今川範満は南北朝時代の人であり、今川基氏の子で兄に今川頼国がおり、弟には頼周、大喜法忻、範国などがいます。
今川範満は北条時行の中先代の乱がおきると、重病にも関われず出陣した事で知られています。
今川範満は中先代の乱の小手指ヶ原の戦いで亡くなりました。
松井優征先生が描く逃げ上手の若君でも今川範満は登場しており、馬の仮面を被った人物としてインパクトがあり、覚えている人も多いのではないかと感じています。
今川範満の出自
今川基氏には何人かの子がいましたが、嫡男は今川頼国だと考えられています。
今川頼国は中先代の乱において、相模川の戦いで戦死しました。
次男と目されるのが今川範満と頼周です。
今川頼周が中先代の乱で戦死した今川三郎と同一人物ではないかともされていますが、この辺りははっきりとしません。
後の事を考えれば今川範満は建武政権では鎌倉将軍府に配属されていたのでしょう。
今川範満は中先代の乱では足利直義の配下として戦うわけです。
中先代の乱
重病での出陣
1335年に信濃国の諏訪頼重は北条時行を担ぎ上げて挙兵し、鎌倉に向けて進軍しました。
信濃守護の小笠原貞宗は北条時行の動きに対処する事が出来ず、関東への進軍を許しています。
北条時行の軍は怒涛の勢いでの進軍であり、渋川義季や岩松経家を撃破し小手指ヶ原まで進軍しました。
北条時行の軍に対し今川範満や鎌倉将軍府の軍との間で小手指ヶ原の戦いが勃発する事になります。
今川了俊の難太平記によると、この時の今川範満は重病だったと伝わっていますが、馬の力革に両足を結び付けて出陣したと伝わっています。
重病であるはずの今川範満が出陣した理由ですが、自らの死に場所を求めて出陣したとも考えられています。
他にも、足利直義の鎌倉将軍府側は渋川義季や岩松経家も討ち取られており、病人である今川範満を止める余裕もなかったともされているわけです。
鎌倉幕府が滅亡した時に、上野を出発した新田義貞の軍が鎌倉幕府を滅ぼす戦いでは、各地で勝利を得ましたが、似た様な光景が頭に浮かんだ武士も多かったのでしょう。
今川範満の最後
今川範満は力革に両足を結び出陣したわけですが、結局は腿を切り落とされてしまいます。
死を悟った今川範満は家人の坂田左衛門に頸をとらせたと伝わっています。
ここにおいて今川範満は最後を迎えました。
後に兄の今川頼国は相模川の戦いで討たれ、今川三郎も戦死した記録があり、今川基氏の5人の子のうち3人が中先代の乱で亡くなったと考えられています。
中先代の乱は今川家にとって大きな損害を出したと言えるでしょう。
ただし、今川氏は弟の今川範国が後継者となり、遠江や駿河の守護となり発展していく事になります。