細川業氏は細川和氏の子として誕生しましたが、細川顕氏の養子となりました。
細川奥州家の祖だと考える人もいます。
細川業氏は和泉守護となりますが、南朝との戦いで和泉を放棄しており、これにより和泉守護を解任されました。
しかし、足利義満が元服する時には理髪役などしており、幕府政治に関わっている事が分かっています。
細川業氏は軍人としては評価されていませんが、和歌の才能があり文人としては優秀な人だったのでしょう。
尚、細川業氏は足利義満の時代まで生きた事は分かっていますが、何年の亡くなったのかは不明です。
細川業氏の出自
尊卑分脈によると、細川和氏の子が細川顕氏の養子に入った事が記録されています。
これが細川業氏となり、実父は細川和氏であり、養父が細川顕氏という事になります。
細川和氏には、後に室町幕府の執事となる細川清氏がいますが、細川業氏の実兄が細川清氏です。
細川業氏は細川奥州家に入りましたが、どの様な理由で細川顕氏の養子になったのかは、イマイチはっきりとしていません。
ただし、細川和氏は比較的早い時期に亡くなっており、細川清氏が出世に苦労した話があり、それらと関係している可能性はあるはずです。
細川業氏は1353年に和泉で軍事行動が確認されており、後に兵部少輔に任命されています。
和泉守護の剥奪
実兄の細川清氏が戦働きを評価され、室町幕府の執事となりました。
執事となった細川清氏は南朝征伐を画策しています。
細川清氏の南朝征伐に対し、鎌倉公方の足利基氏は関東執事の畠山国清を援軍として派遣し、大規模な南朝攻撃を実行する事になりました。
この時期に細川業氏は和泉守護となっており、活発に行動した形跡があります。
細川清氏の軍は南朝の楠木正儀らを破る活躍を見せました。
しかし、細川清氏と仁木義長の対立があり、足利義詮が佐々木道誉の手引きで、京都を脱出するなどの一幕もありました。
幕府内の混乱をよそに南朝は兵を繰り出し、細川業氏は和泉国を放棄し撤退しています。
細川業氏が和泉で踏みとどまらずに、京都に撤退してしまった事が問題とされており、和泉守護の座は剥奪されたと考えられています。
尚、細川業氏の敗北により細川氏の和泉制覇の夢は完全に頓挫し、和泉だけではなく摂津の一部まで南朝の支配下に入りました。
後村上天皇も行宮を摂津の住吉社に移すなどしています。
細川業氏の実兄で幕府執事の細川清氏も有効な手立てを討つ事が出来ず、佐々木道誉との対立もあり失脚しました。
京都で活動
和泉守護を解任されてから、細川業氏が何をしていたのかはイマイチ分かりません。
しかし、貞治5年(1366年)頃の詠歌を収めた続草庵集には、頓阿と交流した事が分かっています。
新拾遺和歌集にも入選している事から、細川業氏は京都にいたのではないかと考えられています。
足利義詮が亡くなると、足利義満が後継者となりました。
足利義満の元服で理髪役を務めたのが、細川業氏です。
こうした事から、細川頼之が管領となった時には、幕政に関与していたのでしょう。
1370年には引付頭人となっており、1391年頃まで活動が見えます。
さらに、永和二年(1376年)には陸奥守に就任しました。
養父の細川顕氏も陸奥守に就任しており、改めて細川業氏が陸奥守になっている事から、細川業氏が細川奥州家の祖とされる場合もあります。
和歌に優れていた
実父の細川和氏や養父の細川顕氏は和歌に優れていました。
細川業氏も同様に和歌を高く評価されています。
勅撰集の「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」に入選しています。
他にも、私家集の「源経氏歌集」も残しました。
冷泉為遠、為重、二条義基、細川頼之、頼元、吉見氏頼との交流があった事も分かっています。
幕府の和歌会にも「散位業氏」として出席しました。
細川業氏は槍働きはパッとしないのかも知れませんが、教養は高くその中でも和歌は多くの人に評価されていたのでしょう。
文人の方が気性的にも一致していたとみる事が出来ます。