室町時代

名和顕興は九州に移る

2025年3月19日

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宮下悠史

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名前名和顕興(なわあきおき)
生没年不明
一族父:名和基長 義父:名和義高
兄弟:顕長、泰興 子:顕年
コメント九州に移る

名和顕興は名和基長の次男であり、後に叔父の名和義高の養子となっています。

名和顕興の祖父が名和長年であり船上山の戦いで、後醍醐天皇を救い鎌倉幕府の軍勢を打ち破った名和長年となります。

名和長年や名和義高、名和基長らは近畿での戦いが多かったわけですが、名和基長は九州で活躍する事になります。

九州での名和顕興は懐良親王に仕えますが、阿蘇惟澄に訴えられた記録も残っています。

名和顕興は後に今川了俊に敗れ室町幕府の配下の武将となります。

子孫は明治時代にまで続きました。

九州に移る

名和長年は後醍醐天皇の寵臣である三木一草として名を連ねますが、足利尊氏との戦いで戦死しました。

名和氏は名和義高が継ぎますが、名和義高は高師直北畠顕家の戦いである石津の戦いで敗れて最後を迎えています。

父親の阿蘇基長は出家したとも伝わっており、名和家の後継者が名和顕興となったわけです。

名和義高は肥後国八代荘を後醍醐天皇から賜わっており、名和顕興は一族を率いて九州に向かいました。

名和顕興は懐良親王に従う事になります。

名和顕興と阿蘇惟澄

1360年に阿蘇惟澄は阿蘇大宮司となります。

阿蘇惟澄の子である阿蘇惟村が阿蘇大宮司でしたが、北朝に与した事で阿蘇惟澄が阿蘇大宮司となったわけです。

阿蘇惟澄は阿蘇社領(小河郷・郡宇土荘)を支配下に加える為に、名和顕興や宇土道光の押領をやめさせる様にとする訴訟を起こしました。

名和顕興の代官が小河郷で抵抗しようとしますが、肥後国守護の菊池武光は守護代を派遣しています。

名和顕興の代官は反発しますが、九州征西府では認めず郡浦社側に引き渡される事になりました。

九州征西府から郡浦社を認められたわけですが、納得がいかなかったのが名和顕興の代官です。

名和顕興の代官は多くの者を集め郡浦社の雑掌や神人らに狼藉を行いました。

この時代は例え正式に知行を認められても、潔く従うものが少なかった例にもなっています。

名和顕興と今川了俊

名和顕興は九州征西府の一員となり、今川了俊と戦った事も分かっています。

今川了俊は少弐冬資を呼び寄せて暗殺する水島の変なども起こし、激怒した島津氏久が国許に帰るなどもありましたが、懐良親王を確実に追い詰めて行きました。

こうした中で名和顕興は今川了俊に対し古麓城で籠城し抵抗しています。

しかし、結局は名和顕興が降伏する事になり、所領も安堵される事になりました。

名和顕興の最後はよく分かっていません。

名和顕興が幕府に降った事でお家は存続され、子孫は江戸時代には徳川藩士となり明治時代の名和長恭は華族となっています。

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