南部信政は南部政長の子で、母親は南部師行の娘となっています。
南部信政は北畠顕家の第一次上洛戦争では、南部師行と共に参戦しました。
後に北畠顕信により右近蔵人に推挙されています。
東北太平記では四条畷の戦いで戦死した事になっていますが、不明な部分が多いです。
父親の南部政長よりも先に亡くなってしまいましたが、根城南部氏(八戸氏)の六代目当主に数えられています。
北畠顕家の上洛戦
南部信政は1338年に行われた北畠顕家の上洛戦に、叔父の南部師行と共に参戦した事が分かっています。
父親の南部政長が糠部郡に残留しており、代わりに出陣したのでしょう。
南部信政の具体的な戦いの内容は不明ですが、北畠顕家の第一次上洛戦争は足利尊氏を九州に没落させるなど成功を収めています。
一旦奥州に戻った北畠顕家ですが、後醍醐天皇の要請により二度目の上洛戦争を行っており、この時の南部信政は同行しなかった様です。
尚、北畠顕家は石津の戦いに敗れ南部師行と共に討死しました。
叔父の南部師行が戦死した事で、父親である南部政長が当主となります。
南部師行には男子がいなかった様であり、南部信政にも後継者の座が回って来たと言えるでしょう。
南部信政の母親
南部信政の母親は南部師行の娘だったとされています。
ただし、南部師行の娘と南部政長が結婚する事になった理由は不明であり、本当に南部信政は南部政長の子なのか?と疑問視する声もあります。
それでも、南部政長が南部師行の娘を娶り、その子が南部信政であれば正統性もあり、嫡子として認められても不思議ではないでしょう。
南部信政は津軽田舎館の領主である工藤貞行の娘を妻としており、地盤強化に務めました。
右近蔵人
興国六年(1345年)に北畠顕信は南部信政に対し、右近蔵人の官途を推挙しています。
さらに、北畠顕信は弟の南部信助も推挙しました。
これより少し前に、南部氏では加美郡(宮城県)の領地を与えられていますが、糠部から離れており、現実的に得られる所領ではありませんでした。
こうした理由もあり、新たなる恩賞として北畠信政を右近蔵人に推挙したのでしょう。
南部氏当主である南部政長は南部信政や信助への推挙された事への、報いとして北朝に対し挙兵しました。
ただし、この時は準備が不十分だったようで、短期間で終わっています。
南部信政の最後
東北太平記によると、南部信政は楠木正行と高師直との戦いである四條畷の戦いで命を落としたと言います。
ただし、東北太平記の内容は信憑性が薄いとされており、本当に南部信政が四条畷の戦いで戦死したのかは不明です。
それでも、南部信政が父親の南部政長よりは、先に亡くなったのは事実だとされています。
南部信政が亡くなり後に南部政長が亡くなると、南部信政の子の南部信光が後継者となり、その後は弟の南部政光が後継者となっています。
先代:南部政長 | 南部信政 | 次代:南部信光 |