名前 | 環状列石 |
読み方 | かんじょうれっせき |
時代 | 縄文時代 |
コメント | 日本各地に残る代表的なモニュメント |
環状列石は縄文時代の代表的なモニュメント(記念碑)です。
縄文時代の芸術品と言えば、土偶や縄文土器に目が行きがちですが、環状列石も立派なモニュメントだと言えるでしょう。
実際の所ですが、縄文人がなぜ環状列石を建造したのかはイマイチよく分かってはいません。
しかし、多くの書籍などで環状列石はモニュメントだと記載されており、専門家の大半が何かしらの「記念碑」だったのではないか?と考えています。
環状列石は配石移行とも呼ばれ石を並べたものですが、中には木を並べた木柱列と呼ばれるものもあります。
さらには、盛土と呼ばれる土を盛ったものも存在しているわけです。
環状列石や木柱列ばかりが注目されがちですが、環状土手も縄文集落では発見されたりもしています。
縄文人が何かしらの目的を持って環状列石を建造した事は間違いなさそうですが、近年では地球規模の寒冷化により、各地に散ってしまった縄文人達が再び集まる場所だったのではないか?とも考えられています。
尚、環状列石は大湯環状列石が有名であり、世界遺産にも登録されています。
大湯環状列石の別名が、野中堂環状列石となります。
大湯環状列石は日本で一番有名な環状列石だと言っても過言ではないでしょう。
環状列石は100年単位で建造された
環状列石は巨大な日時計としての役割を果たしているモニュメントだと考えられています。
秋田県の秋田県鹿角市大湯野中堂には、大湯環状列石があります。
大湯環状列石は7200を超える石で形成されており、巨大な日時計の役割もしています。
7200を超える石と言えば、そこら辺に落ちていたり埋まっている様な石を掘り出して並べ、環状列石にした様に思うかも知れません。
しかし、大湯環状列石の石の磨減度を調べてみると、7キロも離れた川の上流から、とても一人では運べない様な石を運び出し、大湯環状列石を形成した事が分かっています。
大湯環状列石では同じ様な石を使って建造している事で、7キロ離れた地点からも石を必要としました。
適当に石を並べて完成させたわけではありません。
大湯環状列石を調べてみると、1年や2年、10年や20年で出来るようなものではなく、100年単位の時間を掛けて、縄文人達が石を並べたとされています。
大湯環状列石は付近から出土した土器を調べた結果として、建造に200年は掛かったと推定されたわけです。
尚、縄文時代は文字が無く環状列石には設計図が無かったと考えられています。
環状列石を考えた縄文人は全て口頭で内容を伝えたともされています。
ただし、個人的には設計図は文字が無くても、地面に絵を描く事は可能であり、地面に設計図を描いて皆に知らせた可能性もあると感じました。
文字の歴史よりも地図の歴史の方が古いともされており、地面に描いた設計図を元にして環状列石が建造されてもおかしくはないでしょう。
さらに、環状列石を建造し始めた時と完成した時では、人間が変わっており、環状列石は当初のイメージした姿と完成した姿が別物になってしまったのではないか?とも考えらえています。
地面に設計図を描いて環状列石を描いたとしても、何世代にも渡って建造したのであれば、完成形のイメージにズレが出てしまってもおかしくはないでしょう。
縄文人が何代にも渡って精魂込めて建造したのが、環状列石だとも言えます。
環状列石は日時計の役割を果たしていた
環状列石は太陽の動きを見ていた
環状列石は太陽の動きを意識して造られた事が分かっています。
環状列石を見ると,大半は夏至などの季節が分かる様になっているわけです。
大湯環状列石は先にも述べた様に、野中堂環状列石と万座環状列石の二つからなっており、それぞれの環状列石の中心と日時計状組石を直線に並べると、夏至の時に直線の先に太陽が沈む事が分かっています。
これを考えると、縄文人が太陽を意識していた事は確実でしょう。
古代エジプトでは太陽暦を使っており、ナイル川が氾濫する時期を調べて農耕を行っていました。
