室町時代

細川和氏と阿波細川家の始まり

2024年10月26日

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宮下悠史

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名前細川和氏
生没年1296年ー1342年
時代南北朝時代
主君足利尊氏
一族父:細川公頼 弟:頼春、師氏
子:清氏、頼和、業氏など
コメント阿波細川家の祖

細川和氏は阿波細川氏の祖とも言うべき人物です。

細川和氏は足利尊氏に従い各地で転戦し功績を挙げています。

後醍醐天皇と足利尊氏の関係が決裂した時に、後醍醐天皇への使者となったのが細川和氏です。

細川和氏は阿波守になったり、阿波及び淡路の守護になったと考えられています。

足利一門の中では家格が低い細川家は細川和氏や弟の細川頼春により興隆したとも言えるでしょう。

尚、細川和氏は教養も優れており風雅和歌集、新後遺和歌集、新千載和歌集、新後拾遺和歌集、新続古今和歌集にも和歌が掲載されています。

足利尊氏の賀茂社奉納和歌にも参加した事が分かっています。

細川和氏の動画も作成してあり記事の最下部から視聴する事が出来ます。

細川和氏の誕生

細川和氏は細川公頼の子として1296年に生まれた記録があります。

細川和氏が鎌倉時代に生まれた事は間違いないでしょう。

細川家は足利一門の中では家格が低く尊氏が足利直冬を冷遇した時の表現として「仁木や細川と同列に扱った」というものがあります。

この記述を見ても細川家の家格の低さが分かるはずです。

細川和氏の父親である細川公頼も鎌倉時代に何をしていたのかもイマイチ分からない程です。

阿波守・細川和氏

鎌倉幕府が滅亡する時に、細川和氏が何をしていたのかは正確な所は分かりません。

しかし、梅松論には細川和氏や上杉重能の所に後醍醐天皇から倒幕の綸旨が届き、足利尊氏を説得した話があります。

足利尊氏は細川和氏や上杉重能の進言により、討幕派に加担し六波羅探題を滅ぼす事になります。

足利尊氏が六波羅探題を滅ぼす時に、細川和氏が六波羅の包囲網を崩す作戦を進言した話があります。

ただし、細川和氏の六波羅探題を滅ぼす時の進言には信憑性が疑われている部分もあります。

それでも建武政権で細川和氏が阿波守となり、弟の細川頼春が蔵人になっている所を見ると何かしらの功績があったのでしょう。

細川和氏は阿波守である事から、阿波の国司になったとも考えられるはずです。

尚、細川氏は三河の額田郡細川郷に所領を持っており、幕府軍が東海道を通ったり、近畿から鎌倉に行く武士たちを見ており動向を伝えるなどの功績があったのではないかともされています。

阿波守になっている所を見れば倒幕において功績があった事だけは間違いなさそうです。

後醍醐天皇への使者

1335年に中先代の乱が勃発しました。

北条時行の討伐に足利尊氏が向かいますが、京都にいた細川和氏も従軍する事になります。

この時に駿河国府合戦があり、細川和氏も戦功を挙げた事が分かっています。

中先代の乱が鎮圧されると足利尊氏は勝手に論功行賞を始め後醍醐天皇の不興を買う事になります。

足利尊氏は新田義貞の誅罰の奏上を出しており、この時の使者となったのが細川和氏です。

しかし、当然ながら後醍醐天皇の怒りは収まらず、新田義貞を総大将として鎌倉討伐が行われています。

足利尊氏は浄光明寺に引き籠ってしまいました。

尚、足利尊氏と共に細川頼春も浄光明寺に移った話もあります。

新田義貞に足利直義高師泰が矢作川の戦いで敗れると、足利尊氏が自ら出陣し箱根竹ノ下の戦いで新田軍を破り、そのまま京都に進撃しました。

足利尊氏の上洛軍に細川和氏や頼春も加わっていた事が分かっています。

恩賞宛行権

足利尊氏は近畿での戦いで楠木正成北畠顕家、新田義貞らに敗れ態勢を立て直す為に九州に向かいました。

室津で足利尊氏は中国地方や四国地方に使者を派遣しています。

この時にキーマンになったのが細川和氏と細川顕氏であり、数百枚に及ぶ御判紙が与えられ恩賞宛行権を与えています。

細川和氏及び細川顕氏による連署奉書により四国の国人に恩賞が宛がわれたわけです。

建武の新政においても武士に迅速に恩賞を与える事が出来なかったのが問題であり、足利尊氏や直義は協力した武士への恩賞を素早く与える為に、細川和氏と細川顕氏に恩賞宛行権を与えたのでしょう。

室町幕府の為に尽力

足利尊氏少弐頼尚の助けもあり多々良浜の戦いで勝利すると、一色道猷を鎮西管領とし九州を任せ上洛する事になります。

この上洛軍に細川和氏も弟の頼春と共に加わっており、足利尊氏、直義及び高師直と共に住吉村に和歌を奉納した事が分かっています。

足利軍は湊川の戦いで新田義貞楠木正成を破り後醍醐天皇を比叡山に囲み後に幽閉しています。

足利尊氏は光厳上皇の院宣及び光明天皇の即位、建武式目の制定もあり室町幕府が誕生しました。

これが北朝であり、後に後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開く事になります。

室町幕府が始まると細川和氏は禅律方頭人となった事が分かっており、鎌倉で所務沙汰に関与していた様です。

専門家の中には、細川和氏が阿波・淡路の二カ国の守護に補任されたとも考える人もいます。

1339年には天龍寺造営奉行人に任命され、侍所頭人になった事が分かっています。

細川和氏は室町幕府において功績がありましたが、この頃に引退した様です。

細川和氏の最後

細川和氏の晩年は阿波の普陀寺を建立し夢窓疎石を開山としました。

夢窓疎石は足利尊氏や直義からも信用されていたのも開山とした原因になっているのでしょう。

細川和氏は体調不良などもあったのかも知れませんが、幕政を退き1342年に47歳で亡くなったと伝わっています。

尚、南北場時代の管領と言えば細川頼之を思い浮かべる人も多いかと思いますが、細川頼之は弟の頼春の子となります。

細川和氏の子の細川清氏は室町幕府の中で問題となり、後に南朝に鞍替えしました。

細川和氏の動画

細川和氏のゆっくり解説動画となっております。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編をベースに作成しました。

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