その他 三国志

遼東公孫氏は四代に渡り半独立勢力を築く

2023年11月6日

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宮下悠史

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名前遼東公孫氏
成立から滅亡189年ー238年
当主初代 公孫度
二代 公孫康
三代 公孫恭
四代 公孫淵
コメント四代に渡り遼東で半独立勢力を築く
人物画像亶夏王朝

遼東公孫氏は後漢末期に公孫度が遼東太守になった事に始まります。

遼東は中央から遠く離れており、中原の地では様々な群雄が争った事で、恭順の姿勢さえ見せていれば討伐されなかった地でもあります。

遼東公孫氏では公孫度が亡くなると、公孫康が後継者となり朝鮮方面に勢力を拡大させました。

公孫康が亡くなると弟の公孫恭が後継者となりますが、公孫恭は身体に問題があり子供を作れない体質だったわけです。

公孫恭は身体の事で周りにも問題視されたのか、公孫康の子の一人である公孫淵に位を奪われています。

公孫淵は呉の孫権に近づきながらも、魏に対しては恭順の姿勢を示したりしており、結局は呉と魏の両方から信用されなくなりました。

魏では諸葛亮が没し蜀の脅威が無くなると、司馬懿に遼東征伐を任せています。

司馬懿の遼東征伐に公孫淵が敗れた事で、遼東公孫氏は滅亡しました。

遼東公孫氏の関しては、正史三国志の公孫度伝に詳しいです。

遼東公孫氏の家系図は上記の様になっています。

因みに、遼東公孫氏に対し、遼西には公孫瓚がいたりもしましたが、遼東公孫氏と公孫瓚は同姓というだけで特に関係はありません。

公孫度が遼東公孫氏の始まり

遼東公孫氏の始祖である公孫度は幽州遼東郡襄平県の出身です。

しかし、公孫度の父親である公孫延が何かしらの問題を起こしたのか、公孫度は玄菟郡で生活する事になりました。

玄菟郡の有力者である公孫域が公孫度を可愛がり援助した事で、公孫度は飛躍への道を掴む事になります。

公孫度は有動に推挙され冀州刺史になったり、尚書令になるなど出世していきました。

しかし、公孫度を妬む者がいたのか罷免されてしまいます。

この頃には董卓が実権を握っていましたが、玄菟郡出身の徐栄が公孫度を遼東太守に推挙しました。

徐栄の推挙により公孫度は中央から遠く離れた遼東で地盤を築く事になります。

公孫度は公孫昭に侮られるなどしており、遼東太守になったと言っても公孫度に従わない者が多かった話があります。

ここで公孫度は恐怖政治を布き、百余家を滅ぼすなど苛烈な行いをしました。

公孫度は内に対して威を見せるだけではなく、外においても高句麗や烏桓などの遊牧民を征伐しています。

公孫度は洛陽や長安の混乱を見て独立を画策する様になり、自ら遼東侯の爵位や平州牧という官位を創設し就きました。

さらに、東莱郡の一部を占拠し営州を設置しています。

公孫度は劉邦や劉秀の廟を建立するなどもしており、独立への野心があった事は間違いないでしょう。

実際に公孫度は遼東公孫氏の初代となり、半独立勢力となっていくわけです。

曹操が上表し公孫度を武威将軍、永寧郷侯とした時も印綬を武器庫にしまいこんでしまいました。

ただし、印綬は受け取っており、遼東公孫氏は中央に頭を下げながらも独立勢力となるのを踏襲しています。

公孫度は遼東公孫氏の礎を築いたと言えるでしょう。

東に勢力を拡げた公孫康

204年に公孫度が世を去ると、子の公孫康が遼東太守となりました。

公孫康が遼東公孫氏の二代目となります。

公孫康の時代に汝南袁氏の生き残りで袁紹の子の袁煕と袁尚が助けを求めて来ました。

袁煕と袁尚は白狼山の戦いで烏桓と共に曹操に敗れ、遼東公孫氏に助けを求めたわけです。

しかし、公孫康は袁煕と袁尚の兄弟を斬り首を曹操に送りました。

中原の地の大半を勢力下においた曹操に対し、遼東公孫氏では太刀打ちできないと判断し、曹操に袁煕、袁尚の首を送ったのでしょう。

曹操は公孫康を襄平侯及び左将軍としました。

尚、この時に公孫康が袁氏の兄弟を匿ったりしたならば、曹操に睨まれて遼東公孫氏は滅んでいたのではないか?とも考えられています。

公孫康の時代は中華の北方の大部分を曹操が握った事で、遼東公孫氏は西に勢力を拡げる事が出来なくなりました。

公孫康は朝鮮半島に帯方郡を作る等の事を行い勢力を東方に拡大しようとしています。

公孫康は韓や濊を討伐し韓の地に流れ込んだ流浪の民を中華の地に戻らせたとあります。

倭と韓が帯方郡の支配を受ける様になったとする記述が正史三国志の東夷伝にあり、遼東公孫氏は朝鮮半島や倭国にまで影響力を及ぼしました。

三韓は馬韓辰韓弁韓からなりたっていますが、三韓を統治する辰王月支国におり、辰王を韓族を統治する為に派遣したのは、公孫康だったのではないか?とする説も存在します。

公孫康の時代に遼東公孫氏は朝鮮にまで影響力を発揮したのは間違いなさそうです。

公孫康がいつ亡くなったのは記録がなく不明ですが、曹丕が大司馬の位を与えている事から、曹操時代の末期か曹丕の時代になってから直ぐに、公孫康は世を去ったのでしょう。

公孫恭が当主になったのは正解だった!?

