室町時代

宗良親王は和歌を楽しみ消極的な姿勢で乱世を生き抜く

2024年10月26日

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宮下悠史

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名前宗良親王
別名尊澄法親王
時代南北朝時代
主君後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇
一族父:後醍醐天皇 母親:二条為子
コメント後醍醐天皇の皇子の中で最も長生きをした

宗良親王は後醍醐天皇の皇子の一人であり東国の各地を転戦した人物です。

南北朝時代は戦いが延々と続くような殺伐とした世界でしたが、宗良親王は和歌を楽しむなどの姿を見せています。

宗良親王が滞在した土地は万葉集と縁が深い地域でもあり、戦略の為に現地に行ったというよりも、和歌に描かれた実際の世界も見に行ったのではないかと考えられている程です。

宗良親王の生き方を見ていると後醍醐天皇の意志の強さに突き動かされている部分はありますが、自らが積極的に敵と戦う様な人ではなかったと感じています。

因みに、後醍醐天皇の皇子の中で最も長生きをしたのが宗良親王であり、野心が高い訳ではありませんが、人生を生き抜く秘訣が詰まった様な人なのでしょう。

尚、宗良親王には尊澄法親王なる名前もありますが、ここでは混乱を避ける為に全て宗良親王の名前で記載しました。

宗良親王の誕生

宗良親王は1311年に誕生し父親は後醍醐天皇であり、母親が二条為子だという事が分かっています。

母親の二条為子は二条為世の娘であり、同母兄に尊良親王がいる事も分かっています。

若き日の宗良親王は天台宗の妙法院に入り門跡となり、天台座主に何度かなりました。

腹違いの兄である護良親王も天台座主となっており、護良親王が天台座主の位を去った後に宗良親王が就任したわけです。

尚、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒等の為に延暦寺の武力を必要とし、護良親王や宗良親王を送り込んだとする説もあります。

