三国志

劉禅は暗君ではなかった!?

2022年12月11日

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宮下悠史

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名前劉禅(りゅうぜん) 字:公嗣 幼名:阿斗
生没年207年-271年
時代後漢末期、三国時代、三国志
一族父親:劉備 母親:甘夫人 弟:劉永、劉理 后:敬哀皇后、張皇后
子:劉璿、劉瑤、劉琮、劉瓚、劉諶、劉恂、劉璩 
年表223年 蜀の皇帝に即位
263年 蜀の滅亡、安楽公となる
画像©コーエーテクモゲームス

劉禅は劉備甘夫人の間に出来た子であり、蜀の第二代皇帝でもあります。

劉禅の幼名は阿斗であり「無能の代名詞」になっている部分もあります。

三国志演義を見ると常に遊楽を楽しんでおり、宦官黄皓を近辺に起き諸葛亮や、姜維の北伐の足を引っ張った様な感じで描かれています。

しかし、実際の劉禅は有能だったとは言いませんが、政治は諸葛亮や蔣琬などに任せており、足を引っ張った様な記述はありません。

それどころか諸葛亮の死で涙を流し、劉禅は北伐を成し遂げようとした「タカ派」だったのではないか?と感じる部分もある程です。

劉禅が軟弱な人物として扱われる原因の一つが、殺生を好まない事や、蜀滅亡後の司馬昭との会話にあると感じています。

司馬昭との会話を見ると、劉禅は無能だと思うかも知れませんが、劉禅の行動は自分のみならず蜀の旧臣を守るための行動だったとは考えられないでしょうか。

劉禅を見ていると「人を疑うという事を知らないのではないか?」と思う部分も感じました。

尚、暗君には二つのタイプがおり「積極的に行動はするが国を乱す行動型」と「遊んでばかりいて何もしない無能型」がいるとされています。

一般的には前者は王莽の様な君主を指し、後者は劉禅の様な君主を指す場合が多いです。

今回は無能の代名詞になってしまった劉禅を解説しますが、見方によっては、それほど暗君といった要素は少ない様にも見受けられます。

劉禅を見ていると決して、を滅ぼした胡亥の様な君主ではなかったはずです。

劉禅の誕生

正史三国志の記述を見ると、劉禅が生まれたのは西暦207年となります。

西暦207年は劉表が亡くなる前年であり、劉備は新野にいた事から、劉禅は荊州の出身という事になるでしょう。

ただし、魏略に別説が書かれており、劉備が小沛にいた頃に既に劉禅は5,6歳だったと書かれています。

魏略によれば劉備が曹操に小沛を急襲された時に、劉備は家族を捨てて逃走し、劉禅と離れ離れになったとあります。

劉禅は人について漢中に入りますが、売り飛ばされてしまい劉括が買い取りました。

劉備は益州を取りますが、劉禅は簡という人物を介して劉備を知ります。

劉禅は父親の字が玄徳だと覚えていました。

簡は劉禅が劉備の子だと確信し、漢中の張魯に話をすると、張魯は劉禅を劉備の元に送り届けたわけです。

劉備は劉禅を太子としています。

魏略には正史三国志とは違った劉禅が描かれています。

しかし、正史三国志の記述を見ると、魏略の話は雲を掴む様な話であり、裴松之は魏略の妄説に過ぎないと一刀両断している状態です。

魏略の話を主軸に置くと長坂の戦いで、阿斗を守った趙雲の活躍もなくなってしまいます。

個人的には、正史三国志の207年生まれというのは、正しい様に感じています。

それでも、アッカドサルゴンの様な世界中にある捨て子伝説が、劉禅にもあるというのは驚きです。

