室町時代

高定信は僧形の武士

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宮下悠史

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名前高定信(こうのじょうしん)
生没年不明
一族父親:高貞重
コメント僧形の武士だった

高定信は高貞重の子で高師直の従妹であり、南北朝時代に活躍した人物です。

高定信は僧形の武士でもあり、有徳人に近い様な存在だったとも考えられています。

後に土佐守護となり、観応の擾乱では畠山直宗や上杉重能の暗殺に関与した記述も残っています。

高定信は武庫川の悲劇には立ちあっておらず、その後は尊氏派として活動したと見られています。

最後はよく分かっていません。

高定信の出自

高定信は清源寺本によれば、高重貞の子だとされています。

これが真実であれば、高定信は高師直の従弟になります。

南北朝時代のプロである亀田俊和氏は太平記の27巻で「高弁定信」なる記述に目を付けました。

軍忠状に「高弁房」なる記録も残っており、高定信は出家し「定信」と名乗っていたと考えました。

この事から高定信の読み方は「さだのぶ」ではなく「じょうしん」が正しいと結論付けたわけです。

高一族と言えば、高師直を代表する様な罰当たりな行いが有名ですが、高定信は「僧形の武士」だったと考えられています。

鎌倉時代末期から寺社を通じて経済活動で成り上がる有徳人と呼ばれる富裕層がおり、出家して僧形の武士になる事があり、高定信も近しいものがあったのかも知れません。

高定信が拠点とした寺院などは分かっていませんが、高一族には有徳人としての、ノウハウが積み上がっていたとされています。

土佐守護に就任

貞和三年(1347年)に南朝の楠木正行が動き出し、細川顕氏山名時氏を立て続けに破る大功を立てました。

戦いに敗れた細川顕氏は河内・和泉の守護を解任されており、高師泰に代わる事になります。

土佐守護は細川顕氏の弟である細川皇海でしたが、高定信に交代したと考えられています。

高定信は土佐の現地と関係を強くしたとみる事が出来ます。

上杉重能と畠山直宗の暗殺

貞和五年(1349年)に高師直高師泰らが御所巻を行い足利直義が失脚しました。

話は足利直義の失脚だけでは終わらず、上杉重能と畠山直宗が越前に流罪となっています。

太平記の二十七巻では越前守護の八木光勝が上杉重能と畠山直宗を殺害した事になっています。

しかし、東寺王代日記では高定信が越前まで行き、上杉重能や畠山直宗を殺害した話があります。

太平記でも高定信は登場しますが、八木光勝が上杉重能及び畠山直宗を欺く謀略話の中で登場するだけです。

これらの事から、高定信が直に手を下したのかは不明ですが、上杉重能や畠山直宗の暗殺に関与していたとみる事が出来ます。

土佐守護を解任される

観応の擾乱での高定信がどの様な動きをしたのかは分かっていません。

しかし、直義派の讃岐守護である細川顕氏が内嶋弥六を土佐に派遣しますが、この時に先守護の髙弁房の代官である佐脇太郎入道の城を攻めたとあります。

この事から、足利直義は高定信を土佐守護と見ていない事は明らかであり、土佐守護は解任されたとみる事が出来ます。

ただし、直義派が誰を土佐守護にしたのかは不明です。

その後の高定信

高師直打出浜の戦いで敗れますが、足利尊氏直義の間で講和が結ばれました。

しかし、武庫川で高師直ら多くの高一族が殺害されていますが、ここに高定信がいなかった事が分かっています。

後に赤松則祐佐々木道誉が南朝に鞍替えし、尊氏派の多くの諸将が京都を出て自らの勢力圏に向かいました。

房玄法印日記には高定信も京都を出たとあります。

高定信が何処に向かったのかは不明ですが、自らが守護を務めていた土佐だと考えられています。

しかし、その後に高定信が、どうなったのかは不明であり、分かっていません。

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