室町時代 鎌倉幕府

両統迭立が南北朝の深淵になっていた

2024年8月5日

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宮下悠史

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名前両統迭立
時代鎌倉時代
コメント大覚寺統と持明院統で治天の君や天皇を交互に排出する仕組み

両統迭立は鎌倉時代に誕生した持明院統と大覚寺統で交互に天皇を出す仕組みです。

承久の乱で後鳥羽天皇が鎌倉幕府に敗れてから、朝廷は武力で幕府に敵わない事は明白となりました。

さらに、幕府は皇位継承にも口を出す様になります。

こうした中で後嵯峨天皇が即位し、後に後嵯峨天皇は後深草天皇に譲位を行い院政を始めました。

治天の君である後嵯峨天皇は弟の恒仁親王(亀山天皇)を後継者にしようと考え、後深草天皇に退位する様に迫ったわけです。

後深草天皇は譲位しますが、後嵯峨天皇は亀山天皇の子である世仁親王(後宇多天皇)が次の天皇になる様に指示しました。

世仁親王が天皇になってしまえば、後深草天皇の子は天皇になる事が出来ず、これを気の毒に思った執権の北条時宗が両統迭立を考案しました。

両統迭立により後深草天皇の子も天皇に即位する事が出来る様になり、大覚寺統と持明院統で交互に天皇が出される仕組みが出来たわけです。

後に両統迭立に不満を持ったのが後醍醐天皇であり、後醍醐天皇は自分の子に天皇に就かせるべく動き、最後には鎌倉幕府を倒してしまいました。

尚、南北朝時代の深淵には両統迭立があると考えている専門家も多いです。

今回は両統迭立を分かりやすく簡単に解説します。

鎌倉幕府と皇位継承

1231年に起きた承久の乱で後鳥羽上皇は幕府を討とうとしますが、逆に返り討ちにされてしまいました。

後鳥羽上皇や順徳天皇などは配流されています。

戦いに勝利した鎌倉幕府では後鳥羽上皇の院政に代わる朝廷を作り出す必要が出て来たわけです。

鎌倉幕府は後鳥羽上皇の異母兄の後高倉院が政務を執る事になります。

後高倉院は天皇を経験しておらず、治天の君となるのは異例の出来事となりました。

幕府は後鳥羽天皇の系譜である順徳天皇、仲恭天皇とは別の系統を創り出そうとしました。

幕府は皇位継承に介入し、後高倉統の安定が幕府支配の安定に繋がるとも考えたのでしょう。

後高倉院統は後堀川天皇、四条天皇と続きますが、四条天皇が幼くして亡くなると途絶えてしまいました。

ここで土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇が即位したわけです。

尚、四条天皇が亡くなった時に、順徳天皇の子である忠成王が天皇になる話もありましたが、順徳天皇は既に佐渡に流されていましたが、存命していました。

忠成王が天皇になると幕府を恨んでいるであろう順徳天皇が京都に戻り院政をする可能性があった事から、北条泰時が嫌い後嵯峨天皇が即位した経緯があります。

後嵯峨天皇の時代に両統迭立の原因が出来上がる事になります。

朝廷と幕府の思惑

後嵯峨天皇は1246年に後深草天皇に譲位を行い院政を開始しました。

この頃に朝廷で権力を持っていたのが、後嵯峨天皇が即位するにあたり功績があった土御門定通と九条道家でした。

九条道家は関東申次となっており、幕府と朝廷の橋渡しもしています。

九条道家は自らの子である藤原頼経が鎌倉幕府の四代将軍となっており、幕府との繋がりから権勢を保持していたわけです。

藤原頼経は鎌倉幕府の執権に対する不満の受け皿にもなっており、求心力を持っていました。

藤原頼経は将軍職は子の藤原頼嗣に譲りましたが、大殿として権力は保持し続けています。

鎌倉幕府の執権北条氏にしてみれば、藤原頼経に求心力は集まるのは厄介な事であり、後嵯峨天皇の方でも九条道家が力を持つ事を嫌がりました。

1246年に藤原頼経の側近で北条一門の名越光時が四代目執権であった北条経時の死に乗じて乱を起こそうと企てています。

第五代執権である北条時頼は素早く察知し、藤原頼経らは敗れ、後に藤原頼経は京に還されています。

これが「宮騒動」であり、九条道家は乱を企てたと疑われ失脚しました。

新たに関東申次は西園寺実氏がなり、九条道家は解任されています。

これにより九条道家は完全に力を失いました。

幕府は九条道家の様な特定の貴族が力を持つのを嫌がり、評定衆を選出し後嵯峨天皇の御前で行う院評定という制度を作っています。

幕府としては後嵯峨院政の強化を狙ったのでしょう。

後嵯峨院政は幕府との協力路線で事を進めており、後嵯峨院政は安定を見せる事になります。

しかし、後嵯峨天皇は後深草天皇の同母弟である恒仁親王(亀山天皇)に譲位させようと考え実行しています。

後の事を考えれば後嵯峨天皇の決断により、両統迭立が起こる基盤が整えられたと言ってもよいでしょう。

後深草天皇と亀山天皇の家系が持明院統と大覚寺統になって行きます。

尚、後嵯峨天皇が亀山天皇を即位させたのは、亀山天皇の利発さを愛し将来を期待した為だと言われています。

後嵯峨天皇は亀山天皇を将来の後継者に考えていた様で、後深草天皇の子に熙仁(伏見天皇)がいたにも関わらず、亀山天皇の子の世仁(後宇多天皇)を皇太子に指名しました。

これにより多くの人々は後嵯峨天皇、亀山天皇、世仁で皇位が継承されると思ったはずです。

尚、後嵯峨天皇は兄の後深草から弟の亀山に天皇を交代させましたが、父親が兄がいるのに弟を天皇にさせた場合は、父親と弟が強く結びつく例が多いと言えます。

後嵯峨天皇の遺書

後嵯峨天皇は1272年に崩御しました。

後嵯峨天皇の遺書が開封されると、遺産相続などの事も記録されており、後深草天皇にも多くの土地を与えています。

当然ながら亀山天皇も多くの土地を手に入れ、皇室は経済的にも分裂する事になります。

後深草と亀山の手にした土地から、後深草の系統が持明院統となり、亀山の系統が大覚寺統となりました。

ここで問題が出るのですが、何故か後嵯峨天皇は「治天の君」を誰にするのか明記しなかったわけです。

五代帝王物語によれば「治天の君に関しては幕府に選んでもらう様に」と指示があったとされています。

朝廷では幕府に相談をしますが、後嵯峨天皇が崩御した1272年は、幕府内では二月騒動と呼ばれる大事件がありました。

二月騒動は執権である北条時宗の威信に関わる様な事であり、幕府は朝廷の治天の君に関する対応が遅れたわけです。

北畠親房の「神皇正統記」によると、幕府は両者の母親である大宮院に話を聞いたところ、後嵯峨上皇は「亀山を後継者にしようと考えていた」とする話があり、治天の君は亀山となりました。