尚、正史三国志の記述を見ると、劉禅が生まれる前に劉備には劉封という養子がいました。

劉禅が生まれなければ、劉封が劉備の後継者になっていたのでしょう。

これが後に悲劇を生む事となります。

趙雲に救われる

208年に劉表が亡くなると、曹操は南下を始め劉備は物資が豊富にある江陵を抑える為に南下しました。

劉備の軍は民衆も引き連れての移動であり、曹操の軍に直ぐに追いつかれてしまい、劉備自身も家族も家来も捨てて逃走しています。

こうした中で、徐庶が離脱するなど、劉備はかなり酷い状態にまで追い詰められる事になります。

この時の劉禅(阿斗)はまだ1歳の赤ん坊であり、自分で動いて逃げる事が出来る様な年齢ではなかったわけです。

劉禅の危機を救ったのが趙雲であり、劉禅を保護し劉備の所まで逃げ切る事に成功しました。

劉備は魯粛と出会い赤壁の戦いでは、呉の大都督周瑜の活躍もあり、曹操の軍を退けています。

この後に、孫権の妹である孫尚香が劉備の夫人となりますが、ここで劉禅誘拐未遂事件が起きています。

ここでは趙雲や張飛の活躍があり、劉禅は呉に連れ去られずに済んだわけです。

この時の劉禅は幼く、どこまで記憶があったのかは不明ですが、趙雲には助けられたというべきでしょう。

劉禅と劉封

劉備は劉璋から益州を奪い、さらに北上し法正黄権の戦略により、定軍山の戦いで勝利を収め漢中の地を支配しました。

劉備は漢中王に即位すると劉禅を王太子としています。

劉備は養子の劉封ではなく、実子の劉禅を太子として定めました。

この時に劉備は劉禅に「諸葛亮や有能な臣下に学び善事を行い学問に励むように」と述べています。

この辺りは、劉備なりの親心が多く含んでいるのでしょう。

この後に、関羽は北上しますが、樊城の戦いで破れ、孫権にも裏切られてしまい呂蒙の策により荊州を失いました。

関羽は劉封や孟達に援軍要請をしますが、劉封は断った話があり、その行為が問題となります。

劉備は劉封を処刑しました。

劉備が劉封を処刑した理由ですが、諸葛亮の進言もあったとされていますが、内乱を避ける為だとも考えられています。

この時の劉備は60歳を超えており、当時の寿命で考えれば、いつ亡くなってもおかしくない様な年齢です。

劉備は自分(劉備)なら劉封を制御できるが、劉禅には扱える人材ではないと考え、処刑してしまった説となります。

劉封は名家の出身でもありましたし、劉禅の時代に力を持てあましてしまい、国がまとまらないと考えたともされています。

他にも、当時の劉備政権は荊州と益州の出身者で大半が占められており、派閥抗争の結果として劉封が処刑されたとする説もあります。

この時の劉禅は成人もしていない様な年齢でしたが、大人たちは権力闘争を繰り広げていたとも考える事にもなるでしょう。

劉封が処刑された事を知った劉禅が、どの様に思ったのかは不明です。

尚、劉禅は劉備が皇帝に即位すると皇太子に指名されました。

黄元の乱

劉備は呉に侵攻し夷陵の戦いが勃発しますが、大敗を喫し多くの諸将が命を落しました。

劉備は永安の白帝城に逃亡し、そこから体調を崩して行く事になります。

劉備は自分の寿命が残りあと僅かだと悟り、諸葛亮や李厳を呼び寄せました。

この時に劉禅は成都に残っており、留守番役となっています。

蜀の黄元諸葛亮と仲が悪く、諸葛亮が政権運営をしたら、何をされるか分からないと考えたのか反旗を翻しました。

成都にいる劉禅は黄元の乱に、対処しなくてはならなくなったわけです。

黄元は成都に向かって進軍を始めており「劉禅であれば勝てる」と考えていたのでしょう。