讃岐に配流

1331年に後醍醐天皇が倒幕を目指し元弘の乱が勃発しました。

後醍醐天皇は宗良親王がいる比叡山の軍事力を頼りにしたとも考えられますが、吉野を目指すも到達できず笠置山に籠城しています。

宗良親王も比叡山で戦いますが、戦況が悪化すると後醍醐天皇がいる笠置山に移っています。

宗良親王は後醍醐天皇と共に戦いますが、笠置山城は陥落しました。

笠置山城の戦いで敗れると宗良親王は後醍醐天皇と共に捕虜となります。

捕虜となった宗良親王は六波羅探題の長井高広に預けられました。

宗良親王は尋問されると涙を流し、それを聞いた花園院は「不憫な事である。後醍醐や護良により倒幕計画に協力する事になったのだろう」と述べています。

花園上皇の考えでは主犯は後醍醐天皇と護良親王であり、仕方なく宗良親王も倒幕に協力したと考えたのでしょう。

鎌倉幕府としては宗良親王が積極的に倒幕を目指したとは見なかったわけです。

それでも、宗良親王は後醍醐天皇に協力しており、讃岐に配流される事になります。

後醍醐天皇が隠岐に流されたのに対し、宗良親王は近場の讃岐に配流されており、倒幕に対しては消極的だったとみる事が出来ます。

讃岐に配流された宗良親王ですが、ここでも積極的に倒幕を目指したわけでもないと考えられています。

宗良親王が讃岐から積極的に鎌倉幕府打倒に動いた形跡がありません。

天台座主に復帰

後醍醐天皇が隠岐を脱出し楠木正成が奮戦し、足利尊氏が寝返り新田義貞が鎌倉を陥落させています。

これにより鎌倉幕府が滅亡しました。

倒幕が成し遂げられると宗良親王は讃岐の軍勢と共に京都に戻る事になります。

宗良親王は天台座主に復帰しますが、後醍醐天皇の意向が反映されたのでしょう。

北条時行による中先代の乱が起きると、宗良親王は反乱鎮圧の祈祷をしました。

中先代の乱は足利尊氏により鎮圧されますが、今度は尊氏が建武政権から離脱する事になります。

朝廷では鎌倉にいる足利尊氏の討伐を決定しますが、この時に宗良親王は戦勝祈願の祈祷を行っています。

足利尊氏は京都に進撃しますが楠木正成、新田義貞、北畠顕家らに敗れて九州に落ち延びています。

ここでも宗良親王が戦勝祈願の祈祷を行った事が分かっています。

現代人の感覚だと「祈祷なんてして意味があるの」と思うかも知れませんが、当時の感覚で言えば「宗教面で建武政権を補佐した」と言えるのでしょう。

伊勢に移る

足利尊氏は九州で勢力を盛り返し、湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を破りました。

後醍醐天皇は京都では守り切れぬと判断し、宗良親王がいる比叡山に避難しています。

比叡山での戦いは戦力的に後醍醐天皇は不利であり、足利尊氏と和睦し下山しました。

後醍醐天皇が比叡山を降りた日に宗良親王も比叡山から下山した事が分かっています。

後醍醐天皇は足利尊氏により花山院に幽閉されてしまいますが、宗良親王は伊勢に逃れました。

尚、正確に言えば宗良親王の名を名乗ったのは伊勢に逃れた頃からです。

ここから宗良親王は各地を転戦する事になりますが、宗良親王の意志ではなく後醍醐天皇の意向が強く働いたと考えられています。

遠江に移る

1337年の秋ごろになると、宗良親王は遠江入りし井伊氏の井伊城に移りました。

この頃には後醍醐天皇が吉野で健在であり、後醍醐天皇の命令で宗良親王は遠江に移ったと考えられています。

遠江は東海地方にあり京都と鎌倉の中間地点でもあり、東海道を遮断する為に宗良親王を遠江に派遣したともされています。

または、宗良親王の遠江への移動は京都奪還の布石だとする説もあります。

1337年になると後醍醐天皇の要請もあり、北畠顕家が奥州軍を率いて2度目の上洛戦が始まりました。

北畠顕家率いる奥州軍は鎌倉の斯波家長を葬り西進し、1338年の正月になると遠江を通過しています。

北畠顕家が遠江を通過する時に、宗良親王は奥州軍に合流する事になります。

宗良親王が奥州軍に合流する辺りは、南朝の情報を事前にキャッチしていたからだと考えられています。

ただし、北畠顕家は石津の戦いで高師直に敗れ南部師行と共に最後を迎えています。

南朝の大船団壊滅