後嵯峨天皇が後継者を指名しなかった理由

大覚寺統と持明院統による両統迭立が行われるわけですが、最大の謎は後嵯峨天皇が後継者を指名しなかった理由についてでしょう。

後嵯峨天皇が後継者を幕府に決めさせた最大の原因は、後嵯峨天皇が鎌倉幕府を信頼していたと言うのがありそうです。

後嵯峨天皇の即位の経緯を見ると分かりますが、幕府の力添えなしでは即位する事が出来ませんでした。

本当であれば天皇になる見込みのない後嵯峨天皇を践祚させ即位させたのは幕府であり、後嵯峨天皇としても朝廷と幕府は協調してやって貰いたいと言うのがあったのでしょう。

さらに、九条道家が権力を握った時も幕府と協力して、権力を削ぎ、幕府は後嵯峨天皇の権力が高まる様に取り計らってくれています。

後嵯峨天皇は幕府が決定した人物が治天の君になれば、幕府が朝廷に対しても協力的になり物事はスムーズに進むと考えたはずです。

後嵯峨天皇の幕府を尊重する姿勢が後継者を指名しなかった事に繋がったのでしょう。

両統迭立の契機

1274年に亀山天皇は自らの子である世仁に譲位し上皇となりました。

世仁が後宇多天皇です。

これにより普通であれば、亀山の家系が皇位継承を行い兄の後深草の系統は天皇になる事が出来ないわけです。

後深草は出家し、鎌倉幕府の最高権力者である北条時宗が動く事になります。

北条時宗は「後深草が何の問題も起こしていないのに皇位継承から外れるのはよくない」としました。

記録によると北条時宗は後深草に同情し、後深草の子である熙仁に皇位を譲らせようと取り計らう事になります。

後嵯峨天皇は幕府と協調路線で歩んできた過去があり、亀山天皇も幕府に異を唱える事が出来なかったわけです。

結果として、後深草の子である熙仁が皇太子となり、熙仁が後の伏見天皇となります。

北条時宗が皇位継承に対して口出しして来たのは、元寇が関係しているとも言われています。

後嵯峨天皇は1274年の正月に崩御したわけですが、この年は元寇の年でもあり、実際に元の大軍が九州に攻め寄せて来た文永の役の年でもありました。

北条時宗は国内を一致団結させ大国元を迎撃する体制を作り出したいと考えており、剛腕で一気に朝廷内の争いを鎮めてしまったとも考えられています。

ほかにも、関東申次の西園寺実兼の妹の嬉子は亀山に嫁いでいましたが、寵愛が薄く亀山を恨み後深草と結託した話もあります。

西園寺実兼と後深草は協力して鎌倉幕府に働きかけ功を奏したとも言えるでしょう。

最終的には幕府の意向により両統迭立の仕組みが出来たわけです。

徳政令と両統迭立

両統迭立において永仁の徳政令が幕府の発言力を大きくしたとする見解があります。

永仁の徳政令は鎌倉幕府が御家人を救う為に「借金の帳消し」をしたとする見方が強いです。

実際には永仁の徳政令の借金の帳消しは一部であり、御家人の為の社会正義を実践させる事が狙いでした。

永仁の徳政令の「借金帳消し」に関しては六波羅探題にも通達され「売った所領をタダで取り戻せる」との条項は、たちまち全国に拡がったわけです。

該当者は徳政令の内容を知ると直ぐに行動を起こしました。

鎌倉幕府は本来は御家人を統括する為の組織であり、基本的に御家人以外の者は管轄外となります。

しかし、永仁の徳政令の内容を知ると非御家人までも鎌倉幕府を頼る事になりました。

後に神領興行令が出され実効支配出来ない状況になってしまった寺社所領を、実効支配出来る様に命じています。

