名前 | 赤松円心(法名) |
本名 | 赤松則村 |
生没年 | 1277年ー1350年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 父:赤松茂則 子:則祐、 範資、 氏範、 貞範 |
コメント | 鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の勃興に大きく貢献 |
赤松円心は倒幕での戦いで活躍し、一時は京都に攻め入るなどもしています。
赤松円心は兵を操るのが巧みであり、六波羅探題の軍を翻弄しました。
建武の新政では播磨守護に任命されますが、短期間で解任されています。
足利尊氏が近畿の戦いで敗れた時には、九州に逃れる様に進言するだけではなく、光厳上皇の院宣を獲得する様に述べています。
足利尊氏や直義は赤松円心の戦略を実行し室町幕府を誕生させたと言えるでしょう。
尚、赤松円心には赤松則村という名もありますが、法名である円心の方が聞きなれた人も多く、ここでは赤松円心で話を進めていきます。
赤松円心の
赤松円心は1277年に播磨国で誕生したとされています。
元との戦である文永の役が1274年に起きており、弘安の役が1281年であり間の時期に赤松円心は誕生したと言えるでしょう。
元寇は人々を恐怖させ様々な社会不安を誕生させており、こうした時期に赤松円心は育った事になります。
ただし、赤松円心に対する前半生の事績は殆ど分かっておらず不明な点が極めて多いです。
赤松氏に関しても村上源氏を祖とする話がありますが、真相は不明な部分が多いと言えます。
近年の研究では赤松氏は六波羅探題傘下の御家人でありながらも、悪党としても活躍し播磨国で勢力を伸ばしたと考えられています。
苔縄城で挙兵
1331年に後醍醐天皇は笠置山で挙兵しますが、短期間で敗れ幕府に捕らえられ隠岐に配流されています。
これ以降の倒幕活動は護良親王を中心に行われますが、この時に護良親王の側近として赤松則祐がいました。
赤松則祐は赤松円心の子で比叡山に出家していたわけです。
過去に護良親王は比叡山に入り天台座主にもなっており、赤松則祐と深い関係になっていたのでしょう。
1333年の2月に赤松則祐が護良親王の令旨を赤松円心に届けた事で、赤松円心は倒幕に舵を切る事になります。
赤松円心は苔縄城を築城し籠城しました。
赤松円心が倒幕派に加勢した理由に関しては、近年の研究では楠木正成や平野将監入道、江三入道教性ら悪党と既に繋がっており、子の赤松範資や赤松貞範らも彼らと人脈形成をしていた事が分かっています。
苔縄城で挙兵する前の赤松円心が護良親王や楠木正成とコンタクトを取った資料は現在の所ありませんが、息子らの人脈を通じて鎌倉幕府打倒の為の兵を挙げたと考えられています。
京都へ進撃
赤松円心は高田城を攻略し摩耶山で六波羅探題の軍と戦いとなります。
摩耶山の戦いで赤松円心は敵を誘い込み弓兵による一斉射撃で敵を怯ませ攻勢に出て大勝を収めました。
摩耶山の戦いを見ても赤松円心の用兵術が巧みだった事が分かるはずです。
太平記によると戦いに勝利した後に、赤松則祐が太公望の兵法を理由に京都への進撃を進言し採用されました。
太山寺文書にも摂津国で勝利した赤松円心が3月12日に京都に攻め込んだ事が記載されており、赤松円心が六波羅探題の本拠地である京都に攻め込んだ事は確実でしょう。
赤松則祐が奮戦し敵を混乱させた事で寡兵で敵を圧倒しますが、最終的には六波羅探題の軍に敗れています。
赤松円心の巧妙な手口
大敗を決した赤松円心ですが、同行していた中院定平を聖護院宮だと偽らせ態勢を立て直しました。
太平記では山崎・八幡に赤松円心が陣を構えた事で、洛中の商売が全てとなり、兵たちは兵粮の輸送に苦しんだとあります。
六波羅探題は赤松円心に苦しめられ太平記では「赤松ひとりの為に都中が悩まされ、未だに兵たちを苦しめるとは小癪な話だ」と述べた話があります。
六波羅探題の方でも赤松円心を放置する事は出来ず、息の根を止める為に山崎に大軍を差し向けました。
赤松円心の用兵術
六波羅探題は大軍を赤松円心に差し向けますが、太平記によると円心は兵を弓隊、野伏と騎兵の混合部隊、刀や槍で武装した打物衆の三つに分けて各所に配置したとあります。
大軍を擁し楽勝ムードの幕府軍に対し、弓隊が攻撃を仕掛け、六波羅探題の騎兵が迫ると山頂に移動し、六波羅軍が諦めて後退すれば左右から打物衆が側面から攻撃しました。
さらに、幕府軍の背後を騎馬隊が塞ぎ敵を撃退したわけです。