群臣たちの間でも黄元を脅威に感じていた話がありますが、楊洪は「黄元に大した事は出来ない」と意見を述べ策を出します。

劉禅は楊洪の策を採用し、陳曶と鄭綽に兵を率いさせて、黄元を迎撃しました。

陳曶、鄭綽は劉禅の期待に応え黄元の軍を打ち破り、黄元は捕虜として成都に送られ斬首される事になります。

黄元を倒す策を考案したのは楊洪でしたが、劉禅は見事な判断で乱を鎮圧したと言えるでしょう。

劉備の言葉

成都が安定を取り戻すと、劉禅は劉備がいる永安に向かいました。

劉備は劉禅と劉永に向かって、遺言を残す事となります。

その中で劉備は劉禅と劉永の兄弟のことだけが心配だと述べ、劉備は射援が見舞いに来た時に「諸葛亮からは劉禅が予想以上に成長し驚いている」と聞かされていると述べます。

さらに、劉備は劉禅らに努力する様に言い聞かせ、次の様に言い聞かせました。

※諸葛亮集より

悪事はたとえ小さい事であってもしてはならない。

善事は例え小さな事でも、怠ってはならない。

劉備は劉禅、劉永の兄弟に人としての道を教えたとも言えるでしょう。

さらに「諸葛亮を父親だと思って仕え、大臣達が丞相(諸葛亮)に協力する様に仕向けよ」と述べています。

劉備は「悪事はたとえ小さな事であってもしてはならない」と伝えていますが、実際に劉禅を見るとかなり邪気がない人物だと感じます。

勿論、見方を変えれば「何もしていないだけでは?」と見てなくもありません。

しかし、劉禅は率先して悪事を行う様な人ではないと感じています。

劉備が崩御すると、劉禅は自ら祭祀を行うと宣言し、政務は全て諸葛亮に任せました。

劉禅が即位した時の蜀は、夷陵の戦いで多くの将軍が亡くなり、南方では反乱が起きるなどもありましたが、諸葛亮は短期間で蜀を復興させる事に成功しています。

諸葛亮が短期間で蜀を復活させた手腕ばかりが注目されがちですが、劉備は劉禅に「諸葛亮が仕事をしやすい環境を作れ」とも述べており、劉禅の協力は大きかった様に思います。

劉禅は劉備の遺言に対し、しっかりと守った様にも感じました。

尚、正史三国志の後主伝には、劉禅が即位した時の年齢が17歳だと書かれています。

この事から逆算して、劉禅に生まれた年が207年だと分かるわけです。

皇帝に即位した劉禅は張飛の娘である張氏を皇后に立てました。

張氏は後に、敬哀皇后張氏と呼ばれる事となります。

諸葛亮の時代

劉禅が即位すると朱褒、高定、雍闓らが反旗を翻しました。

雍闓により張裔が捕らえられ呉に送られる事件まであったわけです。

しかし、諸葛亮が全て反乱を鎮圧し、さらには孟獲などの南蛮征伐も成し遂げました。

諸葛亮は短期間で国を立て直し、魏では曹丕が226年に崩御し曹叡が即位するなどの代替わりがあり、北伐への機運が高まります。

諸葛亮は227年に北伐を決断し、劉禅には出師の表を提出し、北伐の意義を説いています。

さらに、諸葛亮は劉禅に郭攸之、費禕、董允、蔣琬、向寵などを頼るべき人材として挙げています。

蜀の四相と呼ばれた諸葛亮が北伐を行い、費禕が北伐をサポートし、蔣琬が成都で政治を行い、董允が劉禅を教育する体制が出来上がりました。

董允は劉禅に対し、かなりきつく諫言した話が残っています。

劉禅が後宮の女性を増やしたいと董允に述べ、断られた逸話もあります。

尚、三国志演義だと諸葛亮が北伐を行っている最中に、讒言により劉禅が諸葛亮を呼び寄せ、結果的に魏を助けてしまった話がありますが、その様な話は史実としては確認する事が出来ません。

