名前 | 柳花 |
読み方 | りゅうか |
生没年 | 不明 |
勢力 | 東扶余 |
一族 | 父親:河伯 子:朱蒙 |
柳花は初代高句麗王である朱蒙の母親であり三国史記の高句麗本紀などに記述が存在します。
柳花は河伯の娘を名乗っています。
河伯と言うのは、史記の西門豹の話に出て来る様に河の神となるのでしょう。
柳花は天帝の子を名乗る解慕漱におかされてしまい、後には東扶余の金蛙王により幽閉されています。
しかし、柳花には神秘的な事が起こり、卵を生み朱蒙が誕生しました。
朱蒙が後の東明聖王であり、初代高句麗王となります。
母親となった柳花は朱蒙を良い方向に導くなど賢母ぶりも見せています。
尚、日本書紀では天智天皇の時代に高句麗が唐に滅ぼされ、その時の朱蒙と柳花の言葉が掲載されています。
今回は初代高句麗王の母親である柳花を解説します。
河伯の娘
扶余は解夫婁王の時代に、太子を金蛙と定め阿蘭弗の進言により首都を迦葉原に移し東扶余と名乗る様になります。
扶余の故地に入ったのが天帝の子孫を名乗る解慕漱だったわけです。
金蛙王が太白山の南にある優渤水で一人に女性と出会いました。
金蛙王と出会った女性が柳花です。
金蛙王が柳花に「何者なのか」と問うと、次の様に答えました。
※三国史記 高句麗本紀より
柳花「私は元は河伯の娘であり、名を柳花と言います。
私は弟たちと外に出て遊んでいたのですが、一人の男性がやってきて、自らを『天帝の子・解慕漱である』と名乗りました。
私を熊心山の麓に誘い鴨緑江付近の部屋の中に連れて行き、私の体をおかしたのです。
事が終わると解慕漱を名乗る男は去っていき、そのまま戻っては来ませんでした。
私の父母はこの話を知ると仲人を立てずに、男の言うがままにしたと責められ、追い出されてしまいました。
それで仕方がなく優渤水の畔に住んでいるのです」
柳花は親に勘当されてしまい優渤水の近辺にいると、金蛙王に伝えたわけです。
河伯の娘が登場する辺りは、神話的な要素が強いと言えるでしょう。
卵を生む
金蛙王は柳花を怪しみ、幽閉したとあります。
柳花は河伯の娘を名乗っており、何かしらの利用価値があると考え幽閉した様にも感じています。。
しかし、ここで不思議な現象が起こりました。
柳花に日が照るので避ければ、日の光が追従し、それによって妊娠しました。
さらには、柳花は卵を生んだとあります。
この卵は五升程の大きさだったと伝わっています。
金蛙王は柳花が生んだ卵を棄てたり破壊しようとしますが、卵は不思議と壊れる事もせず、遂には金蛙王は柳花に卵を返しました。
朱蒙の誕生
卵を還された柳花は物で卵を覆い暖かい所に置いたと言います。
鳥などが卵を温める様に、柳花も卵を温める事にしたのでしょう。
暖かい場所に卵を置くと、勝手に卵が割れ殻の中から一人の男性が出て来ました。
出てきた男性の体つきは極めて立派で品格があったと伝わっています。
この卵から出てきた男性が後に朱蒙と呼ばれる事になります。
賢母の教え
朱蒙は文武に優れた者として育ちますが、金蛙王の子である帯素王らは「朱蒙は後の禍になる」と訴え処刑する様に進言しました。
金蛙王は帯素王の言葉を聞いても、実行に移さなかったわけです。
しかし、柳花は朱蒙の身を案じ、次の様に述べています。
※三国史記 高句麗本紀より
柳花「国人たちは貴方の命を奪おうと考えています。
貴方ほどの才能があれば、何処に行っても問題ありません。
ここにいても害されるだけですから、それなら遠くに行き事を計った方がいい」
柳花は朱蒙に出奔する事を勧めました。
金蛙王と出会った頃の、柳花は親に勘当された頼りない娘にも見えましたが、この頃には賢母に成長していた様にも感じました。
柳花の言葉を聞いた朱蒙は、東扶余を去る事を決意し烏伊、摩離、陝父らを連れて出奔し、後に高句麗を建国する事になります。
柳花の最後
朱蒙は高句麗を建国しましたが、柳花は東扶余にいた様であり、東明聖王(朱蒙)の14年(紀元前24年)に東扶余で亡くなったとあります。
東扶余の金蛙王は太后の礼を以って、これを葬ったとあります。
さらに、金蛙王は神廟を建てるなど、最大限の礼を尽くしました。
高句麗の朱蒙の方でも東扶余に贈り物をおくり、その特に報いたとあります。
高句麗の滅亡を予言
日本書紀の天智天皇7年(西暦668年)10月に唐の髙宗は、英公(李勣)による高句麗への軍事遠征を行わせています。
これにより高句麗は滅亡するわけですが、高句麗が建国される時に中牟王(朱蒙)が「国が千年存続して欲しい」と願いました。
しかし、母親(柳花)は「国を非常によく治めたとしても、せいぜい700年位のものではないか」と述べています。
日本書紀によれば、柳花の予言が当たり、この年が高句麗が誕生してから700年後の事だったと記述しています。
高句麗の建国には諸説ありはっきりとしませんが、三国史記の記述を見ると朱蒙は紀元前37年に独立を果たしており、これを信じると700年よりも少しだけ延命した事になるはずです。
柳花と朱蒙の高句麗の滅亡を予言した話は三国史記にはありません。