赤松家では六波羅探題の属する御家人であった事から、六波羅軍の弱点を知り尽くしていたと考えられています。
赤松円心も楠木正成と同様に小数でのゲリラ戦においては、かなりの用兵力を持っていた事が分かるはずです。
この頃には後醍醐天皇も隠岐を脱出しており千草忠顕も倒幕の軍に加わる事になります。
こうした事態を重く見た鎌倉幕府では足利尊氏と名越高家を近畿に派遣しました。
名越高家は赤松氏の一族である佐用範家に射殺され、足利尊氏は後醍醐方に寝返る事になります。
赤松円心は足利尊氏と共に六波羅探題を攻撃し北条仲時や北条時益らを敗走させました。
新田義貞も足利義詮を擁立し鎌倉を陥落し、ここにおいて鎌倉幕府が滅亡したわけです。
赤松円心がいなければ六波羅探題を攻略する事が出来なかったとも言われており、赤松円心は絶大なる功績を挙げたと言えます。
赤松円心の没落
建武の新政により赤松円心は播磨国の守護となります。
しかし、1334年の9月には播磨国の守護を解任され佐用荘のみの領有を許されました。
太平記では播磨守護を解任された事で、赤松円心は後醍醐天皇を見限り足利尊氏に味方した事になっています。
赤松円心が播磨守護を解任された理由は不明ですが、下記の二つの説が存在します。
・護良親王の失脚に伴い赤松円心も失脚した。
・播磨国司の新田義貞との確執
護良親王は後醍醐天皇が隠岐に流されてから倒幕の中心人物であり、絶大なる功績があり赤松円心と共に京都に入った話もあり、近しい関係だった事は間違いないでしょう。
護良親王は建武政権で征夷大将軍となりますが部下の制御が上手く出来ず、足利尊氏との対立もあり失脚したと考えられています。
赤松円心が護良親王と共に失脚したのは、ありそうな話ではありますが、その後に赤松円心は足利尊氏に接近している事実があります。
護良親王と足利尊氏は政敵であり、護良親王で赤松円心が失脚したなら、政敵である足利尊氏に接近するのも妙に感じるわけです。
さらに、護良親王の解任で蜂起した者達を赤松円心が鎮圧した話もあり、護良親王の失脚で赤松円心が失脚したという事もないのでしょう。
赤松円心が護良親王を共に失脚したのであれば、護良親王の残党を赤松円心が鎮圧する事も出来なかったはずです。
それらを考えれば赤松円心の失脚は新田義貞との政治的な対立とみる事が出来ます。
赤松円心が新田義貞と対立し足利尊氏に接近するのは充分にあり得ます。
赤松円心の策謀
信濃の北条時行が諏訪頼重と共に足利直義がいる鎌倉を陥落させた中先代の乱が勃発しました。
足利尊氏は直義救援の為に近畿を離れ北条時行を破り鎌倉を奪還しますが、これを気に建武政権が離脱しています。
足利尊氏は後に近畿を転戦しますが、北畠顕家らに敗れました。
ここで赤松円心は足利尊氏や直義に次の進言をしています。
・九州で態勢を立て直す
・光厳上皇の院宣を獲得する
足利尊氏や直義は摂津で態勢を立て直し京都を襲撃しようと考えていましたが、赤松円心は九州まで落ち延びて態勢を立て直す様に進言したわけです。
さらに、持明院統の光厳上皇の院宣を獲得する様に述べており、大義名分の重要さを理解していたのでしょう。
赤松円心は足利尊氏が九州に落ち延びる際に、播磨を抑えていた事で無事に九州に落ち延びる事が出来たとも考えられています。
足利尊氏は九州に落ち延び大宰府を支配する少弐頼尚に迎えられ多々良浜の戦いでは菊池武敏を破り勢力を盛り返しました。
足利尊氏は光厳上皇の院宣も獲得しており、湊川の戦いでは楠木正成と新田義貞を破り後醍醐天皇を比叡山で包囲しています。
足利尊氏は光厳上皇を擁立して北朝を立てますが、これらは赤松円心の策謀に従った結果だとも言えるでしょう。
北朝を推戴する室町幕府という形式を創り出したのは赤松円心の戦略だったわけです。
赤松円心は摂津守護に任じられ尊氏から高い評価をされました。
赤松円心の最後
赤松円心は1350年に74歳で亡くなった事が分かっており、嫡男の赤松範資も1351年に没しました。
赤松範資が亡くなった事で摂津守護には子の赤松光範が任命されますが、播磨国の守護と家督は赤松則祐が継ぐ事になります。
赤松則祐には兄の貞範がいましたが、室町幕府との関係がもつれており、赤松則祐が後継者になったともされています。
赤松則祐は観応の擾乱では一時的に南朝に従いますが、足利義詮から高く評価される事になります。
足利義満を赤松則祐が匿ったりもしており赤松円心の命日に行った「松はやし」を義満は多いに喜びました。
赤松円心が赤松氏興隆の土台を作り赤松則祐が赤松氏を安定させたと言えるでしょう。