実際の劉禅は諸葛亮の北伐に対し、大人しくしており迷惑はかけなかったというべきでしょう。

尚、西暦227年から諸葛亮の第一次北伐が始まったのであり、この年が劉禅と諸葛亮が会った最後の年となったはずです。

諸葛亮は北伐を何度も行いますが、結局は目的は果たされる事無く、司馬懿と五丈原の戦いで対峙していた時に没しました。

この時に蜀では魏延と楊儀の対立もあり、魏延が命を落す事態となりましたが、蜀軍は無事に撤退を完了させています。

諸葛亮が亡くなった時に、多くの者が涙を流し悲しみに暮れましたが、李邈だけは「諸葛亮の死は喜ばしい事だ」と述べました。

劉禅は殺生は好まない人ですが、この時ばかりは李邈に激怒し処刑しています。

孫策が亡くなった時に孫権が泣き続けた話がありました。

泣いてばかりいる孫権を張昭が諫めた話がありますが、李邈も同じ様に劉禅を厳しくであっても諫めたのであれば、決して処刑はされなかったでしょう。

死者を侮辱するというのは、劉禅にとっては悪であり李邈を許さなかった様に感じています。

尚、西暦236年に氐族の王である苻健と民400戸が蜀漢の広都に移住した話があります。

この時に移住した苻氏の子孫が、五胡十六国の前秦の苻堅だとも考えられています。

蔣琬の時代

諸葛亮が亡くなると、諸葛亮の遺言にあったように蔣琬が政務を執る事になります。

蔣琬も諸葛亮と同じように、北伐を志しており劉禅も認めた事になるでしょう。

蔣琬は諸葛亮の北伐の失敗は、陸上からの輸送にあると考えていました。

諸葛亮は木牛流馬を使って話もありますが、結局は兵站を繋げる事が出来ず、撤退する事が多かったからです。

蔣琬は漢水から船で移動し、上庸を急襲しようと考案します。

しかし、劉禅がいる成都では「船を使えば失敗した場合に、撤退が困難になるのではないか?」とする意見が多く噴出しました。

実際に夷陵の戦いでも劉備は船で軍を進めましたが、撤退が困難であり大打撃を受けたと言えます。

蜀の中では夷陵の戦いの大敗北により、船での移動に辟易している部分もあったのでしょう。

費禕や姜維は水軍を使う危険性を指摘し、漢中まで出向き蔣琬を諫めました。

蔣琬は病に掛かってしまい進言もあり、劉禅は費禕を大将軍に任じ姜維を涼州刺史に任命しています。

この頃に、魏の曹爽や夏侯玄が蜀に遠征を仕掛け、興勢の役と呼ばれる戦闘がありましたが、蜀軍は奮戦し魏軍を撃退しています。

蔣琬は西暦246年に亡くなっており、同じ年に劉禅の教育係とも呼べる董允も亡くなってしまいました。

蜀の四相の中で未だに存命なのは、費禕だけになったわけです。

尚、董允は余りにも劉禅に厳し過ぎた事で、劉禅は董允が亡くなった後に「董允は自分の事を嫌っていたのではないか?」と考えたとする話があります。

劉禅の親政

蔣琬が亡くなると、費禕が政務を執る時代がやってきたと思うかも知れません。

しかし、魏略には次の記述が存在します。

※魏略より

蔣琬が亡くなると劉禅が自ら国事を見る事になった。

この記述を見るに、劉禅の親政が始まったと見る事も出来るはずです。

劉禅もお目付け役である董允が亡くなり、費禕の時代から黄皓ら宦官が幅を利かせる様になったと思うかも知れません。

しかし、宦官というのは皇帝の世話係が通常業務であり、劉禅の意見が政治に反映され始めたのではないか?とする意見もあります。

劉禅に関しても、この時点で40歳程になっており、既に政治を行う事も可能な年齢に達しています。

政務を執る費禕は北伐反対派であり、魏を討とうとする考えは殆どありませんでした。

