戦国時代(日本)

宮部長房・関ケ原で西軍に寝返ろうとするも詐欺にあった男・・。

2021年4月12日

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宮下悠史

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宮部長房は、かなりマイナー武将ではないかと感じています。

というか、ここに行きついた人は、かなりのダメ武将好きではないかと個人的には感じています。

イメージ的に西軍は徳川家康率いる東軍に寝返った人は多くいるけど、東軍から西軍に寝返ったのは真田昌幸位だと思っている人が多いのではないでしょうか。

しかし、宮部長房も東軍から西軍に寝返ろうとしました。

ただし、宮部長房の場合は、寝返りに失敗しているわけです。

宮部長房がどの様な武将なのか紹介したいと思います。

豊臣秀吉に期待されていた

父親は、宮部継潤で豊臣秀吉の九州征伐では、島津家久を破り秀吉から日本無双の感謝状を貰い受けています。

島津家久は、仙谷秀久率いる九州征伐では、戸次川の戦いで長宗我部信親や十河存保を討ち取っているわけです。

その事から、秀吉の喜びも大きかったのでしょう。

その宮部継潤の跡継ぎが宮部長房です。

ちなみに、豊臣秀吉からは豊臣姓を与えられるなど期待が大きかったようです。

尚、真田幸村なども豊臣姓を与えられています。

朝鮮出兵で加藤光泰が死亡する事件が起きる

宮部長房は、朝鮮出兵の時に加藤光泰を供応しています。

しかし、その直後に加藤光泰が吐血して死んでしまった為に、毒殺説も言われています。

ただし、毒殺の首謀者が石田三成とも言われているのです。

加藤光泰は、関東を治める家康の領土の隣である甲斐国24万石の大名で期待されていた事は間違いありません。

しかし、石田三成と加藤光泰は朝鮮出兵の方向性で対立したとも言われています。

真実は不明になるのですが、当時の人は石田三成の毒殺説を信じていた人もいたようです。

宮部長房の供応後に亡くなっている事から、石田三成と宮部長房は親しい間柄であった証なのかも知れません。

関ケ原の戦いが勃発

1598年に豊臣秀吉が亡くなると、関ケ原の戦いへと世の中は動いていきます

その後、五大老の一人である前田利家が亡くなると、徳川家康が独裁者のようになっていきます。

徳川家康に対して、反旗を翻したのが上杉景勝や石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家などの西軍の諸将です。

徳川家康は、直江兼続が送った直江状の事などもあり会津征伐を決行します。

宮部長房は、徳川家康に従って、会津征伐軍に従属しました。

しかし、石田三成、大谷吉継、小早川秀家らが中国地方の大大名である毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵しています。

徳川家康は、この話を聞くと小山評定などもあり、結局は本拠地である江戸に戻っています。

その後、徳川家康は、関ケ原に出陣したわけです。

宮部長房ですが、鳴海(愛知県名古屋市)に来たところで、「西軍に来ないか?」というお誘いが来たわけです。

宮部長房の与力や身内などが西軍に多く入ってしまった事情もあり、心が揺らいでいた時に来たお誘いです。

宮部長房は迷うわけですが、西軍に味方する事を決意しました。

西軍に合流しようとするが詐欺にあう

宮部長房の周りは、東軍だらけですので、何とか自分だけでも西軍に合流したいと考えたようです。

そのため兵士を置いたまま、自分だけで西軍に挨拶に行こうとしたのでしょう。

熱田から桑名に行き、そこから合流しようと考えたわけです。

前日に船頭にお金を渡して、逃げる準備をしておきました。

決行の日に、港に行くわけですが、お金を渡した船頭はいつになっても来ないわけです。

つまり、船頭にお金を騙し取られただけで、西軍に合流する事は出来ませんでした。

この後に、宮部長房は仕方なく自分の陣地に帰っていくわけですが、既に自分の軍勢がいません・・。

宮部長房の部下たちは、宮部長房が逃げてしまったと思い、東軍の田中吉政の軍勢に入ってしまったわけです。

昔、田中吉政は宮部家の家臣でした。

そういう縁もあり田中吉政の軍勢に入ってしまいました。

そうとも知らずに、ノコノコと宮部長房は帰って来たわけですが、徳川家の兵によって捕らえられてしまいます。

徳川家康からして見れば「お前、寝返ろうとしていたな!」と行動がバレバレでした。

そのため関ケ原の本戦には、田中吉政の軍勢として部下だけが参戦し、宮部長房は岡崎城に幽閉されていたわけです。

恩を仇で返した男w

宮部長房の行動は明らかに徳川家康の怒りを買ったようです。

そのため、改易(領地没収)と死罪となります。

しかし、宮部長房の家臣は東軍として働いた事や、かつての臣下だった田中吉政の取りなしにより、領地没収のみとなったわけです。

さらに、陸奥盛岡藩主である南部利直に預けられる事となり晩年を過ごす事になりました。

領地は没収されたけど、田中吉政のお陰で死罪を免除されたわけですから、感謝してもいいような気がします。

しかし、1630年になると、自分が西軍に加担しようとした行動は田中吉政に騙されたからだと幕府に上表しています。

この行動は恩を仇で返すような行動にも見れるわけです。

1630年には、田中吉政は既に死亡していますし、死人に口なしで上表したようにしか思えません。

深層は闇の中ですが、「こういう事を言うんだったらもっと早く言え」とも思いました。

ただし、田中吉政は1609年に亡くなっているわけで、死亡してから21年後に言ったわけです。

それを考えると、当時の田中家の家臣が全員亡くなってから「騙された」と言い出したのかな?とも感じます。

宮部長房の関ケ原の行動やその後の行動を見る限りでは、抜けている人に見えてなりません・・・。

宮部長房と関ケ原を考えてみる

宮部長房ですが、関ケ原の時には500の兵士しかいなかったともされています。

さらに、東軍に付くか西軍に付くかで家臣団を集めて評定を行った結果としては、東軍に残る方が優勢だったようです。

しかし、宮部長房は西軍を選びました。

これを見ても家中が一つになっていなかった所も見受けられます。

この時に、宮部長房は一人で逃走しようとしたわけですが、適当な理由を付けて陣を離れるなどの行動は出来なかったのでしょうか。

こういう場合で思うのは、どのタイミングで裏切るか?というのも難しく感じるわけです。

戦いが始まってから寝返るのか、それとも適当な理由を付けて寝返る。一人で逃げる。などと色々とあります。

それでも、関ケ原の戦いで迷走していた事は間違いないでしょう。

ただし、田中吉政に騙されたと言う話が本当であれば、人が好いのかも知れません。

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