南朝の有力武将であった楠木正成北畠顕家、新田義貞が亡くなると、結城宗広の進言もあり後醍醐天皇は各地に親王と南朝の重臣を派遣する策を実行する事になります。

大船団で後醍醐天皇の皇子と重臣たちを地方に派遣し、地方から挽回しようとする策に出ました。

義良親王、北畠親房、北畠顕信、伊達行朝らを奥州に派遣し、宗良親王、新田義顕、北条時行らを関東に派遣し、懐良親王を九州に送り込むために動き出したわけです。

宗良親王は東国を目指す事になりますが、宗良親王の意志ではなく後醍醐天皇の命令で東国に向かったと考えられています。

しかし、南朝の大船団は嵐により壊滅し、北畠親房や伊達行朝は常陸に辿り着きますが、吉野に戻る事になってしまった者達も多くいました。

宗良親王は遠江の「しろわ」に到着し、井伊城に再び入る事になります。

しろわは静岡県の浜松市、磐田市、御前崎市の辺りではないかとされていますが、正確な所は分からない状態です。

越後に移る

当時の遠江の守護は仁木義長であり、遠江で室町幕府の勢力との戦いとなります。

室町幕府の中央では尾張守護の高師泰や高師兼を1339年7月に遠江に派遣しており、遠江の宗良親王の勢力も、それなりに活発だったのではないかと考えられています。

尚、1339年8月には後醍醐天皇が崩御しました。

宗良親王は後醍醐天皇の命令で東国に来たわけですが、後醍醐天皇が崩御しても東国に残る事になります。

しかし、遠江での戦いは形勢不利であり、宗良親王は駿河、信濃と移動し越後に入りました。

越後は南朝の新田氏の勢力が強い地域でありであり、身の安全を考えて越後に移ったともされています。

記録から宗良親王は1341年の春には越後国の寺泊にいた事が分かっています。

因みに、鎌倉の鶴岡社に仁木義長や高師泰が井伊城落城の話を伝えた事が分かっており、井伊城も最終的に落城してしまったのでしょう。

尚、宗良親王が越後の寺泊に行ったのは、佐渡に行く為の重要な港である寺泊を抑えるのが狙いだったのではないかとする説もあります。

越後の戦いですが、北朝の越後守護となった上杉憲顕が優勢に戦いを進め宗良親王の勢力は劣勢に立たされました。

鶴岡社務記録の1341年6月7日の条によると、越後の南朝の城が全て陥落したとの話もあり、南朝が圧倒的に不利だった事は間違いなさそうです。

宗良親王は越後から越中に移動しました。

越中で和歌を詠む

1342年に宗良親王は越中の名子の浦にいた事が分かっています。

名子の浦は過去には放生津とも呼ばれ、万葉集にも歌枕として詠まれた地でもあります。

和歌を好んだ宗良親王としても名子の浦は一度は行ってみたい場所であり、この地に滞在したとも考えられています。

越中での宗良親王は軍事や政治よりも和歌に熱中していたともされています。

信濃と交通路

1345年頃になると、宗良親王は信濃の大川原にいた事が李花集から分かっています。

当時の大川原は天竜川支流の小渋川上流域の赤石山脈に位置し、諏訪と東海地方を結ぶ最短ルートとして交通の要衝だったとも考えられています。

大川原は現在の長野県大鹿村であり、大鹿村の御所平が宗良親王の居住地だったと伝わっています。

宗良親王の足取りを辿ると信濃の伊那、浅間山麓、更科などにも滞在した様です。

伊那谷は細長い地域ではありますが、塩尻と三河地方を結ぶ街道が南北朝時代にもあったのではないかと考えられています。

さらに、伊勢物語などの多くの歌集にも歌枕として詠まれており、歌人でもある宗良親王にとってみれば興味がある地域だったのでしょう。

東信濃には軽井沢がありますが、軽井沢は浅間山麓にあり武田信玄の関東侵攻への通路として使われています。

宗良親王も南朝の関東侵攻の為の通路として、軽井沢は押さえておきたい場所でもあったともされています。

更科は北信濃にあり善光寺から草津に抜けるルートでもありました。

これらの事から、宗良親王の信濃でも役目は交通路の確保であった事が分かるはずです。

征夷大将軍に就任

宗良親王は信濃に滞在している時に、南朝の征夷大将軍になっています。

征夷大将軍ではなく征東将軍だったとする説もありますが、南朝の軍事の中心とも言える位に就いたわけです。

因みに、宗良親王は都を離れて軽く10年が過ぎており、いきなり征夷大将軍に任じられ驚いた話も伝わっています。

