呉林は正史三国志に名前があり魏の部従事だった事が分かっています。
魏では遼東公孫氏を滅ぼしてから朝鮮半島の支配に乗り出し、呉林は辰韓を八分割する案を出しました。
しかし、呉林の案に反対もあり意見がまとまらず、そうこうしている内に、韓で反乱が勃発する事になります。
魏では弓遵と劉茂らに鎮圧をさせていますが、損害も大きかった話があります。
見方によれば韓族の反乱は呉林の辰韓分割案に反発したともみる事が出来るはずです。
朝鮮半島の韓族と魏の間で言葉の壁もあり、呉林の意図が誤って伝わり、韓族の反乱が起きた可能性もあるでしょう。
今回は正史三国志にも名前が登場する呉林の解説をします。
呉林の辰韓分割案
呉林は正史三国志の東夷伝に記述されているだけの人物であり、出身地などは不明です。
238年に曹叡の命令により司馬懿が遼東公孫氏を滅ぼしました。
これにより遼東半島は三国志の魏の勢力下となりますが、この時に呉林は部従事となったのでしょう。
魏では朝鮮半島支配を目論見ますが、朝鮮半島は魏の本拠地から遠い事もあり難航し、呉の孫権もちょっかいを出してくる事から難航したとみる事が出来ます。
こうした中で呉林は楽浪郡が元は韓国を統治していたとし、辰韓を八国に分割し楽浪郡に組み込もうと考えました。
呉林としては朝鮮半島の東にある辰韓を8分割し弱めようと考えたのでしょう。
匈奴が南北に分裂し、南匈奴が長城の中におり、五部匈奴としたのに習い呉林は辰韓を八分割しようとしたのかも知れません。
韓族の反乱
呉林の辰韓を八分割する案ですが、様々な意見をいう者がおり中々纏まらなかった話があります。
辰韓を八分割するとなれば、辰韓の人々の反感を招くなども危惧されたのでしょう。
呉林の策に対し役人や通訳の者が様々な意見を述べ、意見がまとまらずにいた所で韓族の臣智が人々の怒りを煽り帯方郡の崎離営を攻撃しました。
これが崎離営戦闘と呼ばれるものです。
魏の役人と韓族は通訳を交えての話であり、通訳が上手く呉林の意見を伝える事が出来なかったとも考えられます。
呉林の辰韓分割案から始まった崎離営戦闘ですが、かなりの激闘だった様で帯方郡の太守である弓遵するなどもありましたが、劉茂などの奮闘もあったのか臣智の乱は鎮圧されました。
呉林がこの後にどうなったのかの記録はなく、歴史から姿を消す事になります。
勿論、呉林がどの様な最後を迎えたのかも不明となります。
呉林は三国志演義にも登場しません。