室町時代

今川氏家は家督を継ぐも当主としてカウントされなかった

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宮下悠史

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名前今川氏家
生没年生年不明ー1369年
時代南北朝時代
一族祖父:今川範国 父:今川範氏 兄弟:泰範
コメント今川氏の三代目当主に数えられる事もある。

今川氏家は今川範氏の子であり、今川氏の家督を継いだ話があります。

今川範氏が亡くなった時に、祖父の今川範国の働き掛けにより、今川了俊が駿河守護になるという話しもありました。

しかし、今川了俊は固辞しており、今川氏家が今川氏の後継者となります。

今川氏家が家督になった記録はありますが、惣領の座は今川範国に戻った説もあり、今川氏家は今川氏の当主としてカウントされない事も多いです。

今川氏家が亡くなると弟の今川泰範が、今川氏の三代目当主となりました。

家督を継ぐ

今川家略記によると、嫡男の今川氏家が家督を継いだ事が書かれています。

ただし、この時に父親の今川範氏は亡くなっていましたが、祖父の今川範国は生きていました。

この記述で考えれば、駿河今川氏の初代を範国とした場合に、父親の範氏が二代目となり、家氏は三代目となるはずです。

しかし、歴代の今川氏の当主を見ると、今川氏家は当主にカウントされない場合が多いと言えます。

今川家当主にカウントされない理由ですが、守護の職務としての文書が残っていない事や、今川範国の発給文書が1377年まで続いている事もあり、今川範氏が亡くなると、一族惣領職の座は祖父の今川範国の手に戻ったのではないかと考える事が出来ます。

さらに、今川氏家の駿河守護を務めていた期間も極めて短いと言えます。

駿河守護の空位

父親の今川範氏が亡くなり、半年ほどが経過すると、室町幕府の最高責任者である足利義詮は今川氏家を駿河守護に補任しました。

『駿河今川氏十代』の著者である小和田哲男氏は「半年の駿河守護の空位」に着目しました。

ここでポイントになるのが今川了俊の『難太平記』の記録であり、今川範国は今川了俊を高く評価していたわけです。

今川範国は駿河守護を今川了俊にしようと考え、足利義詮に今川了俊を駿河守護にする様に要請しています。

しかし、今川了俊は駿河守護就任要請を断り、兄の範氏の系統こそが、駿河守護になるのが相応しいと考えていました。

最終的に今川了俊は駿河守護就任を断わりますが、その為のやり取りの期間として、六カ月に渡り駿河守護の座が空位となったとされています。

今川氏家の方では、自分が駿河守護になれたのは、今川了俊のお陰と考えていた様です。

尚、貞治五年1366年に今川氏家と今川了俊が、武藤楽阿の月次和歌会にも参加した事が分かっています。

今川氏家の最後

今川氏家がいつ亡くなったのか、正確な部分は分かっていません。

しかし、応安二年(1369年)に、駿河守護として今川泰範の名前が登場しており、この頃に今川氏家が亡くなったと考えられています。

難太平記によると、今川氏家には子がおらず、今川氏に後継者問題が噴出しました。

そこで、今川氏家は今川了俊の子である今川貞臣を後継者にしようとしています。

今川氏家は今川了俊に感謝しており、今川了俊の子の貞臣を指名したのでしょう。

しかし、今川了俊は今川氏当主の座は、兄の今川範氏の系統が就任すべきと考えており、今川氏家の弟の今川泰範が相応しいと考えました。

こうした事情もあり、今川氏家の弟の今川泰範が当主となります。

尚、室町幕府の管領である細川頼之は、今川了俊が自分の子ではなく、今川泰範に駿河守護の座を譲った話を聞き称賛した話が残っています。

一般的には今川泰範が今川氏三代目当主として、カウントされています。

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