室町時代

落武者狩りの真実

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宮下悠史

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名前落武者狩り
コメント白昼堂々と行われていた

落武者狩りのイメージでいえば、戦いに敗れた武士が闇討ちで民衆らに襲われ首を取られる事件に思うかも知れません。

戦国時代に明智光秀が主君の織田信長を本能寺で討ちますが、落武者狩りにより命を落としたのは有名な話でしょう。

落武者狩りは夜に行われるものだと思いがちですが、実際の落武者狩りは白昼堂々と行われたり、落武者の身ぐるみを剥ぐなど普通に行っています。

さらに、大名が没落するとなれば、人々は大名屋敷に群がり財産までをも奪いました。

他にも、僧や医師であっても没落すれば、民衆により財産は奪い取られています。

今回は落武者狩りの真実を解説します。

尚、落武者狩りの動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

恐怖の落ち武者狩り

足利義教は嘉吉の乱により命を落としました。

畠山持永は足利義教を後ろ盾としており、窮地に立たされたわけです。

畠山持永は京都から自分の勢力圏である越中まで逃亡しようと企てました。

越中に向かう畠山持永ですが、世間の者達は「越中まで無事に辿り着く事は出来ぬだろう」と噂した話が残っています。

当時の人は落武者狩りの怖さを知っており、畠山持永が越中まで辿り着けないと考えたのでしょう。

実際に畠山持永は逃走中に落武者狩りに遭い、具足(鎧)を取られてしまい越中まで辿り着く事が出来ませんでした。

畠山持永は度重なる落武者狩りに遭い命を落としたと伝わっています。

落武者狩りは所持品も奪われる

永正17年(1520年)2月に摂津攻撃に失敗した細川高国は、京都まで敗走する事になります。

この時の様子を丹波保長の盲聲記に書かれています。

盲聲記によると細川高国の軍勢は京都近郊の西岡の人々により、無理やり殺害され具足を奪われたとあります。

細川高国の敗残兵が一揆勢に遭遇した話なのですが、つまりは落武者狩りに遭ったという事なのでしょう。

落武者狩りと言えば、大将の首が狙われる様に思うかも知れませんが、実際には兵士が持っている具足などの所持品も奪うのが普通だったわけです。

落武者狩りへの復讐

足利義視が落武者狩りに遭遇

応仁の乱が勃発すると、1468年に足利義視が伊勢国に落ち延びて行きました。

伊勢に向かう途中に、田上荘の民衆が足利義視を落武者だと判断し、落武者狩りを実行しようとした話があります。

田上荘の荘民らは足利義視の身ぐるみをはぎ取り危害を加えようとしますが、足利義視は身に着けていた刀剣を差し出し許されました。

足利義視にとっては屈辱的な出来事だったわけです。

足利義視の逆襲

足利義視は伊勢で態勢を立て直し、兵士1万と五百騎を手に入れ上洛する事になります。

しかし、足利義視は田上荘の者達に落武者狩りをやられた事を恨んでいたわけです。

今度の足利義視は軍勢を引き連れており、落武者狩りの復讐として田上荘を焼き討ちにしてしまいました。

落武者狩りというのは、相手を逃がしてしまえば復讐される事もある例だと言えるでしょう。

足利義視も決して「助けれくれてありがとう。この御恩は忘れません」などとは、行動を見る限り思わなかったはずです。

将軍経験者であっても容赦ない落武者狩り

室町幕府は1573年に征夷大将軍の足利義昭が、織田信長に京都を追放された事で滅亡しました。

