縄文時代

縄文土器は世界最古で特徴が多い

2024年1月11日

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宮下悠史

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名前縄文土器
時代縄文時代
コメント芸術性が評価される理由が多い

縄文土器は当然ですが、縄文時代の土器です。

縄文土器と言っても多種多様であり、多くの特徴を兼ね備えたものが多いです。

縄文土器で特に注目されるのは、縄文時代中期以降の芸術の域に達した土器だと言えるでしょう。

芸術家の岡本太郎さんが縄文土器を見て驚いて叫んだ話は有名です。

弥生時代の弥生式土器がシンプルで実用性を重視しているのに対し、縄文土器は遊び心が溢れているものが多いのが特徴でしょう。

縄文人は1日の労働時間が4時間ほどしかなく、縄文土器に心血を注ぐ事が出来たとも考えられています。

尚、縄文時代の「縄文」の名前の由来は土器に描かれた縄の様な模様を指しますが、明治時代に来日したアメリカの動物学者エドワード・シルベスター・モースと関係しています。

エドワード・シルベスター・モースは大森貝塚の土器の縄文模様を説明する時に「cord mark」という言葉を使っており、和訳した時に縄紋から縄文に変わったとされています。

ただし、全ての縄文土器に縄目の模様がついているわけではありません。

後述しますが、火焔型土器などには縄目の模様がない状態です。

さらに、地域によっては全く縄目をつけないものも存在しています。

世界一古い縄文土器

縄文土器に限らず、世界の土器は粘土を探し出し捏ねて形を造り出します。

石などは大きな石を見つけ出し、削っていくわけですが、粘土は形を変えたり二つの粘土を合体させたりも出来る為に非常に便利な素材です。

修正する事が可能なところも粘土の便利な点だと言えるでしょう。

粘土の形を整えて、乾燥させ焼く事で土器が出来上がります。

メソポタミア文明や黄河文明の土器も作り方のパターンは同じです。

縄文土器が日本列島に誕生したのは、放射性炭素分析法で調べた約15000年前だと分かっており、世界で一番古いのが縄文土器となります。

この土器が見つかったのは大平山元遺跡です。

中国では、さらに古い時代の土器が発見されたとも言われますが、大平山元遺跡で発掘された土器もかなり古いという事です。

現時点ではメソポタミア地方の土器でも9000年ほど前のものしか見つかっておらず、日本列島では6000年も早く土器が誕生した事になります。

メソポタミアで誕生した土器が日本に伝わったと考えられたりもしますが、日本の縄文土器の方が古く説明がつかない状態となります。

それでも、放射性炭素分析法の結果が正しければ、世界最古の土器は縄文土器という事になるわけです。

縄文土器は野焼きだった

メソポタミアの土器を見ると食料などの貯蔵用として作られた事が分かるはずです。

これに対し、縄文土器は食べ物を貯蔵したり、煮炊きをする為に作られています。

縄文土器が作られる前の旧石器時代などは、焼くのが主な調理方法でしたが、縄文土器の誕生により煮炊きが出来る様になりました。

縄文土器を調べると、焦げて黒くなっているものも存在しており、煮炊きに使った事は確実視されている状態です。

黄河文明に属する竜山文化黒陶などの三足土器も煮炊きが出来る様に作られています。

しかし、竜山文化では窯を使って高温で焼く事で、エッグシェルと呼ばれる程の薄さを実現しましたが、縄文土器では窯は使っておらず、土器の厚みがかなりあります。

縄文土器の厚みでいえば、黄河文明の中では仰韶文化の彩陶と同じ位だと言えるでしょう。

縄文土器は野焼きで作った事も分かっており、野焼きで作る事から温度は600度~800度くらいの低温で焼かれました。

縄文土器で食生活が豊かになった

縄文時代の縄文式の土器が誕生した事で、煮炊きが出来る様になり、生では食べる事が出来なかった植物性の食料の種類が広がったと言えるでしょう。

縄文土器により縄文人達のカロリー摂取量が増える事になります。

土器の発明によりドングリやトチノミのあく抜きも可能となりました。

ドングリは高カロリーですが、あくが強く普通では食べる事が出来ません。

しかし、土器の発明により食べる事が可能となりました。

