえ思っていなかったのではないでしょうか。
しかし、正平一統は破棄され後村上天皇は石清水八幡宮を拠点とし、京都に兵を入れ光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王らを捕虜にし、賀名生に拉致してしまいました。
足利義詮は京都を奪還しますが、天皇も上皇もおらず弥仁王だけが皇族として残されていたわけです。
日本の権力構造を考えても「幕府対天皇」では室町幕府は逆賊となり、全国に散らばる足利の所領が様々な人たちに狙われるのは明らかでした。
室町幕府としては「天皇対天皇」の構造を創り出す必要があり、ここで白羽の矢が立ったのが弥仁王だったわけです。
弥仁王の践祚
既に三種の神器は南朝に引き渡され、治天の君である光厳天皇は南朝に拉致された状態での、即位を目指したわけです。
三種の神器がない状態での即位は源平合戦の最後で、安徳天皇が亡くなった後の後鳥羽天皇がいました。
後鳥羽天皇は治天の君である後白河院の詔により、践祚しています。
治天の君の代わりとして広義門院(光厳、光明の母親)が選ばれ佐々木道誉や勧修寺経顕などが粘り強い交渉を行い、引き受けて貰いました。
三種の神器の代わりは南朝が八幡に残して行った「神鏡の唐櫃」で代替し、古代の継体天皇の「群臣義立」を元に弥仁王の践祚が決まったわけです。
1352年に弥仁王は異例ずくめの践祚で後光厳天皇として即位しました。
後光厳天皇は文和に改元しています。
この年に後光厳天皇の実母である陽禄門院が亡くなりますが、後光厳天皇は幕府の要請もあり喪に服す事はありませんでした。
諒闇を実施しなかった事になります。
脆弱な権威
後光厳天皇が践祚した翌年には、南朝の攻撃を受けて足利義詮と共に京都を脱出し近江、美濃の垂井・小島へと逃亡しました。
関東にいた足利尊氏と合流し、後光厳天皇は京都に戻りますが、数年が経過すると今度は足利直冬が攻めて来て、京都を明渡しています。
時には幕臣の細川清氏が後光厳天皇を背負い山を越えています。
1361年には過去に自分を背負って山を越えた細川清氏が南朝に鞍替えし、京都を攻撃し再び後光厳天皇は京都を出ました。
室町幕府は京都を奪われるたびに短期間で取り返していますが、後光厳天皇は10年の間に3度も京都を奪われた事になります。
過去に坊門清忠は面子を重視し、楠木正成の京都に敵を呼び込む戦術を批判し、後醍醐天皇に意見した事がありました。
天皇にとって京都が奪われるのは、その度に面子が潰れる行為だとみる事も出来ます。
後光厳天皇は正当な手続きを踏んで即位しておらず、京都を何度も奪われるのは、さらなる権威の低下に拍車がかかったはずです。
公家の混乱
正平一統は公家社会にも影響を及ぼしました。
正平一統が成った時に、南朝の近衛経忠、西園寺公重、洞院実守などに所領が安堵されています。
これに対し旧北朝の廷臣たちには、南朝への帰参を脅迫されたわけです。
さらに、京都争奪戦の度に後光厳天皇は「偽朝」「偽主」と呼ばれました。
後光厳天皇は何度も京都から逃亡していますが、その度に供奉しなかった公家の官位を剥奪したり、財産を没収されたりもしています。
後光厳天皇は幕府により無理やり即位させられ正統性に多いに疑問があったわけですが、公家たちも多いに惑わされたわけです。
しかし、後光厳天皇は京都を奪われた時に、美濃にまで逃亡しますが従った公家に対しては所領安堵を行っています。
逆に随行しなかった者に対しては、所領の没収を行いました。
何度も京都を追われている内に、信賞必罰も上手く機能する様になってきたわけです。
武家執奏
公家の所領に関する武家執奏は、後光厳天皇よりも前からありました。
ただし、公家の所領に関しては幕府と関係している公家のみに限られていたわけです。
しかし、後光厳天皇の時代から武家執奏は、公家全体に及ぶ様になります。
後光厳天皇が京都を出た時に、出仕しなかった徳大寺公清らは、所領を一旦没収した後に、安堵される綸旨が発行されました。
この時に「武命」なる言葉があり、幕府の指示があった事が分かります。
そうなると公家の所領を決めるのも幕府と思われがちですが、幕府が裏にいる事で後光厳天皇の綸旨に重みを出していたわけです。