費禕は益州派閥の筆頭でもあり、益州の地盤を持つ彼らは北伐を行えば、損害だけを受ける可能性もありリスクが大きいと考えていたとされます。

そうした観点から、費禕も北伐を行いたくなかったわけです。

しかし、費禕の時代に姜維が録尚書事になっている事実もあります。

録尚書事は費禕に次ぐ役職であり、姜維はバリバリの北伐を目指すタカ派です。

費禕は北伐反対派にも関わらず、同格の人物としてタカ派の姜維が就任した事になります。

姜維の録尚書事就任に関しては、北伐を志す劉禅の意見が入っていたのではないか?とする考えもあります。

ただし、姜維は魏の郭淮や夏侯覇を破ったり、反乱を討伐した実績もあり、功績から考え録尚書事に任命しない訳には行かなかったとする話もあります。

それでも、北伐反対派の費禕が劉禅の意向か、何らかの理由で姜維を高位に就けない訳には行かなかったのでしょう。

尚、249年に魏では高平陵の変があり、政務の中心にいた曹爽、曹羲らが司馬懿のクーデターにより命を落しました。

これにより、魏の皇族の力が弱まり、司馬懿の一族に乗っ取られた事になります。

高平陵の変により、魏の皇族である夏侯覇が蜀に亡命してきました。

因みに、劉禅は政務を諸葛亮や蔣琬に丸投げしたにも関わらず、反乱も起こされてはおらず、この辺りは魏と蜀の違いと言えるでしょう。

魏では皇帝の曹芳がいましたが、傀儡でしかなくなります。

蜀の国内でも魏の政変につけ込んで、出兵するべきだとする意見も出たはずです。

蜀の国内でも北伐推進派は決して少なくなく、費禕も漢中に駐屯し大将軍府を開き小規模ながら北伐を行っています。

費禕としてみれば、国内の分裂を防ぎたかったのでしょう。

しかし、費禕は宴席で魏の降将である郭循に刺され命を落しました。

これにより蜀の四相は全員命を落し、費禕の死を聞いた劉禅も不安に駆られたのかも知れません。

費禕の死は暗殺であり、劉禅も驚いた事でしょう。

陳祗の時代

費禕が亡くなると陳祗が政務を執る事となります。

陳祗は宦官にも優しかった話があり、殺生を嫌い恩赦を好む劉禅好みの人物だったのでしょう。

さらに言えば、陳祗は北伐推進派でもあり、劉禅も北伐に賛成だったのではないか?とも考えられています。

ただし、陳寿は陳祗を低く評価しており「皇帝のご機嫌取りとなり黄皓を採用した」と述べました。

これには理由があるとされ、蜀の北伐反対派に譙周がいますが、譙周の弟子にあたるのが陳寿です。

陳寿は立場上の問題で自分の師であり、譙周と対立関係にある陳祗の事を悪く書いたのではないか?とする説もあります。

尚、宦官である黄皓は本来は皇帝の身の回りの世話をするのが仕事であり、黄皓の意見は劉禅の意見だとも考えられます。

陳祗が政務を執る頃には、劉禅も積極的に政治に口出ししたのではないか?ともされています。

北伐積極派の陳祗が政務を執り、前線で指揮を振るう姜維のコンビは機能し、魏の徐質を討ち取り王経を大破するなど躍進しました。

劉禅は姜維を大将軍に任命しています。

ただし、256年の段谷の戦いでは姜維と胡済が上手く連携出来ず、魏の鄧艾に大敗北を喫しています。

この戦いで蜀軍は多くの将や万を超す兵を失っており、蜀にとっては大きな痛手だったはずです。

劉禅にしても姜維が戦いに勝っていたからこそ、北伐を許す事が出来ましたが、段谷の戦いにより蜀の方針は大きく変わる事となります

蜀漢の内部では、北伐反対派の意見が高まり譙周は仇国論を書いています。