日本列島は自然豊かだとも言われていますが、自然が豊かなだけでは食べられるものが少ないわけです。

人類は土器を発明する事で煮炊きが可能となり、食文化が拡がる事になります。

これを考えれば、縄文土器を発明した人は偉大という他ないでしょう。

食文化が広がった事で、土器も煮炊きするものだけではなく、盛り付けの為の土器も誕生したわけです。

ただし、縄文土器の中に食べ物が残っている状態で発見されるものは少なく、本当に煮炊きの為だけに使われたのか?と考える専門家もいます。

実際に縄文土器は埋葬などの宗教儀式にも使われたと考えられています。

縄文土器は弥生土器が誕生するまでに、1万年以上も作り続けられました。

尚、縄文人は海洋民族であり、縄文土器は北海道や沖縄、さらには朝鮮半島にまで及ぶ事になります。

縄文土器と一口にいっても様々な種類があり、約80種類の縄文土器の様式があり、現れては消えるを繰り返していきました。

機能よりも芸術

縄文土器の特徴ですが、機能面よりも遊び心を重視している所でしょう。

縄文時代中期以降の土器をみれば、遊び心が非常に表れており、火焔型土器を見れば一目両全でしょう。

土器は器であり単なる入れ物に過ぎません。

入れ物としての機能を追求していけば、サラダボウルの様な形になるはずです。

縄文土器には突起がついたりしますが、その分だけ余分に粘土も使いますし、造るのにも時間が掛かります。

さらに、上部を派手にしたり、突起や腰の部分にくびれを入れたりすればバランスも悪くなります。

それらを考えれば、縄文土器は機能性よりも芸術性を重視したと言えるでしょう。

縄文土器を代表する芸術作である火焔型土器を見ると、派手さが伝わってくるはずです。

縄文時代のアクセサリーなども見つかっており、縄文人は派手なものが好きだったのではないか?とも考えらています。

日本人はミーハーだとも言われますが、原点は縄文時代にあったのかも知れません。

派手な縄文土器を見ていると、実用性よりも芸術だと言わんばかりにも見えるわけです。

縄文土器による文化交流

縄文人達は海洋民族であり、各地と交流をしていた事が明らかになっています。

縄文人の集落の中に、新しい土器を開発した人がおり、優れていれば集落の多くの人が扱う様になります。

この時点で集落の代表的な縄文土器が誕生した事になります。

交易にやってきた縄文人達が、その地の縄文土器を見て、自分の集落でも作ってみるなどし、文化交流があったのではないかとも考えられています。

縄文土器は縄文人達の他集落との文化交流としての役割もあったのではないかともされています。

縄文土器の縄模様

縄を模様をつける

縄文土器は模様がついていないものも多くありますが、縄文土器を代表するのは縄の様な模様ではないでしょうか。

この縄目こそが縄文時代の名前の由来にもなっています。

縄文土器の縄模様をつけるにあたり、縄を転がせば模様が出来るわけではありません。

縄というよりも紐に縒りかけて出来た模様となっています。

ただし、1回縒りを掛けただけでは縄文の模様にはならず、二つ折りにして、もう1回折ると漸く縄文の模様が出来るわけです。

他にも、縄の縒りを違うものに変えたりする事で、より高度な模様へと変化させているものも存在します。

さらに、模様に結び目をつけると、変わった模様があり縄文土器が美しく見えたりもします。

縄文土器には貝殻や葉っぱ、爪のようなものを押し付けて出来た模様など色々なものがあります。

縄文土器といっても、様々な工夫や技術があり縄目以外の模様もついているという事です。

縄文人は縄文土器を造るにあたって、最初に大体の形をイメージしてから作ったのではないか?とも考えられています。

尚、日本で最初に土器に縄目をつけた人が、日本で最初の芸術家だったと言えるかも知れません。

縄模様は何の意味があるのか

縄文土器を代表する縄模様ですが、一つの説として滑り止めだったのではないか?とする説があります。

表面がツルツルしていれば、滑りやすく落として壊してしまう事も考えられるわけです。

そこで考えられたのが、縄文の模様だという説となります。

ただし、全ての縄文土器に縄の模様があるわけではなく、実際には違った意味があるのではないか?とする説もあります。

他にも、縄目という性質上から、何らかの儀式で封印を意味するのではないか?とする説などがあります。

縄は蛇を表している??