三内丸山遺跡では栗の半栽培を行っていた話しがあり、収穫の時期などを知るために、縄文人達は太陽の動きを調べていたとも考えられます。
逆に古代メソポタミア文明では太陰暦を使用しており、月の動きを調べて月の満ち欠けにより種まきや刈り入れの時期を調べました。
縄文人は縄文カレンダーを見ると分かる様に、季節に応じた自然の恵みを食していた事が分かるはずです。
マグロやカツオが捕れる時期はいつなのかや、秋に栗を栽培するなど季節を知るために、環状列石を作ったとも考えられています。
尚、アメリカの先住民であるプエブロ族にはメディシンマンと言われる呪術師がいた事が分かっています。
メディシンマンは夏至が分かり人々から尊敬されていたとも伝わっていますが、実際にはメディシンマンの家の窓から指す光が、壁の何処に当たるのかで夏至を確認していた事が分かっています。
縄文人だけではなく世界中で太陽の光で夏至を判別する方法は存在していました。
ただし、環状列石が日時計の役目を果たすだけであれば、7200もの石を集めてモニュメントにする必要もないのでは?とも考えられています。
太陽と山の関係
日本各地で見つかる環状列石ですが、多くの場合で太陽と山の関係が分かる様にデザインされています。
青森県の大森勝山遺跡では、冬至の日になると岩木山の山頂へ落ちて行く、太陽を見る事が出来るわけです。
山梨県の牛石環状列石では、春分、秋分の日の日没を三ッ峠山のちょうど真ん中で望む事が出来ます。
群馬県の天神原遺跡では春分や秋分になると妙義山に沈んでいく太陽を見れます。
環状列石は精密なカレンダーだった!?
縄文人が山を意識するのは、環状列石と太陽、さらには山との位置関係のずれを調べる狙いがあったともされています。
環状列石を使う事で、春夏秋冬よりも細かい季節が分かると言います。
環状列石は現在の12か月よりも細かく年月を見ていたのではないか?とも考えられているわけです。
縄文人は環状列石だけではなく、様々なモニュメントを作成しましたが、大半は山や太陽と関係しています。
ただし、全ての山を縄文人達は神格化したわけではなく、均整がとれた美しい山を見て山岳信仰を起こしたのではないか?とも考えられています。
尚、現代の日本人であっても登山愛好者は多くいますが、縄文人も多くの山に登ったと考えられています。
長野県の豊科山などは人が生活するには不向きな場所であるにも関わらず、黒曜石や土器、石器が見つかっており、縄文人がレジャーも兼ねて登山をしたのではないか?とみる事も出来るわけです。
日本は山野の風景も美しく、縄文人も登山をしてみようと思ってもおかしくはないでしょう。
環状列石が綺麗な円ではない理由
図は大湯環状列石ですが、綺麗な円の形をしていたわけではない事が分かるはずです。
環状列石を見ると、円の石の線が細い部分もあれば太い部分がある事が分かります。
なぜ、いびつな線になってしまったかと言えば、環状列石を造営する方法と関係があるのではないか?とされています。
環状列石は縄文時代の村々が協力して建造したものであり、村によって工区を割り当てられたと考えられています。
つまり、人口の多い村の工区であれば、多くの労働力があり環状列石の太い線を造り出す事が出来ますし、人数が少ない村の工区では必然と線が細くなるわけです。
さらに、最初は環状列石の建造に参加しなかったが、途中から参加した村もあると考えられており、突出した様な部分も出たのではないかと考えられています。
大湯遺跡には万座と野中堂の二つの環状列石がありますが、それとは別に小規模な環状列石もあります。
小規模な環状列石は、後から環状列石の造営に参加したグループが建造したともされているわけです。
尚、環状列石の突出した部分に関しては、出入り口だったのではないかとも考えられています。
環状列石は未完成であり、さらに規模を大きくするつもりだったのではないか?とする説もあり、縄文時代は文字も無く謎が深まるばかりです。
環状列石は何の為に造られたのか
環状列石は墓地だった!?
