名前 | 畑時能(はたけときよし) |
生没年 | 1299年ー1341年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
部下 | 快舜、悪太郎、犬獅子(犬) |
コメント | 越前で大暴れした名将 |
畑時能は若い頃から高い身体能力と智謀を評価されていた武将です。
南北朝時代に新田義貞に従い各地を転戦しました。
犬獅子と呼ばれる軍犬がおり、城に忍ばせるなどし情報を集めていた話があります。
畑時能は越前の戦いでは僅か23名で籠城し、攻勢に出て12の城を落としました。
太平記に描かれていますが、何処までが本当なのか分からない武将でもあります。
畑時能の最後を持ち、全国的に北朝が有利になったともされています。
松井優征先生の逃げ上手の若君にも登場しており、知名度が上がっている状態です。
畑時能の出自
畑時能の出自は太平記に記録があり、武蔵国の出身だと言います、
16歳ころから相撲を取る様になり、滅法強かった話があります。
畑時能は相撲だけではなく馬術や弓術、水泳、謀略を張り巡らせるのも得意だったとされています。
坂東八カ国では畑時能に敵う者がいなかったとあり、身体能力は抜きんでた者があったのでしょう。
一部の人は畑時能の将来を嘱望してもおかしくはないと感じました。
後に畑時能は信濃に移り狩猟生活をして生業と立てていたと言います。
さらに、畑時能には甥の快舜という悪童と怪力の悪太郎の二人が従者となり、犬獅子と呼ばれる魔犬までいました。
犬獅子は軍犬であり、闇夜に敵陣に忍び込み敵の情報を畑時能に伝えました。
こうした事もあり、多くの者が畑時能に恐怖を感じていたとされています。
太平記の描写が何処まで本当なのかは不明ですが、並大抵の豪傑ではなかったのでしょう。
どういう経緯なのかは不明ですが、畑時能は新田義貞に従って各地を転戦する様になります。
園城寺の戦い
建武の乱において近江国園城寺で戦いとなりますが、この時には既に新田義貞に従って戦っていた事も分かっています。
新田義貞の配下として、畑時能は戦いますが、この戦いで得意の怪力を発揮し木戸を蹴破る活躍を見せました。
これが園城寺陥落に繋がった話が太平記にあります。
越前で奮戦
新田義貞は藤島の戦いで戦死しますが、脇屋義助を中心に越前南朝は諦めずに戦い続けました。
一時はかなり押し込まれた越前南朝でしたが、この時には挽回し斯波高経や斯波家兼を追い詰めていたわけです。
越前では複数の場所で激闘が繰り返されていましたが、この中で最も活躍したのが畑時能となります。
畑時能は越前の海上交通の要衝である三国湊にある湊城に僅か23名で籠城していました。
幕府は畑時能を討つために北陸道の七カ国の軍勢を使いますが、湊城を陥落させる事が出来なかったと言います。
暦応二年(1339年)七月になると、畑時能は攻勢に切り替え、幕府軍の12の城を落とし800の首を斬りました。
この時に女、子共関係なく討ち取ったと伝わっています。
斯波高経は黒丸城に籠城していましたが、畑時能が向かっている事を知ると、撤退したとまで太平記は述べています。
畑時能が本当にこれほどまでの戦いをしたのかは不明ですが、当時の越前における戦いが如何に壮絶だったのかを現わしているとも考えられています。
鷹ノ巣城の戦い
室町幕府では斯波高経の苦戦を目にし、高師春を援軍として送り込みました。
高師春の助力を得た幕府軍は復活し、越前府中を落し快進撃を続け、越前南朝の総大将の脇屋義助も越前から落ち延びる事になります。
越前は静まったかに思えましたが、暦応四年(1441年)に畑時能が鷹ノ巣城を本拠地とし、反旗を翻しました。
畑時能は奮戦しますが、幕府軍では上木家光という武士が、畑時能に寝返るとする噂が流れました。
これを恥じた上木家光は一族200名で、果敢に鷹ノ巣城を攻撃したわけです。
幕府軍は先駆けの手柄を上木家光に取らせてはならないと考え、7000人が後に続きました。
幕府軍の猛攻の前に畑時能は、伊地山に移り徹底抗戦を行っています。
畑時能の最後
伊地山で畑時能は激しく抵抗するも、最終的に戦死し最後を迎えました。
南北朝時代に生きた豪傑の最後と言ってもよいでしょう。
畑時能の鷹ノ巣城が陥落した事で、北陸の南朝方の活動は終息したと太平記にあります。
畑時能の最後を持ち、幕府軍は南朝勢力を圧倒する様になったとも伝わっています。
それを考えれば、畑時能の死は南北朝時代の北朝の優勢を決定づけたとも言えそうです。