縄文模様には縄と蛇が関係しているとする説があります。

縄は二本の紐が絡み合って出来るのが普通です。

こうした事から、縄は蛇が絡まって交尾をしている姿ではなかったのか?ともされています。

さらに、縄は亡くなった祖先も霊を指すとする説もあります。

土器に先祖の宿したのが縄の模様であり、土器は胎児を指し子宝を願ったとする説もあるという事です。

尚、蛇は古代エジプトでもファラオの頭の飾りの部分には蛇がついており、蛇は神聖視されやすい生き物でもあります。

縄文人も蛇の躍動感に何かしらのものを感じ、土器に蛇と同じとされる縄の模様をつけたのかも知れません。

深鉢土器

丸底深鉢土器

縄文時代の最初の頃である草創期に多く造られたのが丸底深鉢土器です。

丸底深鉢土器の名前からも分かる様に、底が丸くなっています。

丸底深鉢土器は地面に置き、そのまま煮炊きしたのではないかと考えられています。

丸底深鉢土器には縄目などもついていますが、初期のものでありシンプルな造りとなっています。

尖底土器

紀元前8000年位になると、尖底土器なるものが誕生しました。

尖底土器の形を見ると分かる様に、底が尖っており自立する事が出来ません。

尖底土器の使い方に関しては、地面に埋めて立てて煮炊きをしていたとも考えられています。

他にも、尖底土器が自立出来ない事を考えて、何かに吊るして使ったのではないかとする説もあります。

地面に炉を造ったり、石を積み上げて浮かして作ったとする説もあります。

個人的には尖底土器の尖がっている部分を活用し、炉に上手く設置できるようにしたのではないかと感じました。

因みに、炉があれば熱が逃げず少ない薪で煮炊きが出来る事になります。

上記の動画では実際に尖底土器を造ってみて実験していますが、炉を造り省エネで煮炊きが出来る様になっている事が分かるはずです。

さらに、尖底土器の細長いものは下の方まで火を通す事が出来て強火にする事が可能であり、底が浅いものは弱火で使ったとも考えられています。

平底深鉢土器

縄文時代の前期が終わる頃になると、尖底土器は造られなくなります。

代わりに平底深鉢土器が多く造られる様になりました。

尖底土器が作られなくなった理由は、食生活の多様化が原因だったのではないか?とも考えられています。

尖底土器の欠点は自立が出来ない事です。

縄文人が魚を焼いて、次に肉を焼くとしたら、土器は自立出来た方が便利なわけです。

他にも炉の進化や土器の進化説もあります。

炉の進化や食生活の多様化により、尖底土器は廃れ平底深鉢土器に変わったと考えられています。

火焔型土器の登場

縄文時代中期になると火焔型土器が登場します。

火焔型土器の代表格である新潟県の長岡市で発見された火焔型土器には、縄目が存在しません。

火焔型土器の場合は、様々な装飾や取手が注目ポイントだと言えます。

尚、火焔型土器は余りにも芸術性が高く、祭祀用か何かで日常生活では使わなかった様に思うかも知れません。

煮炊きするだけであれば、火焔型土器は非常に使いにくいと感じるのではないでしょうか。

しかし、火焔型式土器からは「焦げ」や「吹きこぼれ」などの形跡があり、実際には食べ物を貯蔵したり、煮炊きの為に使ったのではないかと考えられています。

火焔型土器は新潟などの豪雪地帯で見つかっており、冬の寒さを和らげるために作られたとする説もあります。

縄文土器には遊び心が多く含まれているとする見解もありますが、縄文時代の遊び心が爆発したのが、火焔型土器の時代だったともされています。

急須の様な形をした土器

縄文時代の後期になると、急須の様な形をした土器も出土しています。

加曽利B式土器では黒色に磨かれ光沢があり、注ぎ口までつけられています。

加曽利B式土器を見ていると、形からいって縄文土器に見えないと感じる人もいるはずです。

尚、加曽利B式土器の急須の注ぎ口の部分は天を向いており、男性器を指すのではないか?とする説もあります。

加曽利B式土器は美しく仕上げられており、精製時とも呼ばれています。

火焔型土器は遊び心が見られましたが、縄文時代後期には土器が芸術作品になったと言えるでしょう。

亀ヶ岡系土器

縄文時代の晩期に東北で多く造られたのが、亀ヶ岡系土器です。

型式名称でいえば大洞式の土器という事になります。

亀ヶ岡系の土器は形や文様は様々ですが、華麗で洗練された形と研磨が施され光沢を帯びているのが特徴です。

縄文時代中期の火焔型土器は立体的な土器でしたが、亀ヶ岡系土器では平面的な縄文土器となりました。

弥生時代の土器は装飾品の派手さはありませんが、形が整っており、轆轤を使った弥生式土器の先駆けが亀ヶ岡系土器だとも言われています。

尚、縄文時代中期を過ぎると芸術的な土器から工芸的な土器へと発展したと言えるでしょう。

土器は人類最初に化学反応を用いた道具

縄文時代には土器や土偶が造られましたが、人類が最初に化学反応を用いた道具でもあります。

セラミックは無機物を加熱処理し焼き固めた燒結体の事を指します。

土器も粘土を固めた熱加工を施しており人類最初のセラミックだとみる事が出来るはずです。

縄文土器から化学が始まったとみる事も出来ます。

縄文土器と弥生土器

縄文土器と弥生土器を比較すると、明らかに縄文土器の方が芸術点が高い事が分かるはずです。

弥生土器も装飾は施されていたりしますが、芸術点でいえば縄文土器に及ばないと言えるでしょう。

縄文土器の芸術的な造りを見ると「何の為に作ったのか」となるわけですが「造形が美しいから」などに行き着く事が多いです。

遊び心を発揮するには余裕が必要であり、弥生時代は実用性一辺倒の傾向が強く余裕のない時代だったのではないか?とも考えられます。

「土器を大量に造らなければ皆が困ってしまう」という状況であれば、芸術に拘ってなどはいられない事になります。

実際に食糧生産性において弥生時代よりも縄文時代の方が高かったのではないか?とする見解があります。

縄文時代は少ない時間で多くの食料を得ることが可能であり、労働時間が極めて短く1日4時間あれば、必要な量のカロリー摂取が出来たとも考えられているわけです。

弥生時代は水田稲作があり生産性が高いわけですが、水田稲作には膨大な作業が必要であり、1日のカロリー摂取量を得る為の労働時間を考えれば、縄文人の方が短いともされています。

穀物依存が強まれば労働力は長くなる事になります。

現在でも僅かながらに狩猟採集民族は存在しますが、農耕民に比べると労働時間は短いとされているわけです。

縄文土器を見るに、弥生時代の方が縄文時代よりも余裕が無かったとみる事も出来ます。

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