名前 | 中吉弥八 |
読み方 | なかぎりのやはち |
時代 | 鎌倉時代 |
所属 | 六波羅探題 |
コメント | 機転を利かせ野伏から皇族を助けた |
中吉弥八は鎌倉時代の末期の人物であり、六波羅探題の所属していた武士だと考えられています。
「備前国住人」とも書かれており、中吉弥八は備前に住んでいた武士だったのでしょう。
元弘の変の終盤で名越高家が戦死すると、足利尊氏が後醍醐天皇に味方し六波羅探題を攻略すべく京都に攻め込んで来ました。
六波羅探題の北条仲時と北条時益は光厳天皇らと共に六波羅館を脱出しますが、これに従ったのが中吉弥八となります。
光厳天皇らの一行は近江に入り鎌倉幕府の本拠地である関東を目指しますが、野伏により道を塞がれてしまいました。
この時に機転を利かせたのが、中吉弥八であり野伏たちを欺き見方を助けています。
今回は太平記にも登場する中吉弥八の解説です。
中吉弥八は武勇優れし者
千種忠顕や足利尊氏に攻められた六波羅探題の北条仲時と北条時益は、六波羅館を捨て近江を目指しました。
六波羅探題の落武者の中には光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇など持明院統の皇族もいた事が分かっています。
これに従ったのが中吉弥八であり、天皇の警護をしていたわけです。
京都から近江に入ろうとしますが、道中で北条時益が戦死し、光厳天皇までが矢を肘に受けてしまい陶山備中守に救われたりもしています。
既に六波羅探題が陥落した事を知っており、多くの民衆が落武者狩りを始めていたのでしょう。
こうした中で五百人ほどの野伏に道を塞がれてしまいますが、中吉弥八は臆することなく、次の様に述べました。
中吉弥八「一天の君(天皇)が関東に臨幸しようと言うのに、無礼をするとは何事だ。
弓を降ろし具足を脱ぎ通し奉れ」
中吉弥八は毅然たる態度で物申しますが、野伏たちは馬鹿にした様に笑い、次の様に述べています。
野伏「どの様な君であろうとも、御運が尽きて逃れて行くのを、何もせずに通す者はいないだろう。
無事に通りたいならお供の武士たちの馬や甲冑をこの場に捨てさせ、安心して落ち延びるがよい」
野伏たちの言葉に激怒したのが、中吉弥八ら六名であり「畜生の振る舞い」と述べ、野伏に襲い掛かりました。
この事から見ても、中吉弥八が武勇に優れていた事が分かるはずです。
野伏たちは勢いに押され四方八方に逃げますが、中吉弥八は深追いし過ぎて逆に野伏20名ほどに取り囲まれてしまいました。
20名の野伏に囲まれた中吉弥八ですが、臆することなく頭目らしき男に狙いを定め襲い掛かりました。
頭目らしき男と中吉弥八は組打ちとなり泥田の中に転がり込む事になります。
しかし、中吉弥八は既に刀を失っており、絶体絶命のピンチになってしまったわけです。
中吉弥八の機転
中吉弥八は窮地に陥りますが「自分は六波羅探題の下僕に過ぎない」と述べました。
この時に中吉弥八は六郎太郎という者だと語り「命を助けてくれるなら、六波羅殿が銭六千貫を埋めた場所を教える」と告げます。
これを信じた野伏らは中吉弥八の命を助けるだけではなく、様々な贈り物をしたり酒を出したりし持て成しました。
中吉弥八は野武士らと連れて六波羅館の焼け跡に行きますが、次の様に述べています。
中吉弥八「確かにここに埋められていたのだが、既に誰かが掘り起こしてしまったに違いない。
金持ちにしてあげようと思ったが、貴殿は耳たぶが薄く、運の無い方ですな」
中吉弥八は作り笑いをし、引き返してきたと言います。
この話が真実であれば中吉弥八らは銭が無かったとはいえ、中吉弥八を殺害しようとしなかった事になるでしょう。
現代の日本では「耳たぶが厚いと金持ちになる」とする話がありますが、ここで「耳たぶが薄いと金持ちになれない」とする言葉があるのは注目に値するでしょう。
尚、太平記によると中吉弥八の謀により道が開き光厳天皇らの一行が、篠原の宿に着く事ができたとあります。
中吉弥八の機転が皇族や六波羅探題の落武者たちの命を救ったとも言えるでしょう。