北伐に関しては当初から難しいとする意見も出ており、姜維と共に戦った将軍である廖化や張翼なども「無謀」と述べた事にあります。

さらに、258年になると蜀の蜀の北伐推進派のトップとも言える陳祗が没しました。

劉禅は陳祗が亡くなると涙を流し、陳祗の功績を褒め称え忠侯の諡が与えられています。

劉禅が陳祗を寵愛したのは相性がよかっただけではなく、政治に関する劉禅の方針と合致していたとも考えられています。

尚、258年は呉でも既に孫権が亡くなっており、後継者の孫亮が孫綝により廃位させられ、新たに孫休が即位した年でもあります。

魏では曹髦の時代となっていましたが、権力者の司馬懿や司馬師は既にこの世になく司馬昭が実権を握っていました。

ここまで来ると蜀の滅亡まで数年であり、三国志も終わりに近づいたという気がしないでもありません。

北伐反対派の台頭

陳祗が亡くなると、姜維は後ろ盾を失ってしまい北伐が出来ない状態となります。

さらに言えば、段谷の戦いで多くの将兵を失っており、蜀の国力では北伐を行うのは困難だったのでしょう。

尚、後主伝の記述によると、陳祗が亡くなった後から「黄皓が初めて権力を握った」と書かれています。

一般的には黄皓が権力を握り秦の趙高の様に、気に入らない人間を左遷したり、都合の悪い上奏文を劉禅に通さず握り潰していたなどと考えられがちです。

しかし、実際には諸葛瞻、董厥、樊建、黄皓らが政治を主導していたとされています。

それでも、諸葛瞻らは姜維の北伐には反対であり、姜維の軍権は取り上げられてしまいました。

劉禅も北伐を成し遂げたいと考えていたのかも知れませんが、姜維をフォローする事は出来ない状態になってしまったのでしょう。

姜維は成都に戻る事になります。

尚、259年に劉禅は劉諶を北地王とし、劉恂を新興王、劉虔を上党王としました。

さらに、260年には劉備を補佐した関羽張飛馬超龐統黄忠号を追贈し、261年には趙雲にも号が送られ、恩赦も出しています。

劉禅が自分の子を王としたり、劉備時代の功臣に号を贈る行為は、北伐への機運を高めようとしたのではないかとも考えられています。

しかし、段谷の戦いでの大敗が、蜀にとってはトラウマだったのか、北伐は封印され続ける事となります。

因みに、姜維は北伐に失敗したわけですが、劉禅は姜維を罰する事無く重用を続けており、この辺りが劉禅らしさとも言えるでしょう。

尚、蜀漢内で北伐反対派が盛り上がったのは、呉が二宮の変で多くの重臣や官僚らが世を去っており、弱体化した呉を攻めた方がよいとする意見が主流になったからだともされています。

しかし、蜀の国は魏を滅ぼし、漢王朝を復興させる事を掲げて誕生した国でもあり、ジレンマはあったはずです。

漢中への援軍が遅れる

諸葛瞻や董厥が黄皓と共に劉禅に姜維を讒言した事で、姜維は成都を離れ漢中に向かいました。

姜維は涼州出身で派閥の力を使う事も殆ど出来ず、後ろ盾は劉禅しかおらず、身の危険を感じて漢中に向かったとも言われています。

263年になると魏で権力を握っていた司馬昭は、鍾会と鄧艾に兵を与え蜀への侵攻を決断しました。

漢中の姜維は魏が攻めて来る情報をキャッチすると、劉禅に援軍要請した話があります。

三國志演義では、黄皓が巫女に占いを行わせ「魏軍は来ない」とする結果を信じ、姜維に援軍を派遣しなかったとされています。

漢中に援軍を送らなかったのは黄皓に責任があるとされがちですが、実際には諸葛瞻、董厥ら蜀の重臣が合議した結果として、援軍を派遣しなかったのではないか?とも考えられています。

