室町時代

高師秋はなぜ無能呼ばわりされてしまうのか

2025年7月31日

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宮下悠史

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名前高師秋
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:高師行 配偶者:上杉憲房の娘 兄弟:師冬、三戸師澄
子:師親、師有、師義、四郎
コメント観応の擾乱で足利直義に味方した

高師秋は南北朝時代の武将であり、室町幕府に属しました。

伊勢守護に補任された事もありますが、結果を出す事は出来ませんでした。

さらに、行政面でも力を発揮した記録がなく、和歌などの文化面でも実績を残していません。

こうした事情から高師秋は「無能」の烙印を押される事もあります。

亀田俊和氏は書籍の中で「師秋に関しては、残念ながら無能であったと評価せざるを得ない」と書き示しました。

これらを考慮すると高師秋は余ほどの無能に思うかも知れませんが、観応の擾乱で足利直義に味方し一族の高師直や高師泰よりも長生きした事が分かっています。

これらを考慮すると「運」に恵まれた部分も多々あったのでしょう。

関東廂番

建武の新政が始まると、関東には足利直義が中心となり成良親王を補佐する鎌倉将軍府が設置されました。

鎌倉将軍府には関東廂番があり、その六番には吉良満義や上杉重能らと共に、高師秋の名前もあります。

高師秋は高氏の一族であるにも関わらず、足利直義に接近しており、この頃から高師秋と足利直義の人間関係が始まったともされています。

ただし、鎌倉将軍府は北条時行による中先代の乱で短期間で崩壊しました。

足利尊氏が中先代の乱を鎮圧し、各地を転戦し室町幕府を開き、後醍醐天皇が吉野で南朝を開いた事で南北朝時代が始まる事になります。

高師秋は当然ながら室町幕府に所属する武将であり、北朝を支持しました。

高師秋の愛人

高師秋の妻は上杉憲房の娘でしたが、太平記によると高師秋には愛人がいたとも言われています。

公家の菊亭実尹の妻とも浮気な御妻とも呼ばれている女性です。

高師秋は畠山高国に代わり伊勢守護に補任され、現地に行こうとしますが、浮気な御妻も連れて行こうとしました。

しかし、浮気な御妻が中々現れず、三日ほどして漸く輿に乗り現れたので、高師秋は現地に向かう事になります。

近江国瀬田の橋の付近で風が吹き、輿の中が見えると、浮気な御妻はおらず歯の抜けた様な80歳の老婆がいたわけです。

浮気な御妻は伊勢に行くのを嫌がり、替え玉として老婆を使いました。

高師秋は激怒し急いで京都に戻りますが、浮気な御妻は既に行方を晦ませていました。

浮気な御妻は飽浦信胤と愛人関係になっており、高師秋を激怒させています。

高師秋に対する評価は低く太平記では「佐々木信胤、宮方に成る事」という章を設けされて紹介されました。

真実は不明ですが高師秋にしてみれば、赤っ恥を晒されてしまったと言えるでしょう。

尚、太平記では佐々木信胤がこの後に南朝に行き、脇屋義助の四国上陸を助けた事になっています。

神山城を落せず

高師秋ですが、問題はありましたが伊勢守護として現地に赴く事になります。

伊勢には国司の北畠氏がおり、南朝の勢力が強い地域でした。

伊勢での高師秋は小笠原貞長に知行させたりもしていますが、これが後に押領だと判断され、足利直義による裁許下知状が発行されています。

潮田幹景軍忠状によれば、高師秋は伊勢の神山城を攻撃した事が分かっています。

この頃に高師秋は土佐守になっています。

神山城を攻めた高師秋ですが、城を陥落させる事が来ませんでした。

高師秋の采配が余りにも問題だったのか、幕府首脳部からは大きく評価を下げられたとも考えらえています。

亀田俊和氏は「伊勢で敗れて逃げ帰った可能性もある」とすら述べている状態です。

康永元年(1342年)に伊勢守護は仁木義長に交代させられています。

仁木義長は伊勢で奮戦し評価される事になります。

高師秋が無能だと言われる理由

高師秋は伊勢での失態により、戦場に出る事は無くなったと言います。

しかし、南北朝時代は戦乱と言えども文書などの行政面での仕事もあり、実際に一族の高師茂などは有能な行政官として活躍しました。

高師秋を見ると残念ながら行政的な部分で力を発揮したなどの話もありません。

この時代は過去の先例を重視し有職故実が重視されたりもしましたが、高師秋が有職故実の大家だった話も聞きません。

他にも、宗良親王の様な文化面で活躍した人物もいますが、高師秋が文化面での実績を残したわけでもない様です。

亀田俊和氏は室町幕府の高師秋の評価は極めて低く「幕政から排除されていた」可能性をも指摘しています。

ただし、摂津国勝尾寺の大鳥居造営の時に足利尊氏直義と共に馬一匹を贈呈した記録が残っています。

それでも、勝尾寺の大鳥居造営では高師直高師泰高師冬、南宗継、大高重成など高一族の名前も見られる事から、高師秋が特別というわけでもないのでしょう。

高師秋が無能だとされる最大の理由は、各方面での活躍が全く見られない事です。

高師秋と高師直はライバルだったのか

高師秋と比較される武将に高師直がいます。

高師秋の父親は高師行であり、高師直の父親が高師重となっており兄弟となっています。

高師行も高師重も足利氏の執事となっています。

嫡流で言えば高師行流となるのでしょう。

つまり、高一族の惣領の座を巡り、高師行と高師重は争っており、そのまま高師秋と高師直の確執に繋がったとみる事も出来るわけです。

高一族嫡流の争いから観応の擾乱で高師秋は、高師直に味方せず足利直義に味方したとも考えられます。

尚、観応の擾乱で足利直義に味方した者は、足利尊氏や高師直と上手くいかなかった者とする指摘もあり、それを考えると高師秋が足利直義に与したのも分かる気がします。

別説として、亀田俊和氏は高師秋の能力の無さから室町幕府に相手にされず冷や飯を食っており、半面で高師直は数々の武功を挙げるなど大活躍していた事を指摘しました。

亀田俊和氏は高師秋は疎外感と高師直への嫉妬心から、足利直義を支持したのではないかと考えました。

ただし、足利直義の下でも守護に補任されたり、幕府の重職に就いた様子もなく、無能が災いし重用されなかったともされています。

高師秋の最後

観応の擾乱では足利直義に味方した高師秋ですが、どの様な活躍があったのかはよく分かりません。

一つの説として幕府の重職だったわけでも、守護分国を持っていたわけでもなく、高師秋は大した軍勢を動かせるわけでもなく、見せ場もなく終わったとも考えられています。

打出浜の戦いが終わると高師直高師泰、関東では高師冬など一族の多くが世を去りました。

こうした状況を高師秋がどの様な目で見ていたのかはよく分かりません。

足利直義は足利義詮尊氏との対立から北陸に出奔しますが、息子の高師親、高師有、高師義らと共に同道しました。

しかし、高師秋がこの後にどの様になったのかは記録がなく分かっていません。

この時期に亡くなってしまった可能性もあるでしょう。

ただし、太平記(吉川本)の三十四巻に足利尊氏に従った武将の中に「高土佐修理亮」の名が見えます。

高師秋は土佐守になった事があり、高師秋の子の一人が足利尊氏に従ったとみる事も出来ます。

これらを考慮すると、高師秋は何処かのタイミングで足利尊氏に降伏した可能性があるのではないでしょうか。

高師秋がどの様な最後を迎えたのか正確な部分は不明です。

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