名前 | 狐忠(こちゅう) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国時代、三国志 |
狐忠は諸葛亮の第四次北伐で李厳の配下にいた事が分かっています。
正史三国志には狐忠は李厳の下におり参軍だったと記録されています。
西暦231年に行われた第四次北伐の時に、狐忠の上司である李厳は驃騎将軍の位にいました。
驃騎将軍の上には大将軍の役職しかなく、李厳は実質的に蜀軍ナンバー2の役職にいたとも言えます。
それを考えると、狐忠は蜀軍で2番目に偉い李厳の下で働いていた事になるでしょう。
第四次北伐では長雨が続いた事で、李厳は兵站を繋げる事が出来ず、諸葛亮に使者を送った話があります。
この使者が狐忠と成潘であり、諸葛亮は撤退を決断しました。
しかし、この後に李厳が嘘を付きますが、狐忠が諫めた話があります。
李厳の使者となる
第四次北伐では諸葛亮は祁山方面に進出し、司馬懿、郭淮、張郃らと対峙しました。
この時に狐忠は李厳の下で漢中におり、諸葛亮の軍に兵糧を送るのが任務だったわけです。
蜀軍ナンバー2で驃騎将軍の李厳が食糧輸送係と聞くと地味に思うかも知れません。
しかし、漢中と祁山に向かった諸葛亮の軍は300キロも離れており、馬車限界とされる200キロを多いに超え難しい任務でした。
諸葛亮は木牛流馬などを開発し兵站を繋げようとした話もありますが、現実的に考えると、不可能にも近い事を李厳に任せていた事になるでしょう。
諸葛亮は魏軍と膠着状態となり、長雨が降った事もあり、李厳は兵站を繋げられなくなると、狐忠と成潘を諸葛亮の元に派遣します。
正史三国志に狐忠と成潘の記録が残っており、次の様な話となっています。
「長雨が降り兵站を繋げる事が困難となり、李平(李厳)は諸葛亮に狐忠と成潘を派遣した。
狐忠と成潘は諸葛亮に状況を伝えると、諸葛亮は納得して軍を撤退させた」
諸葛亮は狐忠と成潘の言葉に納得して軍を返した事になります。
これで撤退しただけであれば、問題なかったわけですが、ここで李厳が問題行動を起こします。
李厳を諫める
李厳は諸葛亮が撤退を始めると驚いた振りをして「兵糧は十分に足りているはずなのに、なぜ撤退したのだろう」と述べます。
さらに、李厳は主君の劉禅にデタラメな報告をし、自らの任務は上手くこなしていたかの様にアピールしたわけです。
諸葛亮は後に李厳の発行した文書などを調べ上げて、嘘を付きとめる事となります。
この時に李厳は沮や漳の地に向かい、諸葛亮の軍が戻って来ると江陽に帰ろうとしたとあります。
李厳としては諸葛亮に遭えば嘘がバレる事となり、逃げたかったのでしょう。
正史三国志には次の記述が存在します。
「李厳は江陽に帰ろうとしたが、参軍の狐忠が諫言したので思いとどまった」
李厳は逃げたいと考えていましたが、狐忠や李厳の側近らは、李厳の嘘に気が付いていたのでしょう。
狐忠は「李厳がこれ以上逃げても状況を悪くするだけ」と判断し、諫めた様にも感じました。
これを考えると狐忠には良心があると言えるはずです。
諸葛亮は李厳の嘘を付きとめて本人に突きつけると、李厳は弁明し謝罪した話があります。
諸葛亮は李厳を庶民に落し処罰しました。
この時に狐忠は李厳を諫言したわけであり、恩賞を賜わった可能性もあるでしょう。
ただし、この後に狐忠の記録はなく、狐忠がどの様になったのかは不明です。
李厳の子には李豊がおり、李豊に仕えた可能性もあるのかも知れません。
狐忠の名は正史三国志に二回登場するのみとなっています。