古代中国

仰韶文化は黄河中流域で栄え遺跡も発掘されている

2023年11月24日

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宮下悠史

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名前仰韶文化
読み方ぎょうしょうぶんか
やんしゃおぶんか
分類黄河文明
時代紀元前5千年~紀元前2千7百年位まで
コメント彩陶が有名

仰韶文化は河南省澠池県にある仰韶村で遺跡が発掘された事で話題になりました。

中国では黄河文明、長江文明、遼河文明、古蜀文明がありますが、仰韶文化は黄河文明に属します。

仰韶文化の名前の由来は発掘された地名(仰韶)から来ています。

仰韶文化の近隣を発掘してみる事になったわけです。

渭水から黄河中流域に掛けて似たような土器が多く見つかった事で話題になりました。

この土器が彩陶と呼ばれる様になり、過去には彩陶文化とも呼ばれていました。

しかし、他の地方でも彩陶が見つかっており、現在では彩陶文化とは呼ばれなくなり仰韶文化で統一されている状態です。

意外に思うかも知れませんが、仰韶文化を発見したのは、中国人ではなくスウェーデン人のユハン・アンダーソンとなります。

尚、仰韶文化は黄河中流域にありましたが、それよりも前に磁山文化や裴李崗がありました。

仰韶文化は過去には中国最古の新石器文化とも呼ばれていましたが、現在では仰韶文化の前に磁山文化や裴李崗があった事が分かっています。

長江文明の方でも下流の河姆渡文化や中流の彭頭山文化が発見されており、仰韶文化よりも古い事が分かりました。

因みに、仰韶文化圏でも塹壕が見つかっており、敵に備えていた事が分かります。

彩陶

仰韶文化の発掘で話題になったのが彩陶と呼ばれる土器となります。

彩陶には丸や線などの模様があったわけです。

仰韶文化では無地の土器も多く見つかっていますが、彩陶は目を引く存在でした。

彩陶とメソポタミア文明の彩文土器が非常によく似ており、メソポタミア地方から伝わって来たのではないか?とも考えられています。

見つかった彩陶の中から炭になったものが見つかり、仰韶文化圏では粟、稗、黍を食べていた事が分かりました。

長江文明の方では米などを食べていたのに対し、黄河文明では粟、稗、黍などを食べていた事になります。

粟や稗などは緻密な農耕をしなくても、種を撒けば生えて来るものであり、仰韶文化での初期農業は非常に簡略なものだった事が分かります。

尚、粟、黍などの栽培のプロセスは未だによく分かっていません。

黍の野生種があったのかも不明です。

商業の中心地

仰韶文化があった河南省は商業の中心地としても発展していく事になります。

東の海辺にいた人々は、黄河の上流に向かって歩いて行けば仰韶文化圏にあたるわけです。

さらに、北方の牧畜をやっている様な遊牧民も黄河沿いを進めば仰韶文化圏にあたる事になります。

南方の長江流域の河姆渡文化では米を作っていた事が分かっていますが、河姆渡遺跡の人々も仰韶文化圏に訪れたと考えられています。

尚、華北の畑作と江南の稲作は今でも継続されている状態です。

西にいた人々も渭水を進めば仰韶文化圏に来る事が出来ました。

仰韶文化は彩陶も有名ですが、商業地としても発展していく事になります。

仰韶文化の特徴として、中国の中心にあり様々な物品が集まり商業に適した場所であったとも言えるでしょう。

尚、中国の最古の王朝は夏王朝だとも言われていますが、考古学的に確認が出来た王朝は殷王朝が最古となります。

殷王朝の「殷」の名は周王朝が呼んだ名前であり、殷王朝は自分達を「商」としていました。

殷王朝の「商」は商人から来ており、竜山文化の後継とも考えられていますが、商売で言えば仰韶文化と繋がるものがあると言えるでしょう。

因みに、小アジアで栄えたリディア王国も商売で富を蓄えており、世界最古の金貨を造った事でも話題になっています。

仰韶文化も含めて立地条件が良ければ商売で国は栄える事になります。

家畜の存在

仰韶文化では豚、鶏、犬などの家畜がいた事が分かっています。

仰韶文化以前の段階でも同じ土層から豚の骨が発見されています。

ただし、発見された豚の骨は野生の猪だったのではないか?と考える者もいます。

尚、日本では「猪」はイノシシとなりますが、中国では猪は豚を連想し干支も日本では猪ですが中国では豚です。

それでも家畜がいたとするならば農耕を行っていた事は確実であり、仰韶文化で農耕が行われた事は間違いないでしょう。

彩陶から出てきた穀物からも分かるはずです。

仰韶文化は文明と呼べるのか

仰韶文化での人々は定住はしていましたが、青銅も鉄も文字もありません。

よって仰韶文化は都市国家以前の文明だと言えるでしょう。

都市国家が誕生するには青銅の時代に入らなくてはなりません。

メソポタミア文明ではシュメール人が都市国家を建設しており、エジプト文明でもノモスと呼ばれる都市が建設され、インダス文明でも都市があった事が分かっています。

しかし、黄河文明に属する仰韶文化では、都市国家すら出来てはいなかったという事です。

中国での青銅器文化は二里頭文化を待たねばなりません。

それを考えると黄河文明は四大文明に入れてもよいのか?とする問題点も出てきます。

尚、黄河文明では仰韶文化よりも後には黄河下流域の竜山文化が栄える事になります。

仰韶文化と竜山文化では発掘される土器が全く違っており区別される事になるわけです。

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