逆に南朝から綸旨が出されても、幕府の後ろ盾がない事で効力には疑問があった事になります。
北朝の公家
当時の北朝の代表的な公家は二条良基、久我通相、万里小路仲房らでした。
これらの公家は求心力が弱い後光厳天皇を支える貴重な人材だったわけです。
後光厳天皇の悩みの一つは公家たちの行事への参加率の低さですが、足利義詮や公家らの働きにより徐々に改善していった事も分かっています。
後光厳天皇の文化事業
後光厳天皇は武家執奏を受けて勅撰和歌集の撰集をしました。
後光厳期には新千載集と新拾遺集があります。
武家執奏らしく、この時には武士で入選した者が100名を超えた話があります。
持明院統では琵琶の習得が当たり前となっていました。
持明院統の嫡流である光厳院や崇光院は琵琶の秘曲までマスターしています、
こうした中で、後光厳天皇は琵琶を好まず笙を選びました。
足利尊氏らが笙を好んだ事もあり、笙を覚えたとする話もあります。
笙では応安元年(1368年)に最秘曲の「陵王荒序」を伝授しました。
天皇が笙を覚えるのは後継者の後円融、後小松、称光、後花園、後土御門と継承されて行く事になります。
後円融天皇の即位
足利義詮が1367年の暮れに亡くなりました。
10歳の足利義満が後継者となり、管領の細川頼之が支える体制となります。
1370年に後光厳天皇は我が子である緒仁親王に譲位したい意向を幕府に告げました。
こうした動きに反対したのが、兄の崇光上皇であり、自らの子である栄仁親王の践祚が相応しいとしたわけです。
後光厳天皇は室町幕府の都合で強引に践祚し天皇になった経緯から、嫡流とも言える栄仁は脅威でした。
ただし、崇光上皇は南朝に拉致され帰京する時に子孫の皇位の望みを絶つ告文を提出しており、痛い部分もありました。
室町幕府としても反頼之派も多くおり、政治的な決断一つで政権が崩壊する様な状態だったわけです。
こうした中で細川頼之は「聖断あるべし」としました。
「聖断あるべし」に関しては幕府がどちらかに肩入れないいとする現れでもありますが、見方を変えれば後光厳天皇に判断を委ねたとも言えます。
応安四年(1371年)に後光厳天皇は皇位を我が子である緒仁親王に譲りました。
緒仁親王が後円融天皇となります。
後光厳天皇の崩御
後円融天皇が即位した事で、後光厳上皇は院政を布く事になります。
しかし、応安七年(1374年)に後光厳上皇は崩御しました。
尚、後光厳天皇の「後光厳」は父親である光厳天皇の正統な後継者だと位置づける為に、定められたとする説があります。
勿論、正統な後継者であれば、その様な事はする必要がなく、後光厳院は最後まで正統性に悩まされた可能性があるはずです。
1381年になると後円融天皇が譲位し、子の後小松天皇が誕生しました。
この時代になっても崇光院は健在であり、崇光流は脅威となっていたわけです。
後円融上皇は後光厳流で皇位継承されるのか心配しますが、足利義満が後光厳流の支持を明確に打ち出しました。
足利義満は崇光院と相撲をとるなど、崇光流の権威を落す様な事を狙ってやっています。
称光天皇が崩御すると、崇光流の彦仁親王が後花園天皇として即位しました。
これを見ると皇統が崇光流に移ったかの様に見えるかも知れませんが、後花園天皇は後小松天皇の猶子として皇位継承しています。
ただし、持明院統の嫡流である崇光流の流れを汲んでいる為、北朝内部の皇位継承問題は解消されたと言えるでしょう。
後花園天皇の践祚により、幕府は後南朝問題に強硬に対処する事が可能となりました。
後光厳天皇と足利尊氏の契約
後光厳院は皇室の財産などは殆ど持っていませんでした。
崇光上皇が皇室の記録や所領などを多く持っていたわけです。
足利義満は後光厳流を継承させる為に、崇光法皇が崩御した時に、栄仁親王から財産を奪い後小松天皇に引き継がせました。
足利義満としては、後光厳流で皇位継承させる為に、財産を没収してしまったわけです。
足利義満は剛腕を発揮したのは、後光厳天皇が践祚した時に、足利尊氏と契約があり、皇統は後光厳天皇の子孫が受け継ぎ、将軍職は足利尊氏の子孫が継承する契約があった為だとされています。
足利尊氏と後光厳天皇の間に、その様な契約が本当にあったのかは不明ですが、皇位継承は後光厳流が継承し、将軍職は尊氏の子孫が継承していったわけです。