宗良親王が征夷大将軍になったのは1352年であり、室町幕府内の争いである観応の擾乱と関係しています。

観応の擾乱は足利直義高師直が争い足利直義が勝利しますが、次に足利直義と足利尊氏が戦う事になります。

足利直義は足利尊氏との戦いで鎌倉を本拠地としますが、足利尊氏に敗れた後に病死しました。

南朝の北条時行、新田義興に旧直義派の上杉憲顕が加わり武蔵野合戦が勃発しています。

この時に鎌倉を攻める大将として宗良親王が選ばれ征夷大将軍になったのでしょう。

尚、近畿の方では後村上天皇が北畠親房や楠木正儀らを北上させ、足利義詮が守る京都を占拠し北朝の皇族たちを吉野に連れ去りました。

武蔵野合戦に参戦する為に宗良親王は信濃と上野の境である碓氷峠まで進軍しましたが、ここから進む事が出来なかった話もあります。

ただし、宗良秦王は上野に滞在した話もあり、足利方からは上野親王と呼ばれたりもしています。

記録を見ると1353年には宗良親王は越後におり室町幕府の勢力と戦っていた事も分かっています。

桔梗ヶ原の戦い

1355年には信濃に戻り桔梗ヶ原の戦いで香坂高宗らと共に信濃守護の小笠原長基と戦っています。

小笠原長基との桔梗ヶ原の戦いは敗れ宗良親王の求心力を下げる結果となっています。

長く南朝の為に戦っていた諏訪頼継までもが室町幕府に移ってしまった話もあります。

尚、桔梗ヶ原の戦いで敗れた宗良親王ですが、その後も信濃を中心に活動を行っていた様です。

後村上天皇と宗良親王

1360年に異母弟の村上天皇が住吉に行宮を移した話があります。

後村上天皇は京都奪還を企てており宗良親王に「信濃から力を合わせて攻め上る様に」と命令しています。

しかし、宗良親王は中々上洛軍を興そうとせず、後村上天皇からは「遅い」とする和歌による催促が届いたと言います。

宗良親王が上洛戦を行わなかった理由は、信濃は雪が深く移動が困難だった事や兵士が思う様に集まらなかった事が原因だと考えられています。

細川清氏や仁木義長が南朝に加わった事で後村上天皇は京都奪還を実施しようとしたと思われますが、宗良親王は参戦しなかったのでしょう。

尚、1371年には九州にいる異母弟の懐良親王から宗良親王に和歌が届き、宗良親王が返歌を出した話があります。

九州の懐良親王と宗良親王が連絡を取っていた事は興味深く、南朝ネットワークがあった事は間違いなさそうです。

宗良親王の最後

1374年に宗良親王は吉野に戻る事になります。

宗良親王は吉野を30年以上も離れていた事になります。

尚、1374年に宗良親王が吉野に戻った時に後醍醐天皇の皇子の中で生き残っていたのは宗良親王と懐良親王だけとなっていました。

南朝では後村上天皇も崩御しており、長慶天皇の時代となっていたわけです。

室町幕府の方でも足利尊氏だけではなく足利義詮も亡くなっており、足利義満の時代になっていました。

吉野に戻った宗良親王は文芸活動に専念していた様で、李花集を編集する作業に没頭していたようです。

吉野に戻った宗良親王は1385年に75歳で没したと伝わっています。

1385年は後亀山天皇の時代であり、宗良親王は全ての南朝の天皇と関りがあった事になります。

因みに、弟の懐良親王は1381年に没しており、後醍醐天皇の皇子の中では最も長く生きたと言えるでしょう。

宗良親王と長生きの秘訣

宗良親王は後醍醐天皇の皇子の中で最も長生きをしています。

宗良親王に関しては倒幕などでも消極的で後醍醐天皇の強烈な意思により動かされたといえる人物だと言えるでしょう。

しかし、宗良親王は各地で和歌を残しており、他の皇子に比べると殺伐とした部分がありません。

もちろん、李花集の中には「心細く思った時に頼る所がない」と述べている部分がありますが、全体的にみれば和歌を楽しんだ部分も多い様に感じています。

やはり趣味の和歌に没頭し人生を楽しんだからこそ、長生きが出来たのではないかとも考えられるのではないでしょうか。

同時代の長生きをした人物として足利直冬がいますが、足利直冬も権勢を失ってからは悠々自適に暮らしていたのではないかと考えられる部分があり、平和的に生きるのが長生きの秘訣なのかも知れません。

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