足利義昭が追放された後に、落武者狩りにあった話が吉田神社の吉田兼見の日記に記されています。

吉田兼見の日記によると追放された足利義昭は直ぐに一揆に襲撃され、所持品を奪われたとあります。

つまりは、落武者狩りに遭った事になるでしょう。

信長公記にも足利義昭の様子が描かれており「貧報公方(貧乏公方)と嘲笑され気の毒だった」と書かれています。

室町幕府の最高職である征夷大将軍経験者である足利義昭であっても、落ちぶれれば容赦なく落ち武者狩りが待っていたと言えるでしょう。

昼間でも落武者狩り

落武者狩りと言うのは、人里離れた山奥で夜遅くに行われるものだと思うかも知れません。

しかし、実際には市街地で白昼堂々と落武者狩りが行われていた事が分かっています。

1509年に京都市街で細川高国の被官と大内義興の被官が、地子相論で争いました。

地子相論は徴税を巡る争いですが、大内氏の被官が敗れています。

敗れた大内氏の被官に対し見物人が追いかけまわし、身ぐるみを剥ぎ所持品を奪い、さらには命まで奪ってしまいました。

争いとは無関係の見物人が白昼堂々と大内氏の被官に対して、落武者狩りを行ったと言えるでしょう。

さらに、丸裸にしたとする記録もあり、凄惨な事件でもあったはずです。

勿論、民衆の大内氏の被官に対する日頃の苛立ちもあったのかも知れませんが、敗者には容赦なく落ち武者狩りを行った事が分かります。

隙あらば落武者狩り

比叡山延暦寺と本願寺の対立が頂点に達しました。

比叡山本延暦寺は大谷本願寺の破却に動く事になります。

こうした中で近江堅田の武装した一向宗が本願寺の援軍として現れる事になります。

この時の状況でいえば比叡山延暦寺と本願寺の宗教戦争のはずですが、京都の民衆が隊列を組み現れた話があります。

京都の民衆は僧兵たちが持つ刀などに興味を示し、落武者となった場合は、太刀を奪い取ろうと考えたわけです。

落武者狩りではなく落僧狩りになるのかも知れませんが、当時の民衆は隙あらば奪ってやろうという魂胆が見え見えでした。

室町社会では盗みは重罪でしたが、落武者狩りは世間から認められた行為だったのでしょう。

権力者も認めた落武者狩り

落武者狩りを指示する室町幕府

永享六年(1434年)に比叡山延暦寺が強訴し、日吉社の神輿を京都市街に入れようとしました。

室町幕府では比叡山延暦寺に対し、大名たちに守りを固めされるだけではなく、民衆には「比叡山の者どもを待ち構え東に逃げるのであれば、落武者狩りを行い、具足を剥げ」と命じています。

時の将軍である足利義教は自ら民衆に、落武者狩りを指示した事になります。

これは室町幕府公認の落武者狩りという事になるのでしょう。

権力者の方も落武者狩りを上手く使えば役立つと考えていた事も分かる例です。

赤松円心の落武者狩り

1336年に九州の多々良浜の戦いで勝利した足利軍は上洛戦争を起こし、備中で朝廷軍を破りました。

足利尊氏に味方する赤松円心は、朝廷軍の武将である和田範長を捕虜にしようと画策しました。

この時の赤松円心は「落武者が通る。打ち留め。物具を剥げ」と命令しており、落武者狩りを指示した事になります。

赤松円心の落武者狩り令は効果を発揮し、2,3000人の人々が集まり、落武者狩りを行うと和田範長の軍勢は、次々に討ち取られたとあります。

和田範長は度重なる落武者狩りにより、僅か六騎まで減ってしまった話が残っています。

余談ですが、和田範長は後醍醐天皇への忠臣として名高い児島高徳の父親でもあります。

明智光秀と落武者狩り

明智光秀は本能寺の変で織田信長の殺害に成功しますが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ落武者となりました。

