名前 | 北条仲時 |
生没年 | 1306年ー1333年 |
時代 | 鎌倉時代 |
所属 | 鎌倉幕府、六波羅探題 |
一族 | 父:北条基時 配偶者:北の方 兄弟:高基 子:友時 |
年表 | 1330年 六波羅探題北方に就任 |
1331年 元弘の変 | |
コメント | 六波羅探題の最後の長官 |
北条仲時は鎌倉時代の最末期の人物で、北条時益と共に六波羅探題の長官となりました。
就任後直ぐに後醍醐天皇の元寇の変が勃発し、対応に迫られる事になります。
笠置山の戦いで後醍醐天皇を捕虜としますが、護良親王や楠木正成が再度挙兵しました。
千早城の戦いで楠木正成が驚異的な粘りを見せる中で、赤松円心が京都に侵攻し北条仲時が対応したりしています。
足利尊氏が後醍醐天皇に寝返った事で一気に劣勢となり、最終的に六波羅館を退去し近江を目指しました。
糟屋宗秋の奮戦もありましたが、近江の番場で命を落とす事となります。
糟屋宗秋の死を以って六波羅探題は滅亡したとも言えるでしょう。
六波羅北方に就任
北条仲時は名前からも分かる様に北条氏の一門であり、極楽寺流北条氏の普恩寺家の出身で、北条基時の子となります。
北条仲時が六波羅探題に就任した時には既に出家していましたが、執権も務めた過去もあり幕府内の実力者だった事は間違いないでしょう。
元徳二年(1330年)の暮れに北条仲時が六波羅探題北方に就任しました。
常葉範貞に代わり六波羅探題北方に就任したわけです。
半年ほど前には六波羅探題南方も金沢貞将から北条時益に代わりました。
この北条仲時こそが最期の六波羅探題となります。
元弘の変
北条仲時は六波羅探題の長に就任しますが、暫くして後醍醐天皇が京都を脱出し笠置山に入りました。
しかし、後醍醐天皇は花山院師賢を比叡山に派遣しており、北条仲時や北条時益は後醍醐天皇が比叡山に入ったと勘違いし、比叡山に軍を進める事になります。
北条仲時も後醍醐天皇が比叡山にいない事を知ると、笠置山に軍を進めました。
これが笠置山城の戦いです。
この時に楠木正成も赤坂で籠城戦を展開する事になりますが、笠置山の戦いで後醍醐天皇が捕虜になると、楠木正成は城を脱出し行方を眩ませました。
北条仲時は一安心したかと思いますが、直ぐに護良親王と楠木正成が挙兵し元弘の変は続く事になります。
北条仲時は六波羅管轄の軍を使って護良親王と楠木正成を攻撃しますが、城を落せず鎌倉幕府への求心力は低下しました。
後醍醐天皇も隠岐を脱出し名和長年に迎え入れられ、隠岐守護の佐々木時信の軍と戦っています。
こうした中で幕府からの援軍である名越高家と足利尊氏が近畿に援軍として駆け付ける事になります。
しかし、名越高家が赤松円心により討ち取られ足利尊氏が朝廷軍に寝返りました。
北条仲時や時益らは、千種忠顕や足利尊氏からの攻撃を受け窮地に陥る事となります。
六波羅探題の滅亡
太平記によると、六波羅館に立て籠もった軍は五万騎以上もいたとされています。
しかし、官軍は東側だけを開けており、六波羅探題の軍に逃げ道を開けておいたわけです。
五万の軍が一致団結し、官軍と戦えば何とかなったのかも知れませんが、我先へと逃げる者が多数出たとあります。
普段は豪勇をなびかせていた者であっても、この時は六波羅館から逃亡してしまったと言います。
皇族や宮女、公家などは戦場を目の当たりにした事もなく、おののきました。
離脱者が相次いだ結果として、残った兵は千余騎ほどしかなく、北条仲時は北条時益と共に決断を強いられました。
この時に糟屋宗秋は東側が包囲されていない事を理由に、脱出する様に進言しています。
北条仲時と北条時益は女性や子供などを先に逃がしてから、敵陣を破り戦う策を練りました。
北条仲時と北の方
北条仲時は妻である北の方に会いに行く事になります。
北条仲時は、北の方に次の様に話しました。
※太平記より
北条仲時「いつもは、例え都から去る事があっても、何処へでもお前(北の方)を連れて行こうと思っていた。