段谷の戦いで敗れた以降は、蜀の国は疲弊しており、援軍を出せば大きな戦費が掛かると考え、経費削減の為に漢中に援軍を派遣しなかったとする説です。

過去に王平が興勢の役で魏の10万を超える大軍を3万で撃破した事があり、同じ事を姜維がやってくれるのではないか?と期待したともされています。

しかし、漢中が抜かれてしまい蜀将の中にも魏に寝返る者が出た事から、劉禅ら蜀の首脳部は遅れて張翼や董厥らを援軍として派遣しました。

劉禅が援軍を送らなかった事に対し非難が集まりがちではありますが、実際に姜維、廖化、張翼、董厥らは剣閣に籠り奮戦し魏軍を寄せ付けなかった事実もあります。

剣閣の戦いでは姜維率いる蜀軍防衛隊が奮戦した事で、鍾会は撤退を考えた程であり、全くの見当違いな事でもなかった様に思います。

ただし、道なき道を迂回した鄧艾の軍に対処する事は出来なかったわけです。

諸葛瞻の敗北

突如、蜀の中央部に現れた鄧艾軍に対応する為に、劉禅は諸葛瞻に軍を率いて戦う様に命じました。

この時の劉禅は可能な限りのほぼ全兵力を諸葛瞻に預け、鄧艾と戦わせたのでしょう。

決して劉禅も何もせずに降伏したわけではなく、諸葛瞻に蜀の命運の全てを預けた様に感じています。

しかし、諸葛瞻は孫権における周瑜や陸遜にははれず、綿竹の戦いで鄧艾に敗れました。

綿竹の戦いで敗れた諸葛瞻、諸葛尚の親子は命を落しています。

諸葛瞻や諸葛尚が戦いで亡くなっている事から、最後まで逃げる事無く奮戦し、戦いには敗れまmしたが劉禅の為に命を捧げたとも言えるでしょう。

ここにおいて、劉禅は鄧艾に対し「降伏、玉砕、逃亡」の選択を強いられる事となります。

尚、劉禅が対呉戦線に投入されていた羅憲の軍まで逃げて、交戦を続ける方法もありましたが、劉禅は採用しませんでした。

因みに、羅憲は蜀漢の滅亡時に侵入してきた呉の歩協、陸抗らの軍を、魏の胡烈らの援軍と共に破り呉軍を撤退に追い込んでいます。

蜀の滅亡

鄧艾は成都に向かって進軍してきましたが、劉禅は譙周の献策により降伏を決意しました。

この時に、劉禅の五男である劉諶は妻子を殺害し、劉備の廟前で自害しています。

劉諶の行動は後に称えられる事となります。

劉禅は張紹と鄧良を使者として派遣し、雒県にいた鄧艾に降伏すると伝えました。

鄧艾は劉禅が降伏すると知るや多いに喜び、返書を張紹、鄧良に持たせ帰還させています。

鄧艾がやってくると、劉禅は棺を持ち自らを縛って出向く事となります。

鄧艾は劉禅の縄を解き、持っていた棺を焼き捨てました。

鄧艾は劉禅に害を及ぼさない姿勢を示したと言えるでしょう。

劉禅が降伏した事で、蜀は滅亡するに至りました。

蜀が滅んだ時の劉禅がどの様な心境だったのかは不明です。

尚、この時に蜀の人口は94万人、戸数は28万だった話があります。

さらに、兵士は10万2千であり、蜀の兵士の数は人口の10パーセントを超えており、蜀の実態は超軍事国家だったとも言えます。

劉禅のその後

洛陽に護送される

鄧艾は将軍の独断権を発揮し、劉禅を驃騎将軍に任命し、元の宮殿に住まわせ、鄧艾も宮殿で生活しました。

この時の鄧艾は蜀の王になったかの様な振る舞いだったのでしょう。

鄧艾の行動は問題視され逮捕される事となり、最終的には蜀漢滅亡の最大の功労者である鄧艾も命を落しました。

劉禅は降伏しましたが、姜維は蜀の復興を諦めておらず、鍾会と手を組み謀反を起こしています。

しかし、鍾会や姜維の謀反は計画性に欠けるものであり、姜維も鍾会も命を落しました。

この時の混乱で劉禅の長子で皇太子だった劉璿が魏軍により殺害されています。

劉禅は洛陽に護送されました。

郤正は降伏してからの身の振り方を劉禅に教え、劉禅は「郤正を評価するのが遅すぎた」と述べた話があります。

ここから先は、郤正が劉禅の腹心となります。

安楽公

司馬昭は劉禅を幽州の安楽県に封じ、劉禅は安楽公と呼ばれる事となります。

幽州は劉備の出身地であり、安楽公という名が劉禅のイメージを作ったかの様に感じます。

魏の最高権力者である司馬昭は宴席に劉禅を招くと、蜀の音楽を流しました。

劉禅の旧臣たちは蜀を思い出し涙を流しますが、劉禅だけは機嫌よく笑い平然としていたわけです。

これを見た司馬昭は賈充に向かって、劉禅に対し次の様に述べています。

※漢晋春秋より

人間の感情はここまで捨て去る事が出来るものなのか。

これでは諸葛亮が生きていたとしても、この人(劉禅)を補佐し天下を取るなど夢のまた夢である。

ましてや姜維が補佐出来るはずもない。

司馬昭は劉禅の態度に驚いただけではなく、呆れてしまったのでしょう。