羽柴秀吉は当然ながら落武者狩りを指示し「道を開けておき、明智光秀が通過したなら、その場で討ち取れ」と命じています。

明智光秀は落武者狩りで命を落としたとも言われていますが、秀吉の落武者狩り令により最後を迎えたとも言えるでしょう。

日本で一番有名な落武者狩りにより命を落とした人物が、明智光秀ではないかと感じています。

落武者狩りの対象は人だけではない

火事場泥棒

足利義満を幼少時から管領として補佐してきた細川頼之が、康暦の政変により失脚しました。

康暦の政変により細川頼之は分国である讃岐に落ち延びて行く事になります。

この時の様子が三条公忠の日記である後愚昧記に書かれています。

後愚昧記によると、細川頼之が去った後の京都の頼之邸に多くの人々が集まったと言います。

細川頼之の京都の邸は主不在となり、屋敷を破壊し財産を奪ったとあります。

落武者狩りと言うのは、人間に対してのみ行われるものでもなく、没落した者の屋敷などにも容赦なく人々は群がったわけです。

南北朝時代に斯波高経が政争に敗れて越前に没落した時に、京都の自邸を焼いて越前に向かったのも分かるのではないでしょうか。

室町の人々は火事場泥棒も平気で行っていたと言えるでしょう。

邸宅を放火してから没落

畠山義就は1460年に京都から没落しました。

この時に京都の邸宅に火を放った事も分かっています。

当然ながら焼け跡から何か出て来るかも知れないと多くの人が群がりました。

応仁の乱で西軍の援軍として駆け付けた大内政弘は、帰国する時に京都の陣屋に火を放っています。

ここでも翌日には、早朝から人が集まり財貨を手に入れようとした話が残っています。

没落というのは、分国に逃げれば落武者狩りの恐怖があり、京都の邸宅は略奪に遭うなどし、如何に苦難の道が待っていたのかも分かるはずです。

没落すれば命だけではなく財産も全て奪われる可能性もあったと言えるでしょう。

焼け跡から財宝

1532年8月に法華一揆により、山科本願寺が落城しました。

この時にも人々は集まり、焼け跡から多くの財貨を掠めた話が残っています。

人々は山科本願寺の焼け跡に群がり、三日目には黄金数百両が掘り出されたと言います。

一攫千金を夢見て人々が焼け跡に集まるのも分かるはずです。

この三百両を巡ってトラブルが勃発し、死人まで出てしまった話が残っています。

当時の公家などは民衆の落武者狩りや焼け跡に群がるのを苦々しく思っており、鷲尾隆康は日記に「笑うべし。笑うべし」と冷笑を浴びせました。

落武者狩りを非難する人々

落武者狩りを非難する人がいた事も分かっています。

南近江守護である六角氏綱が京都から没落した時も、直ぐに邸宅は民衆たちの餌食となりました。

六角氏綱の屋敷の近くに住んでいた中御門宜胤は、その様子を見て怒りと驚きを日記に書き示しています。

武士だけではなく上流階級の公家などの落武者狩りの対象になる為、非難の声はあったのでしょう。

もってけ泥棒

足利義持が赤松氏の当主に赤松持貞を据えようと画策しました。

既に赤松満祐が赤松氏の当主になる予定だった事もあり、赤松満祐は激怒する事になります。

怒った赤松満祐が京都の屋敷を引き払い分国の播磨に帰国しようとしました。

この時の赤松満祐は自分の屋敷に民衆を引き入れ「家の中の財宝を好きなだけくれてやる」と述べたと言います。

赤松満祐としては、自分が屋敷から離れれば民衆たちによる略奪が始まると考えており、思い切って「全部やる」と宣言したのでしょう。

正にもってけ泥棒状態だったと言えます。

民衆は容赦なく赤松満祐の蔵を壊すなど財産を奪い取りますが、赤松満祐は静かに見ていたと言います。

赤松満祐は最後に邸宅を焼き播磨に戻りました。

この時の赤松満祐は大名たちがとりなした事で幕政復帰していますが、後に足利義教を暗殺するなどしています。

落武者狩りの対象は武士だけではない

僧侶も落武者狩りの大将

1349年に室町幕府内で観応の擾乱が勃発し、高師直の御所巻により足利直義が失脚しました。

高師直が政争で勝利した事で、上杉重能や妙吉なる僧が没落する事になります。

高師直は上杉重能の一味の屋敷などを部下への恩賞としました。

さらに、僧の妙吉の宿所を浮浪者たちへの掠奪を許しています。

ここでも落武者狩りならず、落僧狩りになるのかも知れませんが、落武者狩りの対象が武士だけに終わらなかった事を指す事例です。

医師も落武者狩りの対象

1367年に室町幕府の二代目征夷大将軍である足利義詮が亡くなりました。

足利義詮はアル中で30代にして、没したとも伝わっています。

この時に足利義詮の主治医をしていたのが、昌阿弥なる人物です。

昌阿弥は義詮の信頼を得て、義詮は昌阿弥以外の診察を拒んだとする話もあります。

この信頼が裏目に出たのか、足利義詮が亡くなった責任は「昌阿弥にある」とされました。

幕府の侍所は昌阿弥の住居を調べるなどの行為に出ます。

この時に侍所が昌阿弥の住居を没収するだけではなく、民衆に「壊して取れ」と命令しました。

没落した昌阿弥の住居から財産を奪えと、民衆に命令した事になるでしょう。

医師であっても没落すれば財産を奪われるのが室町時代です。

織田信長の落武者狩りを指示

織田信長も落武者狩りを指示した話が残っています。

1573年に足利義昭が籠城する二条城を織田信長は包囲する事になります。

二条城に向かう最中に信長は土民百姓に「乱入せよ」と指示したと言います。

足利義昭は戦いに敗れ最終的に室町幕府は滅亡しますが、洛中洛外取次第となり、多くの人々が足利義昭の財産を奪おうと躍起になったわけです。

先にも紹介した様に足利義昭自身も落武者狩りにより所持品を奪われるなど、室町幕府の滅亡は悲惨なものだったと考える事が出来ます。

歴史を変える可能性があった落武者狩り

明智光秀による本能寺の変で織田信長は亡くなりました。

この時に、徳川家康は堺にいたと伝わっています。

徳川家康は服部半蔵の助けで伊賀越えを行い無事に本拠地である三河に戻る事が出来ました。

しかし、ここで徳川家康が落武者狩りで命を落としたのであれば、徳川幕府は誕生しなかった事もあり、全く違う歴史になっていた事でしょう。

それらを考慮すれば、落武者狩りで亡くなってしまった人が仮に生きていたらと考えると、歴史を変えた可能性は十分にあるという事です。

落武者は法の外の存在

室町時代において、没落したの者は「法の外にある者」とする扱いとなります。

当然ながら室町時代であっても盗みは重罪でしたが、法の外にある者に対しては財産を奪ったり、命を奪う事も悪い事だとはされていなかったわけです。

こうした事情もあり、落武者に対しては容赦なく略奪したのが室町の世界となります。

現代と中世では別世界だと言えるでしょう。

落武者狩りの動画

落武者狩りのゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は清水克行先生の喧嘩両成敗の歴史をベースに作成しました。

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