関東に行くにも道中には敵があちこちに満ち溢れ、道を塞いでしまったと聞いておる。
其方は女性だから障りもないし子の松寿も幼く敵に見つかっても、誰なのかも分からないはずだ。
今のうちに夜陰に紛れて動き出し、田舎にでも身を隠し、世の中に平穏が訪れるのを待つのがよいだろう。
私が無事に関東に着く事が出来たのなら直ぐに迎えいれる様にする。
仮に儂が関東まで辿り着く事が出来ず命を落としたなら、良い人を見つけて結婚してくれ。
松寿を一人前の男に成長させ、僧にでもし私の菩提を弔う様にして欲しい」
北条仲時は北の方に、松寿を連れてここから脱出させようとしたわけです。
しかし、北の方は次の様に述べました。
※太平記より
北の方「どうしてこのような薄情な事を言うのでしょうか。
混乱した今の世で幼い者を連れて見知らぬに行ったら、落人の一族だと思わない者はいません。
知人を頼れば敵に探し出され辱めを受けるだけです。
私が辱めを受けるだけではなく、松寿の命まで取られてしまう事でしょう。
これでは悲しすぎます。
万一、道中で不慮の災難に遭遇したら、そこでご一緒にどうとでもなるはずです。
頼みとする葉陰もない様な木の下では、秋風に吹かれて露が散るまで捨て置かれては、私はながらえそうな気がいたしません」
北の方は六波羅館からの脱出を拒み北条仲時に縋りました。
ここで太平記だと楚漢戦争の垓下の戦いで、劉邦に追い詰められ四面楚歌になった項羽と虞美人の話が掲載されています。
太平記の作者は北条仲時と北の方を項羽と虞美人に重ねたのでしょう。
北条仲時と北の方の姿をみて涙を流さなかった者はいなかったと言います。
脱出
北条仲時は北の方といましたが、北条時益が直ぐに脱出する様にせかしました。
これにより、北条仲時は北の方や松寿と離れ、馬に乗り北門を東に回り立ち去る事となります。
それを見た残された人々は、東の門からさまよいながらも出て行きました。
しかし、佐々木道誉が野伏達に行く手を阻むように命令していたわけです。
北条仲時は鎌倉を目指して京都を出ますが、早い段階で北条時益が戦死しました。
六波羅探題は二人制が取られていましたが、北条仲時だけになってしまったと言えるでしょう。
北条時行は中吉弥八や糟屋宗秋と共に鎌倉を目指す事となります。
北条仲時の最後
北条仲時は先陣として糟屋宗秋を先に行かせ、後軍として佐々木時信は配置しました。
先を進んだ糟屋宗秋が戦闘に入ったとする情報があり、北条仲時は馬に乗り戦場に駆け付けたわけです。
糟屋宗秋は戦いには勝利しましたが、目の前には敵の大軍が控えており、通る事は難しいと進言し、佐々木時信との合流を進言しました。
しかし、佐々木時信に誤情報が入り、佐々木時信は朝廷軍に降伏しています。
北条仲時は蓮華寺で待ちますが、いつになっても佐々木時信が現れず、北条仲時は切腹を決断すると、部下達には次の様に述べています。
※太平記より
北条仲時「武運も尽き我が北条の滅亡が近いと知りながら、武士たる者の名を重んじ、年来の親交も忘れず、運命を共にしてくれた者達には申す言葉もないほどだ。
感謝の気持ちは深いが北条の命運は既に尽きており、何を以ってこの恩に報じる事ができようか。
今は自分が自害し、生前のご恩を死後に報いようと思う。
この北条仲時は不肖の者ではあるが、平氏一門の名高い身であり、この首を取った者には破格の恩賞が与えられるはずだ。
さあ、この北条仲時の首を取り源氏の手に渡し、過去を償い今後の務めの役に立たせよ」
北条仲時は鎧を脱ぎ切腹し、最後を迎えました。
突然の北条仲時の死を見た糟屋宗秋も切腹し、これに四百三十二名の者が続きました。
北条仲時の死を以って六波羅探題は滅亡したと言ってもよいでしょう。
尚、北条仲時の一行には日野資名もいましたが、日野資名は切腹せず出家し生き延びる事になります。
北条仲時は亡くなった蓮華寺は現在でも残っており、六波羅探題最後の伝えを残しています。
名前 | 住所 | 電話番号 |
蓮華寺 | 滋賀県米原市番場511 | 0749-54-0980 |