室町時代

南部政長は南朝の為に戦い続けた北奥の雄

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宮下悠史

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名前南部政長
生没年生年不明ー1360年
時代南北朝時代
一族父:南部政行 母:南部実継の娘 
兄弟:時長、師行、堯養、政長、貞長、資行
子:信政、政持、信助

南部政長は南部氏の中で最初に奥州に入ったと考えられています。

南部政長は鎌倉時代の末期に後醍醐天皇に味方し、新田義貞の鎌倉攻撃にも参加しました。

建武の新政が始まると、兄の南部師行も奥州に入り政務を行う様になります。

南部師行が北畠顕家と共に石津の戦いで敗れると、南部政長が当主となりました。

その後は、北畠顕信らと協力し、一時的に北朝に降りますが、心は南朝にあり忠義を尽くした武将でもあります。

南部政長の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

奥州に入る

奥州南部氏の祖は伝承では、南部光行という事になっていますが、近年の研究により最初に奥州に入ったのは南部政長だという事が分かってきました。

兄の南部師行も建武政権以降に奥州にやって来たのであり、最初に奥州の地を踏んだ南部氏は南部政長だったのでしょう。

南部氏は甲斐の南部地方を本拠地としていましたが、南部政長は奥州に下向していました。

新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしますが、南部政長は奥州から鎌倉まで行き戦いにも参加しています。

南部政長は活躍が認められ、建武の新政では領地が与えられた事が確認出来ています。

ただし、南部氏の本領である甲斐の領地は従弟の武行や異母弟の資行に押領されており、南部時長、師行と共に返還を訴え続ける事になります。

尚、建武政権では甲斐の倉見山の領地を後醍醐天皇より拝領した事も分かっています。

糠部郡の領地

建武政権では陸奥将軍府の長官に北畠顕家を任じました。

北畠顕家は下総結城氏の結城朝祐に糠部郡の領地を与えましたが、結城朝祐は代官を派遣しなかった為に、受け取る気がないと判断され代わりに南部政長の領地となったわけです。