司馬昭の態度を見るに、蜀の音楽を流したのは、全員を涙で濡らしてやろうと考えていたとも取れる行動であり、拍子抜けした部分もあったのでしょう。

司馬昭の話を聞いた賈充は「劉禅がこうでなければ、殿は蜀を併合できたでしょうか」と述べています。

さらに、司馬昭は劉禅に「蜀の地を思い出す事はありますかな」と問うと、劉禅は「ここは楽しくて思い出す事はありません」と返しています。

これを聞いて驚いたのが郤正であり、郤正は劉禅に「次に聞かれた時は、1日として蜀を思い出さぬ事はありません」と答え、目をつぶる様に告げました。

司馬昭は劉禅に会った時に再び「蜀の地を思い出す事はありますか」と訪ね、劉禅は郤正に言われた言葉をそのまま述べます。

しかし、司馬昭は何故か郤正の言葉を知っており「郤正の言葉にそっくりだ」と述べます。

劉禅は驚き「仰る通りでございます」と答え、場にいた者たちは皆が笑ったとあります。

上記の逸話は正史三国志の注釈・漢晋春秋の話ですが、何処まで本当なのかは不明です。

それでも、この逸話が広く知れ渡った事で、劉禅及び阿斗の名は暗君や無能の代名詞となった様に感じています。

ただし、劉禅はわざと馬鹿な振りをして、この危機を乗り越えたとする説もあります。

過去に劉備と曹操が会食した時に、曹操は「天下の英雄は私と君だけだ」と述べた時に、劉備は驚いて箸を落しますが、その時に雷が落ち、劉備は「雷に驚いて箸を落した」と述べています。

劉備は野望を隠す為に述べたわけですが、劉禅も同じ様に自分の身の安全を確保する為に、暗愚な振りをした説です。

ここで劉禅が「蜀が恋しい」と述べれば司馬昭の警戒を招き、蜀の旧臣も劉禅と結託するとも考えられ、旧家臣団を死地に追い込んだ可能性もあります。

真意は不明ですが、劉禅が機転を利かせて馬鹿な振りをしたとする説もあるという事です。

歴史を見ると楚の荘王や斉の威王など、わざと暗愚な振りをしていた君主もおり、劉禅も見習った可能性も残っている様に感じました。

尚、司馬昭は蜀を滅ぼした2年後である西暦265年に亡くなっています。

それを考えると、司馬昭は劉禅との逸話の後に体調を崩し亡くなってしまった可能性もあるでしょう。

劉禅の最期

魏の皇帝は曹奐でしたが、曹奐は禅譲により司馬炎に皇帝の位を譲りました。

これにより蜀の宿敵であった魏は呆気なく滅びたわけです。

魏は265年に滅びますが、この時に劉禅はまだ生きており、ライバル国であった魏の滅亡をどの様に感じたのかは不明です。

尚、劉禅は安楽公の後継者を劉恂としました。

劉恂は六男であり、長幼の序で考えれば次男の劉瑤が妥当であり、劉恂の人間性も問題視されており、劉禅は後継者選びで文立に諫められています。

しかし、ここでの劉禅は自分の意思を貫き、劉恂を後継者としました。

因みに、劉恂は永嘉の乱の時に巻き込まれて命を落す事となります。

それでも、劉禅は場の空気を読むのか、人の意見をよく聞く人物であり、初めて自分の我を通したのが後継者選びだったのかも知れません。

劉禅は西暦271年に65歳で死去しました。

280年に呉の孫晧が西晋に降伏し、三国志の世界は終焉を迎えますが、劉禅は三国志の終わりを見ずに世を去った事になるでしょう。

劉禅の最期がどの様なものだったのかは不明です。

劉禅の評価

劉禅は古来より暗君とされており、かなり評価が低いと言えます。

正史三国志を記した陳寿は劉禅の事を「賢明な宰相がいた時は道理に従った君主だったが、宦官に惑わされてからは暗愚な君主だった」と記述されています。

劉禅は疑う事を知らない様な人物であり、諸葛亮や蔣琬に政治を丸投げしていた時代は、邪魔をするわけでもなく良き君主だったと言えるでしょう。

治世の前半で考えれば管仲を得た斉の桓公や晏嬰を得た斉の景公にも匹敵する様な君主だったとも言えるはずです。

しかし、最後は国を滅ぼしている事から、暗君にされてしまったのでしょう。

個人的には劉禅は殺生を嫌い「恩赦大好き人間」とも見える部分も多々ある事から、道徳的な人ではあったのかも知れません。

それでも、劉禅は最後まで部下に裏切られてはおらず、不思議な魅力もあった様に感じています。

諸葛亮が北伐を成功させ天下統一を果たしていたならば、歴史に残る名君として名を輝かせた事でしょう。

劉禅が長生きし、蜀の賢相らが先に亡くなってしまったのも、暗君にされてしまった部分もある様に思います。

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宮下悠史

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