永仁の徳政令の寺社向けに発布されたのが神領興行令となります。

寺社は神領興行令のお陰で担保により質に流されてしまった所領を無条件で取り戻せる事になります。

これにより多くの寺社が鎌倉幕府を頼る様になります。

勿論、貸した側は鎌倉幕府に借金を帳消しにされ恨んだはずですが、非御家人も幕府を頼り幕府の求心力が増したとする見方も出来ます。

鎌倉幕府側としては御家人以外にも頼られる事は想定外であり、困惑していたとも考えられています。

後には悪党の取り締まりも幕府が行う様になり、鎌倉幕府末期は鎌倉幕府の全盛期とも言える状態だったともされているわけです。

逆を言えば、朝廷が寺社などに対する求心力を失ったとも見れます。

両統迭立の背景には鎌倉幕府の求心力の増加と朝廷の求心力の低下が見てとる事が出来ます。

両統迭立が制度化

後に亀山上皇の悪い噂が流れた事もあり、後深草側である持明院統が有利な状況となります。

大覚寺統の亀山は自身の正統性を訴えますが、伏見天皇も負けじと「奏事目録」などを理由に持明院統の正統性を訴えました。

1298年に大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)が皇太子になってからは、幕府が大覚寺統も持明院統も断絶させない方針を打ち出す事になります。

これにより両統迭立が基本方針となったわけです。

両統迭立で善政を競った!?

両統迭立と言えば、皇統の分断などのイメージがあり負のイメージが強いのかも知れません。

後嵯峨天皇は「徳政」を基本方針としましたが、両党のどちらが徳政を体現できるのかで競い合っていた話もあります。

持明院統も大覚寺統も出来る限り治世を長くしたいと考え、徳政に励んでいたわけです。

徳政の主軸は訴訟制度であり、何度も改革が試し見られました。

三国志で晋の羊祜と呉の陸抗が善政を競い合った話がありますが、持明院統と大覚寺統も善政を競いあった部分もあるのでしょう。

大覚寺統と持明院統の性質

両統迭立は大覚寺統と持明院統を交互に排出する仕組みでしたが、両党の性質は異なります。

持明院統は本来であれば皇統から外れたわけですが、鎌倉幕府の鶴の一声により治天の君や天皇を輩出できるようになったわけです。

こうした事情もあり、持明院統では鎌倉幕府との協調路線を基準としました。

当時は元による対外的な危機もあり「天皇家は幕府を頼りとし、幕府は皇統を輔弼する」という考えが出来上がります。

持明院統が南北朝時代に北朝となり、足利尊氏に立てられたのも分かる気がするのではないでしょうか。

逆に大覚寺統では「自らが正統」だとする考えが強く、幕府に依存する事無く、自らの力で朝廷を掌握し皇位継承を行うとする考えが強くなります。

後醍醐天皇は変異的な人物とも考えられがちですが、実際には後醍醐天皇の思想を成就させる土壌が大覚寺統には既にあったわけです。

後に後醍醐天皇は吉野で南朝を開きますが、大覚寺統の思想で言えば当然の結果でもあったのでしょう。

持明院統と大覚寺統の創始者である後深草と亀山は仲が良かった話もありますが、思想において両党は相いれない存在になって行きました。

代が変われば親密さも無くなり、対立は激しくなっていきます。

持明院統と大覚寺統の天皇

持明院統

後深草ー伏見ー後伏見ー花園ー光厳(北朝

大覚寺統

亀山ー後宇多ー後二条ー後醍醐(南朝)

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