
| 名前 | 公子呂 |
| 別名 | 子封 |
| コメント | 共叔段への攻撃を進言した。 |
公子呂は春秋左氏伝に登場する鄭の荘公の部下です。
子封の名前で書かれる事もあります。
公子呂は共叔段の危険性を素早く察知し、鄭の荘公に諫言しますが、取り上げられる事はありませんでした。
鄭の荘公としては、共叔段が助長するのを待っていたとも言えるでしょう。
共叔段が母親の武姜を内通させ攻撃する段階になると、鄭の荘公は公子呂に京の攻撃を命じました。
公子呂は京の人々が共叔段に背いた事で、戦いに勝利しますが、これ以降の足取りがつかめなくなります。
尚、公子呂は春秋左氏伝の魯の隠公元年(紀元前722年)にのみ登場する人物であり、史記には登場しません。
公子呂の諫言
鄭の荘公は母親の武姜の言葉もあり、弟の共叔段を京に封じました。
京邑は規模が大きな邑であり、祭仲は不安と吐露した話がありますが、後の事を考えれば公子呂も同じ事を考えていたのでしょう。
共叔段は京城大叔と呼ばれる事になります。
共叔段は勢力拡大を謀り、鄭の西や北の邑を支配下に収めるべく動き、成果を挙げました。
公子呂は鄭の荘公に次の様に述べています。
※春秋左氏伝より
公子呂「これでは国が二つに割れてしまう事になります。
我が君はいかなる対処をするつもりでしょうか。
仮に大叔(共叔段)に国を与えるつもりであれば、私はそちらに仕えたいと思います。
与えるつもりがないのであれば、さっさと始末して頂きたい。
民を動揺させてはなりません」
公子呂は鄭の荘公に対し「さっさと共叔段を始末してしまえ」と言いたかったのでしょう。
しかし、鄭の荘公は「気にするな。そのうち自滅する」と述べ、取り合いませんでした。
こうしているうちに、共叔段はさらに勢力を拡大させ、廩延も服属させる事になります。
共叔段の動きに対し、公子呂は流石にヤバいと思ったのか「もういいでしょう。これ以上放置すれば、人望が向こうに移ります」と意見しました。
ここでも鄭の荘公は「不義の者に民は心服せぬ。今は強くても、直ぐに崩壊する」と述べ、取り合わなかったわけです。
鄭の荘公にしてみれば、明確な見通しがあったのかも知れませんが、公子呂にしてみれば、やきもきした事でしょう。
出陣命令
春秋左氏伝によると、共叔段は武器や兵糧を揃え部隊編成まで行い、新鄭への攻撃準備をしました。
共叔段に母親の武姜が内通する手はずとなっており、新鄭に進撃する直前まで行きます。
こうした動きに対し、鄭の荘公は公子呂に出陣命令を出す事になります。
公子呂に対しては、待ちに待った瞬間でもあったはずです。
公子呂は兵車二百を率いて、京へ侵攻しました。
ここで、京の国人らは鄭の荘公側に寝返る事になります。
共叔段は鄢に逃亡しますが、ここでも敗れ共に出奔しました。
公子呂の最後
公子呂の最後は記録がなく分かっていません。
鄭の荘公と共叔段の話にのみ登場し、これ以降の事は分からない状態です。
鄭の荘公と共叔段の戦いは、激戦でもあったらしく、ここで公子呂は討死してしまったのかも知れません。
公子呂は主戦派であり、激しく戦った可能性も高い様に思います。