南部政長は陸奥の地で北条氏の残党の討伐を成功させており、北畠顕家は功績として糠部郡を与えたのでしょう。

さらに、兄の南部師行も陸奥に派遣される事になり、南部政長に七戸を与えた事になります。

七戸は交通の要衝でもあり、南部氏が発展する原因にもなっています。

南部政長も七戸の重要性を理解しており、活動していたのでしょう。

陸奥の地で奮戦

奥州の南部氏では政務は兄の南部師行が行い、軍事は南部政長が行うことが多かったわけです。

津軽で北条氏残党が蜂起した際には、南部政長が鎮圧に向かったりもしています。

北畠顕家も南部政長の軍事能力や合戦での忠節を高く評価していました。

北畠顕家の第一次上洛戦争

北畠顕家が後醍醐天皇の要請により第一次上洛戦争を起こす事になります。

この時に、南部政長の兄である南部師行や、南部信政が同道しました。

南部信政は南部政長の子となり、留守を任されたのが南部政長です。

これを好機と見たのが足利尊氏に与する安藤家季や曽我貞光であり、攻撃を仕掛けてきました。

南部政長は成田泰次と共に防衛に当たる事になります。

藤崎館、平内館、船水館、小栗山館、田舎館で戦闘が発生した事が分かっています。

南部政長は幾つかの防衛拠点は失いますが、粘り強く守りを固め北畠顕家が戻って来るのを待ったわけです。

北畠顕家の奥州軍は近畿では大活躍し、足利尊氏を九州に追い落とし凱旋しました。

この時に南部政長への書状も残っており、中には足利尊氏が自害したという知らせまであります。

当然ながら、足利尊氏は生きており、誤報という事になります。

北畠顕家も足利尊氏の自害は信じていなかったと見られますが、南部政長に伝えるだけ伝えたのでしょう。

奥州南朝の士気を高める狙いもあり、足利尊氏が自害したという誤情報を流したともされています。

南部師行の帰還は遅れていた様であり、糠部郡の奉行職は南部政長が行っていたようです。

足利直義からの降伏勧告

後醍醐天皇は足利尊氏により幽閉されてしまいますが、幽閉先の花山院を脱出し吉野で南朝を開きました。

これにより南北朝時代が始まったわけです。

後醍醐天皇の要請により北畠顕家の第二次上洛戦争が勃発し、南部師行が同行し、またもや南部政長は留守番役となります。

しかし、石津の戦いで敗れ北畠顕家も南部師行も命を落としました。

南部政長は糠部郡奉行の役目を引き継ぎ南朝を支持しますが、時代は北朝に微笑み苦しい立場だったと考えられています。

こうした中で足利直義は、南部政長に降伏勧告を行いました。

足利直義は所領安堵を条件に降伏勧告を出しましたが、南部政長は従わず変わらず南朝に忠義を尽くす事になります。

大光寺の戦い

この頃の南部政長は越後五郎なる人物と、成田・工藤・倉光など津軽地方の各地で戦った事が分かっています。

越後五郎はどの様な人物なのかイマイチ分かっていません。

津軽地方の戦いの中で大光寺の戦いの様子が分かっており、この戦いで南部政長の勢力は外館を攻め落とすなど奮戦していた事が分かっています。

しかし、大光寺の援軍として曽我貞光が駆けつけ、さらには曽我師助も到着しました。

この頃の南部政長が北畠親房に送った手紙が残されており、北奥の南朝勢力の中で寝返ってしまう者が増えていると告げています。

やはり、石津の戦いで北畠顕家南部師行の戦死が響き、多くの諸将が北朝に鞍替えしていたのでしょう。

さらに、先の足利直義の手紙に見られる様に、幕府勢力も味方になる様に降伏を促していた事は明らかです。

奥州総大将の石塔義房なども、しきりに南朝勢力の切り崩しを行っていました。

曽我勢の援軍により南部政長は苦戦し、三カ月ほど粘りますが、結局は撤退しています。

こうした中で足利直義は南部氏に二度目の降伏勧告をしていますが、南部政長は受け入れず南朝として戦う道を選択しました。

北畠顕信の戦略

1340年に北畠顕信が奥州に下向してきました。

北畠顕信が奥州にやってくると葛西氏と共に各地を転戦しています。

南部政長も北畠顕信と連携を深める為に手紙を送るなどしました。

北畠顕信の奥州下向により、南部政長も復調し、安藤氏の一部を南朝に寝返らせる事に成功しています。

こうした中で南部政長は鹿角方面に出陣し、子の南部信政は岩手郡西根に進軍しました。

北畠顕信は南部氏に多くの期待を寄せており、和賀、雫石の南朝勢力と共に、斯波郡を攻撃する様に伝えています。

作戦の内容は漏れない様に口頭で伝えるとしましたが、南部政長は北朝に寝返る者が出る事を危惧していました。

南部政長は武士たちに恩賞を与え寝返らせない様にする為の施策を行うべきだと述べましたが、北畠顕信は約束する事が出来なかったわけです。

こうした中で足利直義から三度目の降伏勧告が届きますが、南部政長は承諾せず、北畠顕信の作戦を実行しました。

南部政長は予定通りに斯波郡を制圧し、葛西氏も北朝に味方した稗貫氏の勢力を平定しています。

この時の北畠顕信や南部政長は念願である多賀国府奪還の間近まで来ていましたが、北奥では曽我師助や曽我貞光が南部政長の本拠地に向かい動き出しました。

曽我氏の攻勢により南部政長は本拠地に戻らねばならず、北畠顕信の戦略に狂いが生じています。

南部政長は曽我氏に苦しめられ、北畠顕信も苦戦する事になります。

北畠顕信は南部政長に素早く曽我氏を倒し援軍に来るようにと要請しますが、南部政長の方でも援軍を派遣するだけの余裕はなかったわけです。

北畠顕信の多賀国府奪還計画は失敗に終わったと言えるでしょう。

それでも、南部政長は1342年までには津軽地方を鎮める事に成功しました。

後村上天皇からの甲冑と太刀

興国三年(1342年)に南部政長が上洛する動きを見せた形跡があります。

この時の目的は後村上天皇への拝謁であり、後村上天皇は南部政長の忠義を評価し、太刀(粟田口国安)、甲冑(紺糸威胴丸鎧、兜・大袖付)を賜わりました。

ご村上天皇より下賜された太刀や甲冑は家伝として、八戸家に受け継がれていく事になります。

甲冑は現存しており、岡山県の林原美術館に収蔵されています。

林原美術館HPより)

北畠顕信からの恩賞

興国六年(1345年)には、北畠顕信から加美郡の領地を賜わりました。

しかし、加美郡は現在の宮城県加美郡であり、本拠地の糠部からは遠く離れており、しかも北朝が実質支配している場所だったわけです。

北畠顕信からの加美郡の恩賞は空手形であり「実力で奪い取った場合に領有しても良い」というものでした。

距離的な問題も響いたのか、南部氏は加美郡を最後まで領有する事が出来ませんでした。

南部氏の方でも加美郡を領有するのは難しいと判断したのか、無理やり領有しようなどとはしてはいません。

この後に、南部信政の忠勤が認められ、官位を与えられており、この恩に目覚めたのか南部政長は挙兵しますが、一カ月ほどしか続きませんでした。

室町幕府に降伏

正平元年(1346年)に足利直義から南部政長への四度目の降伏勧告が出されています。

四度目の降伏勧告では所領安堵の項目があり、二度目や三度目の降伏勧告よりも待遇が良くなっている事が分かっています。

室町幕府としても何としても南部政長を味方とし、奥州に平和をもたらしたかったのでしょう。

同年に五度目の降伏勧告もあり、ここでは所領安堵だけではなく「望む領地をあたえる」とする文言も入りました。

南部氏の悲願は甲斐の領地の奪還であり、室町幕府が甲斐の領地を取り戻す事を約束した様な文言にも見えるわけです。

当時の南朝は常陸合戦で北畠親房高師冬石塔義房に敗れて吉野に戻るなど、かなり厳しい状況でした。

さらに、蜂起しても長続きしない状態であり、遂に南部政長は室町幕府への降伏を決断する事になります。

南部政長は降服の意思を足利尊氏に伝えました。

足利尊氏は奥州管領の畠山国氏と吉良貞家に南部政長の降伏を伝えています。

南部政長は1347年に上洛しています。

南部政長最後の戦い

南部政長は北朝に降伏しましたが、これは単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。

国力を回復させた南部政長は正平四年(1349年)に、糠部及び雫石で挙兵しました。

今回の南部政長は準備万全だったのか、1年ほど戦い抜き、北畠顕信から「和睦が成った」とする連絡が入り戦いを終えています。

これが記録に残る南部政長の最後の戦いとなります。

南部政長は1360年に亡くなってしまいますが、南部政長の意思は孫の信光政光に受け継がれ、南北朝時代の最後まで南朝して戦い続けました。

先代:南部師行南部政長次代:南部信光

南部政長の動画

南部政長のゆっくり解説動画です。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成しました。

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