遼東公孫氏の三代目となったのが公孫恭となります。

公孫恭は公孫康の弟であり、本来であれば遼東公孫氏の頭領になる様な立場ではありませんでした。

しかし、公孫康の子である公孫晃と公孫淵が幼かった事で、代理の当主として公孫恭が立てられたのでしょう。

公孫康と公孫恭の母親が同じであったのかは不明です。

一般的には公孫恭は身体に問題があり、子供が作れない体質になってしまった事で、遼東公孫氏の主としての資質に疑問を持たれていたとされています。

後に公孫恭は甥の公孫淵に遼東公孫氏の当主の座を奪われたわけですが、遼東公孫氏を存続させる上では幼君となる公孫晃や公孫淵が継ぐよりも、公孫恭が就いた方がよかったと感じています。

公孫恭は身体に問題があり、子を作る事が出来ない体ですが、逆にいえば子供が誕生して後継者争いが起こる事を未然には避けれたと言えるでしょう。

仮に公孫恭に子が出来て公孫晃や公孫淵と遼東太守の座を争うとなると、遼東公孫氏は分裂を招き汝南袁氏袁紹袁術の二の舞になっていた可能性もあるはずです。

それらを考慮すると、幼い公孫康の子が遼東公孫氏の当主になるよりも、子が出来ない公孫恭が当主になった方が国は安泰だと言えます。

ただし、公孫恭は公孫淵に遼東公孫氏の当主の座を奪われ、子が出来ない体質だった事が原因で、遼東公孫氏は滅びる事になります。

尚、公孫恭が公孫晃を官位に就かせるために洛陽に行かせていますが、実際には人質だった様です。

公孫恭の時代になっても、中央には頭を下げ東方に勢力を拡大する方針で遼東公孫氏は動いていたのでしょう。

公孫淵が遼東公孫氏を滅ぼす

公孫淵は228年に遼東公孫氏の四代目当主となりますが、当時は蜀の諸葛亮が北伐を志していた時代です。

魏の曹叡は曹真を大将軍に任じ、諸葛亮の侵攻を防がせていました。

曹叡は諸葛亮の対応を第一とし公孫淵が怪しい動きをしても対処するのが難しい状態だったわけです。

こうした中で公孫淵は呉の孫権と通じ、魏に不信感を抱かれる様な動きをしました。

しかし、魏からの圧力があったのか、公孫淵は孫権の使者である張弥、許晏、賀達らを斬り捨てています。

曹叡は公孫淵の態度に不信感を抱きながらも、大司馬、楽浪公とし厚遇しました。

234年に諸葛亮が五丈原の戦いで陣没すると、状況が一変し曹叡は公孫淵討伐に乗り出す事になります。

公孫淵は幽州刺史の毌丘倹の攻撃は撃退しますが、公孫淵は魏の攻撃を受けた事で中央には釈明しながらも、燕王を名乗り元号を紹漢としました。

当然ながら、公孫淵は魏に許される訳もなく、曹叡は司馬懿に軍を預け討伐に向かわせています。

公孫淵は呉に援軍要請を行うと、孫権は羊衜を派遣しています。

しかし、公孫淵と司馬懿の間で遼隧の戦いの戦いが勃発し、最終的に公孫淵は襄平に籠りますが降伏を打診しても許されませんでした。

公孫淵は子の公孫脩と共に包囲を突破しようとしますが、斬られて首は洛陽に送られています。

公孫淵の兄の公孫晃は公孫淵を度々非難し討伐要請を魏の朝廷にしていました。

魏の方でも高柔などは公孫晃に同情的であり、許す様に進言していますが、公孫晃も処刑されています。

司馬懿により遼東公孫氏の三代目当主である公孫恭が助け出されますが、先にも述べた様に公孫恭は子供が出来ない体質であり、結局は遼東公孫氏は四代で滅亡する事になります。

尚、遼東公孫氏がが滅亡した事で、倭国の女王卑弥呼は魏に朝貢する事が可能となりました。

遼東公孫氏滅亡の予兆

正史三国志の公孫度伝の最後に遼東公孫氏の滅亡を予言する逸話が掲載されています。

公孫淵の家で何度も奇怪な出来事があったと言います。

犬が頭巾を被り赤い着物を着て屋根の上に登っていた。

ご飯を炊くと子供が蒸されて死んでいた。

襄平の北で生肉を売っていたが、長さ太さがそれぞれ数尺もあり、頭と目と口がついて手足がないのに揺れ動いた。

猫ならともかくとして、犬が頭巾を被り屋根の上に登るなどは、常識的にはあり得ない事であり、遼東の民衆を騒がせた様にも感じています。

当時は夢占いに長けていた者もいたはずであり、次の様に分析しました。

※正史三国志 公孫度伝より

形はあるのに完全に仕上がってはおらず、肉体はあっても声が無い。

(怪物が現れたようなものであり)その国は滅亡するに違いない。

奇怪な出来事は遼東公孫氏の滅亡を予言していたというわけです。

この後に、正史三国志の公孫度伝では次の言葉が述べられています。

公孫度が中平6年(189年)に遼東を占拠し、公孫淵の代になるまでに三代経過していた。

あわせて50年で(遼東公孫氏)は滅亡した。

正史三国志には遼東公孫氏は50年で滅亡したと記録されていますが、実際には40年ほどで滅んでいます。

上記の一文を以って、公孫度伝は閉じられており、陳寿は評の部分で遼東公孫氏の公孫度は残虐で、公孫淵は凶悪だと述べました。

公孫度の苛烈なやり方や公孫淵の節操のなさを陳寿は問題視していた事が分かるはずです。

遼東公孫氏をフォローするのであれば、中央から遠く仁義道徳では民衆や異民族を従わせる事が出来なかった部分も多々あったのでしょう。

こうして三国志の第四の勢力である遼東公孫氏は滅びました。

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