室町時代

南部政光(根城南部氏八代目当主)は南北朝を生き抜いた

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宮下悠史

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名前南部政光
別名茂行、祐長、四郎、薩摩入道
生没年生年不明ー1427年
時代南北朝時代ー室町時代
一族父:南部信政 母:加伊寿御前(工藤貞行の娘)
兄弟:信光 子:政広
コメント根城南部氏の八代目当主に数えられる

南部政光は根城南部氏の八代目の当主となります。

尚、三戸南部氏の四代目当主も南部政光ですが、ここで紹介するのは根城南部氏(八戸氏)の八代目当主の南部政光です。

南部政光の時代は各地の南朝勢力が駆逐され厳しい状態でした。

こうした中で南部政光は北朝の在地勢力と一揆を結ぶなどし、勢力の存続を図ったわけです。

こうした南部政光の戦略が上手く機能したのか、根城南部氏は南北朝合一まで生き残りました。

根城南部氏を存続させた君主だと言えるでしょう。

領地を譲られる

父親の南部信政は根城南部氏の六代目当主に数えられていますが、祖父の南部政長よりも早くに亡くなりました。

こういう事情もあり、南部政長が根城南部氏を差配していたわけです。

南部政長は嫡子の南部信光に八戸の領地を譲り、七戸の領地は母親の加伊寿御前(工藤貞行の娘)に与えました。

この時に南部政光はまだ幼かった事もあり、明確に領地の譲渡はなかったわけです。

ただし、南部政長は加伊寿御前に南部政光が成人したら、領地の半分を渡し、もう半分は政光か兄の信光のどちらかに渡すかは決める様にと告げました。

家督を継ぐ

天授二年(1376年)に兄の南部信光が亡くなると、南部政光が後継者となりました。

南部信光の子である南部長経は幼少だった事もあり、弟の南部政光が後継者になったともされています。

根城南部氏の後継者になった事もあり、八戸に移りました。

この時代の南朝は懐良親王や菊池武光が勃興させた九州でも、幕府軍の今川了俊に敗れ風前の灯だったわけです。

南朝は室町幕府の北朝に圧倒されており、逆転の見通しもつかない状況でしたが、南部政光は南朝を支持していました。

しかし、南朝支持だけではやっていくのは難しく、周辺の北朝勢力と一揆を結ぶ事で生きながらえる道を選択しています。

一揆と言えば、竹槍一揆を連想しがちですが、「集団」や「共同体」の意味もあり、周辺勢力との関係を構築しました。

こうした中で、明徳三年(1392年)に明徳の和約が成され南北の朝廷が一つになったわけです。

南北朝合一後も南部政光は生き続け亡くなったのは、応永三十四年(1427年)だったと伝わっています。

先代:南部信光南部政光次代:南部長経

※この記事は南北朝武将列伝南朝編をベースに作成しました。

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