環状列石ですが、生活の場ではなかったとする説が有力です。
環状列石を建造した場所を調べてみると、規模に見合うだけの竪穴式住居が存在しません。
建物らしきものが存在した事実はありますが、火を使った形跡がなく生活臭は極めて少ないと言えます。
それにも関わらず、縄文土器や土偶などが出土してくるわけです。
さらに、大湯環状列石からは石の下から土壙が発見されました。
土壙は穴を掘って埋葬したお墓の事であり、環状列石は共同墓地だったのではないか?とも考えられています。
ただし、遺体を納めた甕棺が殆ど見つかっていない事で、環状列石は墓地ではないとする見解もあります。
大湯環状列石の別説としては、大湯遺跡の北には十和田湖があり、カルデラ湖だった事が分かっています。
過去には十和田火山が噴火しており、十和田湖の近辺は火山の影響で土壌が酸性となり、大半のものが溶けてしまい縄文人の骨が溶けてしまった説もあるという事です。
こうした理由から縄文土器の様に溶けにくいものは残り、人骨などの溶けやすいものは無くなってしまったのではないかと考える事も出来ます。
大湯環状列石には縦の棒の様な組石があり、組石の下を調べてみると、人間が屈葬できるだけのスペースがありお墓だとも考えられたわけです。
土壌にリンが含まれていると人間が埋葬された確率が高まるわけですが、実際にはリンが検出された例は少なく、組石の下には何もないケースもあり、お墓だったとも言い切れない部分もあります。
ただし、大湯環状列石付近の一本木後口でも組石があり、その下からは土器や石鏃、漆が塗られた木製品が出土した事で、環状列石お墓説は勢いがつきました。
意外に思うかも知れませんが、縄文時代も階級社会であり、環状列石に葬られたのは身分が高い縄文人だったのではないか?とする説もあります。
環状列石の付近にある竪穴式住居は、環状列石の管理人が住んでいたのではないか?とする説もあります。
環状列石はお祭りだった
環状列石が日時計の役割を果たしていた事は先に述べました。
環状列石は夏至になると縄文人達が集まって来て、仕事を行い仕事終わりでお祭りをしたのではないか?とする説もあります。
お祭りをやるからには、何かしらの芸をする者もおり、芸を披露する者は何日か前から環状列石の前で練習に励んだとも考えられます。
実際に環状列石の付近からは、食器や磨石、石皿や土器が出土するだけではなく、土偶や石の剣、石棒など色々なものが出て来る事が分かりました。
出土したものを考えれば、環状列石の周りで縄文人がお祭りをしたというのは、あり得ない事ではないでしょう。
世界的に見ても夏至の時に集まる民族はおり、環状列石はお祭りの場だったのではないか?とする説があるという事です。
皆で石を運びモニュメントを作成し、仕事終わりでお祭りをするのであれば、環状列石は縄文人達のレジャーでもあったはずです。
環状列石が聖地だった可能性も十分にあります。
環状列石は再会の地だった
環状列石は縄文人の集団墓地であり、再会を約束した場所だとした説もあります。
紀元前2200年に地球規模の寒冷化が起きました。
紀元前2200年のイベントにより、メソポタミアのアッカド帝国やエジプト古王国が崩壊し、混乱の時代へと突入しています。
同じ様に日本列島でも、気温が下がってしまった事で、三内丸山遺跡では栗の半栽培が出来なくなり、集落を放棄しなければいけなくなりました。
縄文人達は食糧を求めて各地に散っていきますが、環状列石の地が再会を約束した場所だったのではないか?とも考えられています。
環状列石が墓地であるならば先祖の墓もあり、夏至が分かる様にもなっている事から、縄文人達が夏の暖かい時期に再会の約束をした場所だったのかも知れません。
さらに、再会した縄文人達がお祭りをしたのではないか?とも考えられるわけです。
日本の環状列石
大湯環状列石
大湯環状列石は大湯遺跡にあり、大湯遺跡の名前よりも有名になっていると言えるでしょう。
イギリスにはストーンヘンジがあり、日本には大湯環状列石があると言ったイメージでしょうか。
既に大湯環状列石に関しては説明しているので詳細は省きますが、大湯環状列石は野中堂環状列石と万座環状列石の二つから成り立っており、日時計の役目をはたしている部分は覚えておきたい所です。
野中堂環状列石と万座環状列石の二つは200年掛けて造られましたが、同時に建造していた事も分かっています。
尚、大湯環状列石からは土版も発見されており、土版の表面には穴が幾つか空いており、縄文人達は数の概念があったのではないか?とも考えられています。
