
泛舟の役は春秋左氏伝や史記に掲載されている話です。
この時に秦の穆公は、百里渓や公孫枝の言葉に従い晋に食料の援助をしました。
秦の雍から晋の絳まで船が列となり食料が運ばれ、泛舟の役と呼ばれる事になります。
泛舟の役の意味は「船運びの仕事」という意味です。
船が列になった事を考えれば、秦の穆公は大量の食糧を援助した事になるのでしょう。
泛舟の役で晋を助けた秦の穆公ですが、晋の恵公に裏切られ韓原の戦いが発生しますが、勝利しています。
尚、泛舟の役は無かったとする説もあり、合わせて解説します。
因みに、泛舟の役は漫画キングダムでも紹介されました。
晋の飢饉
春秋左氏伝や史記によると、紀元前647年に晋では不作でした。
晋の君主である恵公は秦への食糧援助を要請する事になります。
尚、晋の恵公は秦の穆公の後押しで、晋の君主になったにも関わらず、約束の土地を渡さず不義を行いました。
普通で考えれば、後ろめたさはあったかも知れませんが、背に腹は代えられず、秦の穆公に穀物の援助を願い出ました。
これが泛舟の役の逸話の始まりとなります。
泛舟の役を行う
秦の朝廷では晋に食料を援助するのかで、意見が割れる事になります。
晋の恵公に父親を殺され、秦に亡命していた丕豹は「晋を攻撃するべき」としタカ派の意見を出します。
公孫枝は晋の恵公の恩知らずの性格を考えて「援助をして晋の恵公が返礼もせず、不義を行い人々の信頼を失った上で討つべき」としました。
公孫枝は含みを持たせながらも、晋に援助するべきだとしたわけです。
秦の穆公は百里渓に意見を求めると「災害に遭った国を助けるのは正道」とし、晋に食糧援助する様に進言しました。
秦の穆公は「国君に罪はあっても民に罪はない」と百里渓や公孫枝の意見に従い、晋への穀物の援助を実行する事になります。
この時に、春秋左氏伝や史記には描写があり、秦の首都の雍から晋の首都の絳まで船列が続き、泛舟の役と呼ばれる事になります。
泛舟の役を行った結果どうなったのか
秦は食糧を援助し、泛舟の役を行い、その名前から多くの食料を援助した事が分かります。
しかし、今度は秦が不作となり、晋に食糧援助を求めてきますが、晋の恵公は援助しませんでした。
泛舟の役は秦からのみ行ったのであり、返礼の晋からの泛舟の役は無かったわけです。
それどころか、晋の恵公は秦の不作に乗じて、攻め込んで来ました。
韓原の戦いで、秦の穆公は苦戦し捕虜になる寸前にまで行きますが、馬酒兵の助けもあり逆襲し、逆に晋の恵公を捕虜としています。
史実を見ると仁君である秦の穆公が不埒な晋の恵公を破った事になるのでしょう。
泛舟の役は本当にあったのか?
泛舟の役が実際には無かったとする説があります。
史記と春秋左氏伝の両方に泛舟の役は書かれていますが「話が出来過ぎている」と感じた人も多いのではないでしょうか。
史記や春秋左氏伝を見ると、秦の穆公は春秋五覇の一人にも数えられ、失敗もしていますが、反省する仁君として描かれています。
これに対して、晋の恵公は不徳な君主として描かれており、秦の穆公の「徳」をアピールする為に、泛舟の役の逸話を創作したのではないかとする説があるわけです。
真実は不明ですが、泛舟の役が無かった可能性は否定できないでしょう。