鎌倉幕府

六条有忠は息子を勘当していた

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宮下悠史

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名前六条有忠
生没年1281年ー1339年
主君後宇多天皇ー後二条天皇ー邦良親王
一族父ー六条有房 子:六条有光、千種忠顕、六条有顕
年表1319年 権中納言に就任
コメント千種忠顕を勘当した

六条有忠は六条有房の子であり、鎌倉時代から南北朝時代に掛けて生きた人物です。

1319年に六条有忠は権中納言となりますが、暫くして辞任しました。

六条有忠は大覚寺統の後宇多天皇に仕え邦良親王にも仕えた人物です。

しかし、息子の千種忠顕が後醍醐天皇に仕えた事で関係が悪化し、千種忠顕を勘当した話も伝わっています。

六条有忠は邦良親王が亡くなると出家し、1339年に世を去る事になります。

六条有忠は享年59歳だったと伝わっています。

大覚寺統に仕える

六条有忠は公家の家柄であり後宇多天皇の元で昇進しました。

後宇多天皇は両統迭立では大覚寺統であり、治天の君となると後醍醐天皇を即位させ、皇太子を邦良親王としました。

当時の大覚寺統は花園天皇に譲位させると治天の君、天皇、皇太子を独占し持明院統を圧倒していたわけです。

こうした中で六条有忠は皇太子の邦良親王に仕える事になります。

因みに、六条有忠の子の六条有光も同じく邦良親王に仕えました。

後宇多天皇の死後に正中の変が起きますが、六条有忠は邦良親王を即位させる為に、鎌倉幕府との交渉役にもなっています。

しかし、邦良親王は1326年に亡くなっており六条有忠に暗雲が立ち込める事になります。

邦良親王が亡くなると六条有忠は出家しました。

息子を勘当

六条有忠の子の一人が千種忠顕です。

若年の頃の千種忠顕は博打や淫乱な事に夢中になり、学問も積極的に学ぼうとしなかった事で六条有忠は義絶した話があります。

義絶と言うのは、現代でいえば勘当にあたり親子の縁を切った事になります。

しかし、現在では六条有忠が千種忠顕を勘当したのは素行が悪かった事だけが原因ではなかったと考えられる様になりました。

大覚寺統の系図を見れば分かりますが、大覚寺統の直系でいえば後宇多天皇ー後二条天皇ー邦良親王のラインが直径となります。

後宇多天皇は後醍醐天皇を即位させはしましたが、「一代主」としており、邦良親王に皇位を継がせようと考えていたわけです。

ただし、後醍醐天皇は自分の子孫を天皇にしようと考えており、邦良親王が亡くなった時も我が子である尊良親王を後継者にしようとしました。

邦良親王が生前だった頃から後醍醐天皇と仲が悪く、邦良親王は後醍醐天皇に仕える千種忠顕を疎ましく思っていたわけです。

六条有忠と六条有光が相談し、千種忠顕を義絶したとも考えられます。

ただし、千種忠顕は後醍醐天皇に味方し足利尊氏の寝返りもあり、六波羅探題を滅ぼしています。

尚、息子の千種忠顕は九州から復活した足利尊氏により1336年に亡くなりました。

六条有忠は1339年まで生きており、勘当した息子よりも長生きした事になります。

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