名前 | 住所 | 電話番号 |
大湯環状列石(万座環状列石) | 秋田県鹿角市十和田大湯万座27 | 0186-37-3822 |
伊勢堂岱遺跡の環状列石
秋田県秋田市の伊勢堂岱遺跡にも環状列石が存在します。
日本の環状列石と言えば、大湯環状列石が有名であり、同じような石を運び込んで造りました。
これに対し、伊勢堂岱遺跡の環状列石では、様々な石を寄せ集めて造っているわけです。
伊勢堂岱遺跡では石の色も白だけではなく、赤や黄色と様々であり、大湯環状列石とは主張が違う様にも見受けられます。
よって、同じ環状列石であっても大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡の環状列石では見た目が全く違う事になるわけです。
尚、伊勢堂岱遺跡の環状列石からは土偶や鐸形土製品と呼ばれている銅鐸のミニチュアの様なものまで出土しています。
日本列島では銅鐸、銅矛などで文化圏を分けたりもしますが、銅鐸の起源は縄文時代にあったのかも知れません。
名前 | 住所 | 電話番号 |
伊勢堂岱遺跡 | 秋田県北秋田市脇神伊勢堂岱 | 0186-84-8710 |
小牧野遺跡の環状列石
青森県青森市の小牧野遺跡にも環状列石があります。
小牧野遺跡では環状列石が中心の遺跡にもなっているのが特徴です。
小牧野遺跡のストーンサークルですが、独自の形をしており細長い石を縦横に配置しているのが特徴です。
小牧野遺跡の環状列石の方法が、伊勢堂岱遺跡にまで伝わったのか、一部古牧野式を採用しています。
かなりいびつな形をした環状列石にも見えますが、味があるとも言えるでしょう。
名前 | 住所 | 電話番号 |
小牧野遺跡 | 青森県青森市野沢小牧野41 | 017-757-8665 |
鷲ノ木遺跡の環状列石
鷲ノ木遺跡は北海道にある縄文遺跡であり、ここにも環状列石が存在します。
鷲ノ木遺跡の環状列石ですが、かなり綺麗な形で造り上げたのが分かるはずです。
今までに紹介した環状列石では、円形が乱れていましたが、鷲ノ木遺跡では整然さを主張しているかの如く円形が出来上がっています。
鷲ノ木遺跡の環状列石の特徴ですが、土偶が出ては来ません。
鷲ノ木遺跡の環状列石からは土偶が出てこない事もあり、鷲ノ木遺跡では独自の祭事を行っていたのではないか?とする見解もあります。
名前 | 住所 | 電話番号 |
鷲ノ木遺跡 | 北海道茅部郡森町鷲ノ木町 | 不明 |
大森勝山遺跡の環状列石
青森県弘前市の大森勝山遺跡からも環状列石が存在します。
多くの環状列石が紀元前2000年ごろに造られたのに対し、大森勝山遺跡の環状列石は紀元前1000年頃であり、新しい部類の環状列石となります。
大森勝山遺跡の環状列石は遺跡のある台地の中央に配置され、岩木山を見渡す事も出来るわけです。
尚、大森勝山遺跡では大型の建物も見つかっており、集会場だったのではないか?とも考えられています。
名前 | 住所 | 電話番号 |
大森勝山遺跡 | 青森県弘前市大森勝山 | 不明 |
寺野東遺跡の環状土手
寺野東遺跡には環状土手が存在します。
寺野東遺跡には環状列石ならぬ環状土手ですが、合わせて紹介しています。
環状土手の特徴ですが、土手を歩く時に浮き沈みがあるわけです。
環状列石でも円の太い場所もあれば、細い場所もあった様に、環状土手でも多くの土を積み上げた場所もあれば、少ししか積みあがっていない部分もあります。
環状土手の起伏も、環状列石と同様に村々で分担され、人数が多い工区は大量の土が盛られ、人数が少ない工区は少しの土しか盛られなかったとも考えられています。
名前 | 住所 | 電話番号 |
寺野東遺跡 | 栃木県小山市 | 0285-49-1151 |
縄文時代が豊かだったと言える理由
縄文時代は幸福の時代だったとも言われますが、縄文人が食料に恵まれ裕福だったのには、環状列石にも表れています。
環状列石ですが、常識的に考えて環状列石を建造したと言っても食料が増えるわけではありません。
むしろ、石などを運べば体を動かした事になり、お腹が空く筈です。
環状列石の様なモニュメントを建造したという事は、当時の縄文人には十分な食料があったという事なのでしょう。
環状列石は紀元前2000年ごろには誕生しており、世界では寒冷化により苦しい時期だったはずです。
日本でも巨大集落である三内丸山遺跡が放棄されるなどもありましたが、縄文人は日本列島の各地に散り余剰分の食料があったのでしょう。
環状列石はモニュメントであり、縄文人の生活の余裕さも現しています。