名前 | 近衛経忠(このえつねただ) |
生没年 | 1302年ー1352年 |
時代 | 南北朝時代 |
コメント | 藤氏一揆を形成しようとするも失敗 |
近衛経忠は後醍醐天皇に信任され関白となり、後に北朝でも関白に就任しました。
藤氏長者にもなっています。
後醍醐天皇が吉野で南朝を開くと、近衛経忠は忠誠心からなのか吉野に移る事になります。
後に近衛経忠は北朝に戻ろうとしたともされていますが、上手くは行かず関東の藤原姓の者達を集めて藤氏一揆の結成を企てました。
藤氏一揆は小山朝郷を坂東管領にするなどの計画でしたが、頓挫しています。
尚、近衛経忠は北畠親房に対抗する為に藤氏一揆を結成したとする説もある状態です。
近衛経忠は1352年に出家し水腫で亡くなったとも伝わっています。
近衛経忠が関白に就任
近衛経忠は後醍醐天皇に厚遇され建武の新政が始まると、関白に就任しました。
しかし、足利尊氏が中先代の乱で建武政権を離脱し、最終的に後醍醐天皇を圧倒し北朝を推戴し室町幕府を開く事になります。
北朝でも近衛経忠は重用され関白に就任しました。
後醍醐天皇は幽閉されていましたが、花山院を脱出し吉野に移動し南朝を開く事になります。
北朝からも厚遇されていた近衛経忠ですが、ここで南朝に奔る事になります。
近衛経忠が吉野に現れた時の後醍醐天皇の喜びは大きかったはずです。
ただし、北朝でも近衛経忠を厚遇しており、北朝からは恨みを買った事でしょう。
近衛経忠が北朝に戻る
後醍醐天皇が1339年に崩御すると、南朝では後村上天皇が即位しました。
この時に、南朝では居心地が悪くなっていたのか、近衛経忠は北朝に戻る事になります。
しかし、北畠親房の書状によれば近衛経忠は北朝では相手にされず、粗末な屋敷一軒と二カ所の所領を与えられただけだったとあります。
ただし、これはあくまでも北畠親房の書状の中で言われている部分であり、何処までが本当なのか分からない部分でもあります。
藤氏一揆の失敗
近衛経忠は関東の藤原姓である小田氏、小山氏、宇都宮氏、結城氏らに藤氏一揆の形勢を呼びかけました。
関東の藤原姓の者達でグループを作ろうとしたわけです
勿論、近衛経忠が藤氏一揆のリーダーとなり朝廷を主導し、坂東管領に小山朝郷を任命する計画でした。
さらには、南朝を主導する立場である北畠親房の権限を削ごうと考えたのではないかともされています。
吉野の公家が主導する事で、関東の足利勢を破ろうとしたのではないかとも考えられています。
近衛経忠による南朝にも北朝にも属さない第三王朝樹立を意図したのではないかとする説もある状態です。
しかし、北畠親房と共に小田城にいた小田治久が藤氏一揆形成に難色を示すなど上手くはいきませんでした。
近衛経忠は南朝の和平派だったのか
近衛経忠ですが、南朝の内部では和平派だったのではないかとする説があります。
南朝では早い段階で楠木正成、北畠顕家、新田義貞という名だたる将が世を去っています。
後醍醐天皇も崩御するなど、公家衆の間で動揺が走っており、その中の一人が近衛経忠だったと考えられています。
近衛経忠は南朝が室町幕府に勝つのは難しいと考え「幕府との和平」を望んだとしてもおかしくはないでしょう。
北畠親房が奥州と関東で大きな権限を与えられていたのも、吉野の公家衆には気に入らぬ事であり、北畠親房の権限を削ぐ意味でも、小山朝郷を坂東管領に任命する必要があったと推測する事が出来ます。
ただし、近衛経忠の藤氏一揆も支持を得られず、北畠親房も常陸合戦で高師冬に敗れており、共倒れの形になったとみる事も出来ます。